深刻な不治の病として、「マイウー症候群」という病気が医学界から発表されて久しい。人命に危険をもたらす可能性のあるこの病は、日本のみならず、世界各国で猛威を振るっている。
患者達の主な症例としては、精神の破綻が挙げられる。
例えばこんな状況。
夜間のスポーツニュースも終わり、さてそろそろ床に着くかと考え始めた午前一時、青天の霹靂の如く脳裏に浮かぶ一つのテーゼ、「ラーメン食いたい」である。
この想念に憑かれたが最後、患者は向こう三時間ばかりラーメンの事しか考えられなくなるのである。コシを残して茹でられた味わい豊かな麺、芳醇なダシの香りのスープ。それらを複雑に絡めつつ勢い良く啜る我が身を夢想する事で、眠ってなどいられなくなるのである。漫画の表現として「金の事ばかり考えている人間の目の中を¥マークで表現する」という日本古来の伝統的な技法があるが、その技法に沿って考えるならば、この時の患者の目の中は「ラーメンマーク」で表現されるのが最も適切である。
「ラーメン食いたい」
「今食うと太る」
「そしてオレは太っている」
苦悶と懊悩の時を過ごし、眠れぬ目をこすりながら明け方に近所のコンビニへカップラーメンを買いに行くその様は、まさに薬物中毒患者のそれである。完全に精神が破綻していると言わざるを得ない。
さて、この恐ろしき「マイウー症候群」であるが、私も勿論この病に冒されている。医学の専門家によれば、私の余命は残り短ければ二日、長ければ七十年という事らしい。自らの余命を宣告される事ほど残酷な事は無いが、私には残された限り有る余命を懸命に生きる義務があると思い、今日も一日を生きている。
そんな私を遥かに凌駕する程の重篤な「マイウー症候群」の患者が、私の友人にいる。「石田ゆうすけ」というのが彼の名だ。物書きとして数冊の本を上梓し各地で好評を博している為、その名前を見知り置いている方も少なくないかも知れない。
彼の病状は極めて深刻だ。医師から彼の病状について「残念ですが…持って…あと六十年…」という言葉を聞いた時には私もがっくりと肩を落とした。友人である彼の事ゆえ、無念さを禁じ得ない。
そもそも、マイウー症候群の発症の原因として挙げられるのは、脳の異常である。何かを「食べた」時、仮にそれが「美味かった」時(ここで言う「美味い」という概念は形而上学的かつ観念的ゆえに多義的な意味を含むが、ここでは説明を割愛する)、脳味噌からは快楽物質である汁(通称:脳汁noujiru)がちゅるちゅると出る。
「うまい…」
小声でそう呟いた時に、更にちゅるっと汁が滲む。
返す刀での咆哮。
「美味いぞーっ!!!!!!!!!」
この時には汁は滲み出るというレベルを越え、「溢れ出る」。脳味噌が脳汁で水の都ヴェネツィアになってしまうのである。
この快楽物質の魔力に、我々患者達は文字通り「溺れる」のだ。一度その甘美な瞬間を味わった者は、「うまいもんはねえが、うまいもんはねえが、泣ぐ子はいねが」と譫言のように呟き、宛てどもなく街から街へと彷徨ってしまう。
前述の石田ゆうすけであるが、彼に関してはその症状は最早末期である。症状の最も酷い形として著されたのが、彼の最新作『台湾自転車気儘旅〜世界一屋台メシのうまい国へ』である。このタイトルからも彼の重篤ぶりは想像に難くないだろうが、帯に記されたコピーは「台湾一の“うまい”をめぐる旅」である。完全に「お気の毒様」レベルのマイウー症候群患者である。
彼の「うまい欲」は凄まじい。渇えた砂漠が水を欲しがるその欲求のように(砂漠に欲求があるかどうかは疑問だが)、彼は日々「うまい」を求めている。自身のブログには近所の「世界一美味い焼鳥屋」や、京都木屋町の「奇跡のおでん屋」などが日々紹介されている。
その欲求が、日本だけには飽き足らず、「台湾を自転車で一周しながらひたすらにうまいものを探す」という暴挙に彼を駆り立ててしまった。
しかも彼は台湾一周の最中に事故に遭い、鎖骨を骨折し一時帰国の目に追いやられたにも関わらず、暫くして六割ほど骨がくっついた辺りで「もう行ける、もっかい行ける」と再び台湾へ飛び、事故に遭った地点から再び自転車を漕ぐというキチガ…いや、貪欲ぶりである。まさに「うまい欲」の化身である。「うまい神」である。
その彼が渾身の力を込めて上梓した『台湾自転車気儘旅』。これは大変によろしくない本に仕上がっている。
日中、電車の中で本書を読んでいた場合。そこに「清燉牛肉麺が信じられないぐらい美味い」などという事が色鮮やかな写真と共に書いてあるのである。私の頭は「麺食いたい」という想念で充満し、目的地の駅に降り立った時には「うまい麺はねえが、うまい麺はねえが、泣ぐ子はいねが」と呟き、当初の目的(仕事など)はすっかり忘却の彼方へ、私は麺を求めるジャンキーとなり、その辺のラーメン屋にふらふらと入ってしまうのである。そして私はまた太るのである。
更にこれが寝しなに読むと一層にタチが悪い。小籠包のページを読んでいたならば、「上杉達也は浅倉南を愛しています、世界中の誰よりも」というノリで「福島剛は小籠包とビールの組み合わせを愛しています、世界中の誰よりも、例えそのせいで太ろうとも」と甲子園の公衆電話から告白してしまう。そして食べたくなってしまう。そしてまた私は太るのである。
これほどまでに食欲を駆り立てるこのような本は、有害図書に選定しなくてはならない。国が法律で規制せねばならない。
これ以上マイウー症候群の患者が増えれば、まさに国家の危機なのである。この有害図書は、国家転覆を目論んで書かれた本である事は疑いようの無い事実である。
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以下、あまりエンターテイメントしない(正直な)感想。読み飛ばし推奨。
正直に言えば、彼が「次回作は台湾メシ本」と言った時に、私には多少の不満感があった。ご存知の方も多いとは思うが、彼は七年半に及ぶ自転車世界一周というキチガ…いや愉快な偉業を達成した男である。これまでに数冊刊行された彼の著作は、その殆どが世界一周旅行に纏わるものであった。
それが「次は台湾本」と言われた時に私の脳裏に浮かんだのは、「世界一周から台湾一周って、スケールダウンがすごくね?」である。
しかし、その不満は本書を読み進める内に、極めて浅はかな考えだった事を思い知らされる事になる。
結論から言ってしまえば、「どこにでもドラマはある」。
大袈裟な言い方になるが、我々がこうして当たり前に暮らしている事そのものが、大変にドラマチックな事であるのだ。幾代にも連なる祖先の連綿たる系譜として生きている「私」。そこにはドラマがあり、歴史がある。人里離れた秘境にしか物語がある訳では決して無い(無論、「そういう所」にも、在る)。
今作の中で、彼は「台湾の食」を縦の軸に定めながら、横の軸としてそれに纏わる人々や国家の歴史を、軽々とした筆致で鮮やかに描き出した。
先程書いた「どこにでもドラマはある」という事を、世界を自転車の上から見て来た彼だからこそ言いたかったのではないだろうか、そう私は感じた。
またそういった彼の主張は、「食」をメインに据えた事で、あくまでも本題の「食」を引き立てるコラムという役割に収まり、それが絶妙な匙加減、押し付けがましさを感じさせない塩梅で我々読者にすっと入り込む事に成功した。明らかに意図的なものである、と私は感じた。或いは彼は本能的に「どうすれば自分の話を聞いてもらえるか」という事がわかっているのかも知れない。
確かに「とても腹の減る本」ではあるのだが、清々しい佳作だと私は思う。
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