昨日7月20日付の朝日新聞の朝刊に、元プロ野球選手の桑田真澄氏のインタビュー記事が載っていた。
「野球を好きになるための七箇条」みたいな記事だったのだが、大変共感する部分が多かった。
詳細な内容に関しては、如何せんうろ覚えになるのだが、話の序盤に出て来た「練習についての話」は、なかなかに面白かった。
曰く、「練習時間はなるべく短く」、「ダッシュは全力で10本」という事であった。
勿論、この言葉は「練習は楽に手抜きをして」という事を指しているものではない。氏は、長時間練習による練習の質の低下、そしてその質の低下した身体運用状態を身体(脳)が記憶してしまう事の弊害を指摘し、それよりも集中した状態でしっかりと脳が「理想的な運動状態」をイメージした上での反復練習、これを提唱していた。
長時間練習をする事が素晴らしいのではなく、野球が上達する事、そして野球を好きになる事が本当に素晴らしい事なのだ、というのが氏の発言の根幹にはあった。
ここまではある程度「普通の事」である。スポーツが多方面から科学的に解析されつつある現代において、氏と意見を同じくする人は最早珍しくはない。
私が大変に興味をそそられたのは、その後の論の展開であった。
練習時間を短縮すれば、必然的に時間が余る。その余った時間を使って、友達と遊びなさい、勉強をしなさい、と氏は言うのだった。
一見それは「普通の言葉」に見える。子供の内にスポーツをして、友達と遊んで、勉強をして。
しかしそれは「勝利」という至上命題を追いかけた時には、空虚な常識として響きかねない。そんなことをしている時間があったら、寝る間を惜しんででも練習をしろ。勉強なんてしなくて良い、とにかく試合に勝てばそれで良い、と。
信じられないような話だが、上記のような風潮は未だに少年野球や高校野球の現場では当たり前に跋扈しているという。
私個人の意見としては、「そんなの正しい訳がない」、そう思っている。
例えばそれがプロの野球選手であったとしても、「野球が出来れば(上手ければ)それで良い」とは思わない。技術の向上と共に、知性やユーモアの向上を怠ってはならない、私はそんな事を思う。
話を音楽に置き換えても、同じような話になる。
きちんと集中した状態で楽しみながら4時間ばかり練習が出来れば、その「成果」は、無目的に練習した10時間を軽々と凌ぐ。
余った時間は、本を読めば良い。映画を観れば良い。絵を眺めれば良い。
私が尊敬する廣木光一氏というギタリストは、「音楽には国語力が必須」とおっしゃった。全くもってその通りだと思う。文章を綴って誰かに何かを伝える事と、音楽を紡いで表現をする事は、極めて近しい位置にある。どちらかが単独で成立するという事は、私には想像しがたい。優れた音楽家の書いた文章が魅力的なように。そして巧みな文筆家の書いた文章がリズムに躍動しているように。
桑田真澄氏の記事を読んで、私はまた再び「練習の在り方」、また「音楽家の在り方」について考えを巡らせられた。
高みはまだまだ遥か彼方。だからこそ面白い。
桑田氏の言葉は最後にこう締め括られていた。
「さあ、プレイボール!」と。
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