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2010年8月23日 (月)

音楽にテクニックは必要か

今日はたまには音楽の話をしてみようかな。

さて。

「音楽にテクニックは必要か否か」という事が稀に議論の場に上がる事がある。

私の結論から先に言ってしまえば、「要るに決まっとろうがアホかボケ」という事になるのだが、これを少々解説したい。

テクニックの必要不必要が議論の場に上がるという事は、それは即ち「テクニック必要論者」と「テクニック不要論者」がそこに存在する事を意味する。必要だと信じる人がいれば、その一方で必要ではないと信じる人がいるのだ。私は先に述べたように前者だ。

テクニック不要論者の意見としてよく出て来るものにこんなものがある。曰く、「お世辞にも上手いとは言えない演奏に心を打たれる事が実際にあるではないか」と。

この意見は、一見して非常に説得力があるようにも見える。「テクニックは不要だ」というテーゼの論拠になりうるようにも思える。何故ならば、少なくない数の人間がそのような経験(稚拙に見える演奏に心を打たれた経験)を実際に過去にした事があるからだ。

なるほど、確かに音楽に技術は必ずしも必要ない。そう考えてしまうロジックもわからなくはないが、それはあまりに早計に過ぎる。

まず、その演奏が「本当に稚拙なのか」という事を疑う必要がある。つまり、それは稚拙に「見えるだけ」であり実際には稚拙ではない、という可能性を考慮に入れなくてはならない、という事だ。

そうなった場合、その音楽は実際にはかなりハイレベルな音楽だ、という事になる。本当に賢い人間はドヤ顔で専門用語や無駄な横文字を多用して喋らない。中学生にも解るような語彙で、明快な論理の元に意見を述べる。それと同じ事だ。

恥ずかしいのを承知で白状すれば、私は嘗て「サッチモ」ことルイ・アームストロングの音楽を「稚拙にして感動的な音楽」と感じていた時期がある。出来ればバールのようなものでその当時の私の後頭部をしたたか殴打したい。いや、やめてほしい。そんな事したら脳漿がびゃーびゃー飛び散るじゃないか。

「感動的な」という部分に関しては多少の主観も混じる為に断言を避けたい部分もあるが、「稚拙な」という部分に関しては完全に誤りである。ルイ・アームストロング、彼は必要十分に過ぎる程に極めて高い技術を有した音楽家である。今となってはこの事に疑いの余地も無い。

同じようなケースとしては、私が敬愛して止まない日本のパンクバンド「The blue hearts」が上げられる。

私が錯覚した(つまり彼らは技術的には稚拙だと誤認識した)原因は、彼らの語彙の普遍性にある。誰にでも解るような語彙で物語を語る彼らを、あろう事か私は稚拙だなどと思った訳だ。出来るならば当時の私の菊門(通称アナル)に試験管を入れてひいひい言わせたしかる後にその試験管を割ってやりたい。いや、やめてほしい。そんな事をしたら痔になるじゃないか。

それは先程述べたように、一部の人間にしか解らないような普遍性に乏しい語彙(例えばリテラシー、とか、ベルヌーイの定理、とか)を用いて一見難解な話をしているように見せて実は中身は空虚、そんなものを礼讚するのと同じぐらいクソ(通称ウンコ)のような話なのである。

そういう語彙も知らないではない。けれど今の論旨にそぐわない。そう感じた時にはそのような語彙を使うべきではないのだ。

そのようなケースを鑑みた時に、上記の「技術的に稚拙な演奏でも感動出来る」というテーゼに対する反論は、「それは実は全く稚拙な演奏ではない」というものだ。とてもではないが、サッチモは稚拙からは程遠い。ブルハも。

更に別のケース。

反論すべき根拠のもう一つであるが、演者は実際に「本当に稚拙」だった場合である。

では何故それを前にして聴衆は感動するのか。

答えは演者側ではなく、聴衆側にある。

稚拙ながらも一生懸命に打ち込むその姿に聴衆が感動を覚えた場合、その聴衆は「そういうもの」が好きなのだ。ツボなのだ。であるならば、「それは必ずしも音楽というフォーマットを踏襲する必要はない」という事になる。他のフォーマット、例えば演劇やスポーツでも良いという事だ。そこで或る「誰か」が、稚拙ながらも一生懸命に頑張っていれば、その聴衆に対しては感動が生じる。何故ならば聴衆は眼前の「芸」に感動を覚えた訳ではなく、眼前の「頑張っている人」に感動を覚えているのだから。

こういった感動の在り方は、実は存外に嫌いではない。弱小野球部が不十分な戦力でエリート校の野球部に向かっていく光景には心が躍る。技術的にも戦力的にもエリート校には劣るとは言え、だ。

しかし忘れてはならない一番の前提は、私達が血道を上げているのは音楽という「芸事」であるという事だ。芸事である以上、芸の研鑽こそが我々芸事を志した人間に課せられた使命であり苦しみであり悦びである。一生懸命やればそれだけで聴衆が感動してくれる、そんな甘い考えは微塵も通用しない。

だから毎日(面倒臭い日もたまにはあるのだが)、技術を磨こうと苦心する。

今日、日々の練習をいつものようにやりながら、そんな事を思った。こんな技術じゃ誰にも何も伝わらない。もっと鋭く正確に。もっと表現豊かに。その為に頭を使って練習をする。地道な作業を怠らない。

それが嫌ならば、音楽なんぞとっととやめれば良いのだ。

しかし、私は本当にピアノが下手くそで、すごくイヤんなる。

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コメント

何だか難しそうな話だったけど、バールのところと試験管のところは単純明快でとても良くわかったよ:-p 福島くんは、いつも偉いよね。一生懸命に練習してどんどん上手くなってるのに、自分を下手くそと言い切るんだから。それを自己研鑽のエネルギーに変えて、日々精進、日々努力だものね。

投稿: クロサバ | 2010年8月23日 (月) 23時19分

クロサバさんへ
や、謙遜とかではなくて、マジに下手なんですよ、プロの中では。そりゃあアマチュアに比べたら上手いけど。ま、アマチュアでぼくより上手いのもざらにいるけど。色々大変ですわ。。。

投稿: ふくしまたけし | 2010年10月 8日 (金) 13時11分

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