着飾らなくても良いんだぜ
レッスンが一件だけあり、池袋に向かう。
池袋、というのは周知の通り東京にある街の地名であるが、所謂「都会」である。私は個人的には決して好きな街ではない。池袋のみならず、新宿、渋谷。都会の風情は私の性に合わないのだ。
しかし、池袋という街を闊歩する人々と、我が街東京の極東である小岩の人々とは、明らかに風体としては異になる。それは小岩に限らない話なのだが、つまり、「非都会」の人々と「都会」の人々とは風体において少なからず差異がある、という事だ。
有り体に言ってしまえば、都会を闊歩する人々はわかりやすく「着飾って」いる、非都会に暮らす人の大半はそうではない、個別の例外的な事例を考慮の外に追いやれば、つまり一般論で話せばそういう事になる。
時に都会の着飾った人々は、「オシャレ」などという言葉で賛美されるが、私にはそれがまるでわからない。池袋(都会)を歩く女性達の出で立ちは、私にはとても良いとは思えないのだ。少なくとも、私の両の脚の間(別名:股間)に具備された「マグナム」という名のレーダーは、ぴくりとも反応しない。老い、であろうか。いやいや私はまだまだ30歳、これからの男である。ならばこれは如何なる事であろうか。
世界的な賢者である私は、すぐに一つの真理に辿り着いた。私にわからない事と言えば、高校一年生以降の数学ぐらいのものだ。私ほどの賢者になれば大抵の事はわかってしまう。
端的に言ってしまえば、それは単一化された美に対する私の拒否反応である。
色彩を欠いた絵画のように、或いは抑揚のない平面的な音楽のように、そこにある美は極端に単一化され、多様性を拒絶する。私は自然とそういった価値観の存在形態に対して忌避を覚えていたのだ。
いつ何時も他人からの視線に晒されているやも知れぬ。だからこそ見られても恥ずかしくないように華美な服装に身を包み、化粧を整えて身嗜みを、という気持ちはわからなくはない。私とて他人からの視線(客観)を完全に自意識の外に追いやるのは不可能に近い。あらゆる都市生活者にそれは共通の認識であろう。
しかし、そういった事を考慮に入れて猶、私は「着飾った人々」に「わかっておらん」と苦言を呈さなくてはならない。
着飾る事は決して悪い事ではない。しかし、それは「たまに」で良いのだ。
わかり易い例えをしよう。
野球のピッチングを頭に思い浮かべて頂きたい。投手が放った渾身のストレート、それが打者の内角ぎりぎりの所にずばっと決まり見逃し三振、そんな光景を眼にした事がある人は少なくないだろう。
これに際して、「内角のストレートを見逃し三振」というのはあくまでも結果である。結果にはほぼ全ての場合において「過程」が付随する。
内角のストレートを見逃したのには、それに対する布石があったのだ。その何球か前に、ストライクゾーンから外角のボールゾーンに逃げていくようなスライダーが投じられてはいなかっただろうか。いた筈だ。私の言う事なのだから間違ってはいない。私は間違った事を言う時以外は常に正しい事を言う。その残像が打者の脳裏に残っていたからこそ、内角のストレートがボールに見えるのだ。それでついつい見逃してしまったのだ。
もし仮に投手が同じようなコースに同じようなボールばかりを放っていたら、その内角のストレートは無惨にもライトスタンド上段奥へと突き刺さっていた事だろう。もしもその時の打者が前田智徳ならば、ボールは確実にスタンドに運ばれている。間違いない。同じような攻めを続けてはいけない。これはピッチングの原則だ。
ならば、「着飾る事」も、勝負所で着飾れば良い、という事になる。
普段は洗い晒したTシャツにジーパン、足元はスニーカー、化粧はすっぴん。そのような女子がいたとしよう。普段はあまりの仕事の忙しさから着飾る事もままならない。化粧をする時間も碌に無い。それでも「生きていく」為に、一生懸命に働いて来た。気が付けば齢も三十を越え、目尻にも幾筋かの皺が出て来た。
そのような女子が、ここぞという場面で身に纏う、例えば爽やかなワンピース、そして着飾った自らへの若干の照れを内包した苦笑。イマジン想像してごらん。その破壊力たるや、まさに核兵器クラスの愛らしさである。
だからこそ、私は簡素にして質素である女性、これを愛でたい。その奥には無限の可能性が秘められているのだ。外角に逃げるスライダーを放れるからこそ、内角の渾身のストレートが生きる。いつでも化粧をしてフリフリの服を着ている女など、何もわかっちゃいない。すっぴんこそが最大のオシャレである事に何故気付かない。気付けないのか。気付きたくないのか。気付く度胸もないのか。声を荒げて憤りを表したい。
都会を歩く度に胸にその違和感を抱く。
着飾るなとは言わない。しかし、それはたまにで良い。そうでなければ、着飾った時のありがたみが薄れるではないか!と。
ちなみに私の家には私と同じ「福島」の姓を持つ女が一人暮らしている。本人のプライバシーの為にN美子という表記に留めておきたい。この奈M子であるが、まあ見事に化粧をしない。たまに化粧をした折には、私も「おお、奈美K、まるで別人だね!」と言ってしまう。
良いんだ、普段から化粧をして着飾ったりしなくても。
たまにするから、可愛いんじゃないか。
私は強くそう思うのである。
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コメント
お~福島くんみたいな男性が多くいると、私としては助かるね~。私も昔から「面倒くさいから」化粧は熱心にしないタイプだから。でもね。すっぴんがかわいいと許されるのは、まだお肌が若くてピチピチしているときよ!押せば跳ね返すお肌の女子だからこそ、かわいい!と許される所業よ。老いた肌の女には、やはりすっぴんはかなり残酷よ。特に都会に外出するときはね。もし、そんなことがあったとしたら、福島くんがパンツ一丁で池袋や新宿とかを歩いてるくらいの罰ゲーム的感覚よ、きっと。普段、田舎で、外見に気を使うことなく、ほぼ毎日、すっぴんで過ごす私は、たまに都会に行くとき、どうしていいかわからなくなるね。
化粧しなくても、歳の取り方が美しいすっぴんの女性…となれるのは、大半の人が、髪が全部シルバーになるくらいの時では?
愛してる女性なら、皺もあいらしく見えるけど、そこらへんの背脂ためまくったおばちゃんの皺が愛らしいか?
投稿: クロサバ | 2010年9月11日 (土) 01時03分
クロサバさんへ
大丈夫。大丈夫。化粧はしなくても大丈夫。しても大丈夫。
投稿: ふくしまたけし | 2010年10月 8日 (金) 13時40分