情報と自主性
月が変わって6月1日、本日付で我が家にインターネットが繋がった。
ネットが繋がったら何をしようか、などと少々わくわくはしていたのだけれど、結局やった事と言えば、仕事用のメールアドレスを開いて諸々の連絡、などと普通の事だった。
その後に少しだけyoutubeで昔のCMを見た。「恋は遠い日の花火ではない」の田中裕子先生のCMと、「女房酔わせてどうするつもり?」の石田ゆり子先生のCM。どちらも素晴らしいCMなのだが、このCMを見ていて気付いたのは、恐らくは田中氏、石田氏、共に現世(うつしよ)の存在ではない、いう事だ。私は現実世界であそこまで美しい生き物を見た事がない。恐らくは両者共に想像上の生き物なのだろう。だとしなければあの美しさは説明がつかない。
さて、インターネット。
このように、見たい時にすぐに田中裕子選手が見れる、石田ゆり子選手も見れる、と大変便利な代物である。私自身もその利便性の恩恵を大いに受けながら生活しているのだが、やはりいくつか気をつけなくてはならない部分もある。その事について今日は少し。
例えば、私は今日はイカの料理を作った。スーパーでイカが安かったからだ。スルメイカ5杯で150円。「買い」の一択だ。
イカに関しては私は捌き方を知っている。と言うよりも、イカを捌くのは全くもって難しくない。簡単なのだ。
だが、何かしらの食材を元に、調理方法がわからなかった時などに、私はインターネットを頼る。「イカのゲソの唐揚げ レシピ」と検索窓に打ち込めば、その調理法がいくつもインターネット上で公開されている。これは大変に便利なのである。
他にも、気になるニュースがあれば、ネットを頼るのも良いだろう。ネットの利点の一つとして、即時性が挙げられる。リアルタイムのニュース、なんていう事も可能なのだ。実際私は野球中継を見れない時には、ネットに頼る事がよくある。些かのタイムラグさへあれど、「ほぼリアルタイム」で、野球の実況を知る事が出来る。とても重宝しているのだ。
かように、インターネットの利便性は枚挙に暇がない。
しかし、大きな危険性が含まれている事も確かな事実であるのだ。
私が考える一番の危険性は、「自主性の欠如」である。インターネットが当たり前に生活に根差した事で、我々の自主性という能力が損なわれているのではないだろうか、私はそんな風に考えている。
「情報を得る」という事には、数十年前までには自主性が必要とされていた。
例えば、私の住んでいる江戸川区の歴史について知りたいと思ったとしよう。数十年前であれば、まず初めにするべき事は「図書館へ向かう」という行動が最も手堅かったであろう。
図書館には江戸川区に纏わる膨大な数の資料がある。それらを本棚から自分の傍らにどさっと何冊も重ねた状態で持って来て、ざっくりと目を通しながら自分のほしい情報をより分ける。いくつもの(探しているそのトピックに対して)無益な情報に隠れて、まるで籤引きの一等賞の当たり籤のように有益な情報は隠れている。それらの無益な情報の森に隠れてしまったいくつかの有益な情報を探し出しピックアップしていく事で、我々は求めたものの核心へと近づいていく事が出来る。
ここにいくつかの「自主性」が介在している事がおわかりだろうか。
勿論、わざわざ図書館まで行く、という事に「自主性」が介在しているのは言うまでもないが、一番の肝心要の部分は「情報のより分け」という過程における自主性である。
これは必要な情報、これは不必要な情報、といった具合に自ら情報をより分ける。それを判断する基準はあくまでも自分なのだ。
先ほどの例、江戸川区の歴史を調べている際に、「小松菜の歴史、これは欠かせない。コピーして持って帰ろう。しかし金魚の歴史、これはどうだろう。確かに江戸川区を紐解く上では大事なのかも知れないが、今回は触れずにおこう」。こんなプロセスがあったとする。
その取捨選択をどうするかによって、その人が見たいと願う未来、つまり調べ物をした挙句に作り出したい結論の全容が少しずつ輪郭を明確にし始めるのだ。何を持って帰る、何を捨てて帰る。そこを決断する根拠になるのは、自らの自主性なのである。
これがここまでインターネットの普及した現代の場合、取捨選択を迫られる余地が極端に減っているのだ。いくつかの複数キーワードで検索した場合、さほどの労力もなくほしかった情報の核心へと辿り着くことが出来る。さして取捨選択をしなくて済むのだ。
私はこれが怖い、と思っている。
インターネットがあまりに最短で情報の核心に辿り着くあまり、我々は情報に対する懐疑心が希薄になっているのだ。本当にこの情報は正しいの?という事を、自らの判断、つまり自主性によって判断する機会が減ってしまっている。
実感として感じている事だが、インターネット上の情報には嘘もたくさんある。(ちなみに当ブログには、嘘しか書いていない)
それをあまり鵜呑みにしない事だ。
だからこそ、一つの核心に辿り着きたいときには、いきなり其処に行ってはいけないのだ。少しずつ、其処に近付いていかなければならない。
「疑う事」というのは、私の大事なアイデンティティなのだ。
私はそもそも私の事を心から疑っている。自分を信じてなどいない。矛盾する言い方になるが、その事には自信を持っている。
もっともっと、疑おう。
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