今日の出来事を村上春樹風に書いてみる
目覚めてみるとそこには誰の姿もなかった。
昨晩の食事の痕跡だけが机の上に残っていた。ぼくはそれを熱意に欠けた目で眺めた。
昨夜は家に大学の後輩が泊まりに来ていた。ぼくたちは夜遅くまで酒を飲みながら取り留めの無い話をした。砂漠に一人取り残されたアフリカ人の話や、浅蜊の一生について。酒のせいで記憶の繋ぎ目はいささか曖昧ではあったのだけれど、そういった記憶の断片は不思議なほどにクリアだった。
一緒に暮らす奈美子がその様子を横から見ながら、笑っているような困っているような顔をしていた。
深酒のせいもあって、ぼくは正午の少し手前で目を覚ました。居間で寝ていた筈の後輩もいなかったし横で寝ていた奈美子の姿もそこにはなかった。そのせいか、まるで何か重要なピースが失われたジグソーパズルのように、部屋は不完全に感じられた。ぽっかりと、何かが失われていた。
ぼくは自分が強烈な喉の渇きを覚えている事に気が付いた。それは刑務所に服役して1ヶ月目の囚人が覚える性欲と同じぐらい強烈だった。
キッチンに行って冷蔵庫を開けると、そこには少々濃い目に淹れられたウーロン・ティーがあった。奈美子は寝る前にはいつも欠かさずにこのウーロン・ティーを淹れては冷蔵庫に保存しておいてくれる。ぼくはそれをグラスに注ぎ、一口で飲んだ。渇きは随分ましにはなったが、足りずに更にもう一杯飲んだ。渇いた大地に雨が降り注ぐ情景がぼんやりと頭の中に浮かんだ。
ぼくは奈美子の事を思った。
「奈美子」
口に出して呟いてみた。奇妙な具合にその声が部屋の中に響いた。もう一度呟いてみた。
「奈美子」
今度は先ほどよりも確かにその声が響いた。ぼくの頭の中にも響いた。ぼくには「奈美子」という、その言葉が何か不思議な外国語のように感じられた。カリブ海に浮かぶ島に住む名もない少数民族だけが話す言葉のように。
そんな事を思っていると、ぼくの携帯電話がせわしなく神経質に振動した。ぼくは直感的にそれは奈美子からの連絡である事がわかった。論理的な証拠は無いが、ぼくには「ただわかった」のだ。
やはりそれは奈美子からのEメールだった。
文面を読む前に嫌な予感がしたが、その予感はやはり的中した。奈美子は、今日のぼくの使うべき金が入った封筒を間違って会社に持って行ってしまった、という事をメールの中で詫びていた。ぼくの財布には金は全く入っていない。どうやらぼくは今日一日中を文無しで過ごす事になるようだった。
ぼくは少し思案してから居間に戻り、ロング・ピースを一本吸った。煙草の濃い煙が肺に染み渡り、体内にタールとニコチンが吸収されるのがわかった。
ぼくは自分が今何をするべきなのかはわかっていた。登山家が数々の雪山に登る中で危機に瀕した時の対処法を学んでいくように、ぼくにも金が無い時の処世術は染み付いていた。人はそうやって生きている。好むと好まざるとに関わらず。
横の棚に置いてあるぼくのコレクションの野球カードに手を伸ばした。数十枚のカードの中からレアリティの高いカードをより分ける。読売ジャイアンツのや阪神タイガースのカードは需要が高い為にレアリティも高い。対して、オリックスバファローズや広島カープのカードは需要の低さからレアリティも低い。
「良いものがすべからく需要が高い訳ではない」
そう呟いた。ありがたい格言のようにその言葉は一人の部屋に響いた。
ぼくはより分けたカードをシャツの胸ポケットに入れた。文章に適切な形容詞を入れるように思慮深く。
それをカードショップに売れば今日の当座の金は何とかなる。多少面倒でも、その手間を惜しまないようにしなくてはならない。
「カードを売りに行こう」
ゆっくりと立ち上がったその瞬間に、ぼくは少し糞を漏らした。たくさんではないけれど、ほんの少し。まるですごく嬉しい事が起きた時に笑顔がこぼれるみたいに。
「やれやれ」とぼくは呟いた。
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コメント
さすが福島くん。流れるような文体に最高の結末。村上春樹を凌ぐ、ふんしましたけし、だね。
投稿: クロサバ | 2010年5月28日 (金) 02時07分
それは「村上風味」でも隠し切れない福島節だよ!(笑)
いやー、笑った笑った!!
ありがとう!
投稿: クサクサ | 2010年6月 5日 (土) 06時15分
クロサバさんへ
ちょっと!そのペンネームはすげえかっこ悪いからいやだ!(笑)
投稿: ふくしまたけし | 2010年6月17日 (木) 21時30分
クサクサさんへ
実はこの村上春樹のパクリは、最近いくつか書いた中でも指折りのお気に入りです。本気のファンの人が読んだら多分怒ると思う。でも、「結構ファン」ぐらいの人が読んでくれたら一番喜んでもらえるかな、と。
投稿: ふくしまたけし | 2010年6月17日 (木) 21時32分