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2010年10月 5日 (火)

アブドゥーラ・イブラヒム

アブドゥーラ・イブラヒム。南アフリカが産んだ奇跡のピアニスト。彼の三日間に渡る来日公演が、終わった。

東京で一回。京都で二回。幸運にして、私はその全ての公演を見る事が出来た。私なりに、その感想を書いてみたい。

幾つかのキーワードが私の中にあるのだが、その中の一つは「眩暈」である。一回目の東京公演を観ている際に、私は「眩暈」のような感覚に襲われた。身体が痺れ、視界が歪むような感覚だ。しかし不思議な事に、それは決して不快な感覚ではなかった。

同じような眩暈の感覚が、京都公演の一日目には、より強固な感覚となって顕れた。私はすぐにそれが目の前のアブドゥーラ氏によってもたらされたものだとわかった。

その感覚を、東京の初日と京都の初日に関しては、私は自らの中から排除しようとしていた。脳をよりクリアにし、アブドゥーラ氏の演奏を隅から隅まで記憶しよう。そう考えていたからだ。やって来る眩暈の感覚は、私の感知能力を鈍らせるような気がしたからだ。

京都公演の二日目、千秋楽の日。私はその感覚を受け入れる事を試してみた。案の定、演奏が始まればその眩暈はすぐに私の元へやって来た。私は覚悟を決めた。それを排除せずに、眩暈の中でアブドゥーラ氏の音を浴びよう、と。

すると、未だかつて体験した事の無い、まるでドラッグでトリップするかのような心地が私にやって来た。音楽が、或いは音そのものが、私の身体に一つずつ染み込んでゆく。その瞬間には既に音楽は「聴くもの」から「感じるもの」へと変容していたし、更には「当たり前にただそこに在るもの」へと形を変えていた。私という存在とそこにある音楽は極限まで抽象化され、分離した二つの存在から溶け合った一つの現象へと。

私は思った。アブドゥーラ氏は私を解体した、そして世界を解体した、と。

私の身体を不自然に繋ぎ留めていたネジが、彼の一音によってするすると緩められる。世界のネジもまた緩められる。私の身体が、記憶の海に溶ける。そして、音楽が全てを包み込む。

そのような感覚は、私にとっては最も非日常的な感覚であったのだが、どうやらそれは私だけに訪れた感覚ではないようだった。公演を観終わった聴衆から、「ふわふわする」、「不思議な感覚」などの感想を幾つか聞いた。それはやはり、アブドゥーラ氏によって世界を解体された痕跡なのだろうと私は思った。

彼の音は、本当にスッと身体の中に入り込む。染み込むように入り込むと言っても良い。そんなにも簡単に身体に入り込む音を私は他には知らない。そしてそれは、三年前に同じ場所で彼が紡ぎ出した音よりも、更にその様相を強めていた。

アブドゥーラ氏は、2003年と2007年にも、京都上賀茂神社にやって来て演奏をしている。私もそれは観ている。しかし、その時よりも彼の演奏は変化している。傲慢な物言いになる事を承知で言えば、彼は以前よりも上手くなっているし、良くなっている。以前の音よりも今の音の方が遥かに簡単に身体に染み込む。音楽が、音楽である事を一瞬忘れてしまうほどに自然なものになっている。これは俄かには信じ難い事だ。まさしく、奇跡だ。

幸運にも彼と喋る機会に恵まれた私は、彼に尋ねてみた。

「あなたはこれからどこへ向かうのですか?どのように変わっていかれるのですか?」と。

彼は一言、「No idea(わからない)」と言った。

そしてこう続けた。「私はこれまでに自分でどこかへ行こうと思った事はない。いつも連れて来られただけだ」と。

私は「何によって連れて来られたのですか?」と尋ねた。

やはり彼は一言で答えてくれた。親指で自らの胸を指差して、「my soul(私の魂だ)」と。

全て、とまではいかないが、かなり多くの事が私にとって合点がいった。なるほど彼が若い頃から現在にかけて、三年前から今日にかけて、少しずつ、しかし確実に変わって来たのは、至極当然なのだと。彼の音楽は、比喩的な意味でなく実際的な意味で「魂の音楽」なのだ。魂に正直にある事こそが、彼の音楽的な変化をもたらしている。それこそが、彼の音楽が唯一無二の存在である理由なのだ。誰にも辿り着けない、まさに高みの際である。

余談になるが、京都公演の初日、私と嫁の奈美子は、上賀茂神社内で日中に結婚式を挙げた。私も奈美子も京都公演に関してはボランティアスタッフとして参加していた為、会場設営などの間のほんの20分、空いた時間に上賀茂神社の神主さんに祈祷の儀式をして頂いた。私も奈美子もアブドゥーライブラヒムコンサートのスタッフTシャツ、という出で立ちで。

私と奈美子と立会人と神主さんのたった四人。質素にひっそりと挙げた式だったが、私はとても満足した式だった。金をかけて豪華にやるばかりが全てではない。心のこもった小さな式も、決して悪くはない、と。

その事を、今回の主催者である「lush life」のマスターが、アブドゥーラ氏に伝えた。

「アブさん、あいつらついさっき結婚式して来たんですよ、すぐそこで」と。

するとアブドゥーラ氏は私たちに向かって「おめでとう」と言った後に笑顔でこう言った。「今日は君たちの為に結婚の曲を弾くよ、聴いていてね」と。

そんな事は、有り得ない事なのだ。

私も知り合いの結婚式でピアノを弾いてくれと頼まれた時には、必ずアブドゥーラ氏の作曲した「The Wedding」を弾く。それはすごく美しい曲だし、私は本当にアブドゥーラ氏を尊敬しているからだ。

それを、作曲した本人であり、世界最高峰のピアニストであるアブドゥーラ・イブラヒム氏本人が弾いてくれる事など、有り得る筈が無い。

しかし、実際には有り得てしまった。

コンサートの終盤、印象的な五連符と共に、その曲は奏でられた。

過剰にドラマチックにならず、まさしく染み込むようにスッ、と、その曲は奏でられた。

私は溢れる涙を堪えられなかった。一生忘れ得ない、最高の演奏だった。

その翌日、アブドゥーラ氏は感涙していた私に向かって「喜ばせてあげようと思ったんだけど、泣かせてしまってごめんね」と冗談ぽく言ってくれた。

私が観てきたのは、アブドゥーラ・イブラヒム。南アフリカが産んだ、世界最高のピアニストだ。

追記:今回もそうだが、ボランティアスタッフというのは本当にボランティアなのである。交通費も出ない上に、チケットは自腹で購入している。本当に「好きでなければ出来ない」レベルのボランティアだ。一部から営利の話やスタッフ特権についての噂などが出ていたようだが、それは皆無だ。あるとすれば、休憩中のコーヒーが飲み放題な事ぐらいだ。そういった誤解についてここで訂正しておくと同時に、共に尽力頂いたスタッフ各位、心より御礼申し上げます。

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コメント

僕ももらい泣きしてしまったよ。改めておめでとうございます。

次、僕も京都のコンサート一緒に行きたいです!


・・・突然ですが、僕のブログにリンクはらせてもらいたいのですがよろしいですか??


また遊び来ます♪

投稿: Thor | 2010年10月 6日 (水) 01時07分

めっちゃいい経験をしたなあ。
ほんまに良い結婚式になってよかった。

投稿: okada | 2010年10月 6日 (水) 12時41分

うわ~アブのおっちゃんに祝福の曲弾いてもらったんだ~!それは、絶対に一生の宝だね!改めて、おめでとう!

投稿: クロサバ | 2010年10月 7日 (木) 00時21分

Thorさんへ
誰かと思ったらもっくんか。リンク、もちろん喜んで。オレの方にもリンク貼りたいのだけれど、なかなか時間が取れない。というか、パソコンの前に向かうのが面倒くさい。今度やります。

投稿: ふくしまたけし | 2010年10月 8日 (金) 14時03分

okadaさんへ
うん、これは多分金で買えない体験だ。嬉しい。

投稿: ふくしまたけし | 2010年10月 8日 (金) 14時04分

クロサバさんへ
ホントに一生の宝だよ。嬉しかったなあ。

投稿: ふくしまたけし | 2010年10月 8日 (金) 14時06分

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