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2010年4月 9日 (金)

珍しく音楽の話ですよ

表題の通り。音楽に興味の無い方には申し訳ない。

最近、練習の中でメインに据えてやっているのは、「ソロピアノの弾き方」。独奏。

その独奏と、もう一つ、合奏について少し思う所を。

ピアノという楽器は、共に演奏する楽器の有無、またその種類によって、演奏の方法が変わる。演奏の方法が変わる、というのは語弊があるかな。音楽の中で「分担する部分」が変わる。

例えば、ベース(コントラバス)とドラムと一緒に演奏する所謂ピアノトリオと呼ばれるフォーマットで演奏をする時と、歌とデュオでやる時。この2パターンを比べてみると、演奏方法にはかなりの違いが生じる。

和音の押さえ方一つをとっても随分と変わる。同じ「C」というコードネームを見ながら演奏するにしたって、構成和音が変わってしまうのだ。

冗長になってしまうので、和音についての具体的な話はここでは割愛する。

ピアノという楽器は、極めて「独奏に向いた」楽器だ。

例えばティンパニによる独奏。勿論それも有り得なくは無いが、あくまでもそれはイレギュラーなケースだ。楽器にはそれぞれに「独奏に向く楽器」と「合奏に向く楽器」とがある。トライアングルの独奏。確かに見てみたくはあるが、やはりトライアングルやティンパニよりはピアノの方が独奏に向く。トライアングルやティンパニは合奏にこそ向く。

他にも、ギターなどは「独奏に向いた楽器」の一つだ。その楽器単体で、充分に音楽を構成しうる。熟練のギタリストのソロギターは、独特の世界観を作り上げる。

無論ピアノもそうである。今秋に来日する南アフリカのピアニスト、Abdullah Ibrahim氏のソロピアノの演奏をこれまでに二度見た事があるが、それを見た私の印象は、「これ、他に何にもいらねえな」である。

ウィスキーの宣伝文句ではないが、「何も足さない、何も引かない」。まさにピアノという楽器が、その身一つで宇宙を表現する。大袈裟な言い方だと思うかも知れないが、嘘だと思うならば今秋に京都は上賀茂神社で開催される彼のコンサートを直に見ると良い。それは何の誇張でも無い事はすぐにわかる。勿論私も見に行く。宇宙を体感しに行く。

そういった、「独奏にも向いた楽器」であるピアノ。やはり私は「独奏が一つの基本だ」と思っている。

リズムを出し、旋律を奏で、ハーモニーを構成する。全て同時に一つの楽器で行う。

少々気取った言い方をするならば、「自立した演奏をする」という事だ。

合奏となった場合に、共演者とコミュニケーションを取る事は必須だ。相手の意図を汲み、会話として演奏をする。一方的な独り言ではなく、相互的なコミュニケーションである。

しかし、その際に相手に依存してはならない。また、相手が私に依存してもならない。お互いがそれぞれに演奏として自立していて初めて、相互的コミュニケーションの介在する合奏という行為が成り立つ。まずは、独りできちんと音楽を創る事、これが大切なのだ。

トミー・フラナガンというジャズピアニストがいて、彼はよく「バッキングの名手」と言うような讃辞を送られる事がある。即ちそれは「バンドの中に入ってサイドメンになった時に、共演者の良さを最大限に引き出す名脇役」ぐらいの意味である。

確かに彼がサイドメンとして参加したアルバムには、ジャズの歴史の中でのエポックメイキングとなったようなアルバムも少なくない。ジョン・コルトレーンの『ジャイアントステップス』、ソニー・ロリンズの『サキソフォンコロッサス』、コールマン・ホーキンスやエラ・フィッツジェラルドの一連の作品群。数々の場で、まさに絶妙なサポートを魅せているのが彼のピアノだ。

そしてこれが重要な点であるのだが、彼の演奏はきちんと自立している。それ単体でも十二分に音楽を構成しうる。それであるからこそ相互コミュニケーションである合奏の場においても、その存在感は一層に際立つのである。

トミー・フラナガンに限った話ではない。彼との共演者、コルトレーンもロリンズもエルヴィンもエラも皆、自立して音楽を奏でている。独りでリズムを成立させ、旋律を紡ぐ。楽器(或いは声)の性質上和音こそ出せないものの、少なくともハーモニーを感じながら演奏をしている。音楽的に自立した者達の集まりとしてのバンドがあり、そうなった時に、一つ一つのピースは単純な足し算で1+1+1+…といかずに、更に複雑に幾重にも重なり、何とも重厚で心地の良い音楽が生じてくるのだ。

だから、やはり一つの基本は独奏なのだ。周囲に依存しない演奏技術、それを強固に確立させなくてはならない。

コミュニケーションの在り方を考えたら、ごく自然にそうなる。何も喋れない、何も喋る事が無い人間にはコミュニケーションは取れない。表面上は取れるかも知れないが、深い部分でのコミュニケーションは決して成立しない。

沈黙にだって、二種類ある。莫大な情報の塊としての沈黙と、ただの空疎な沈黙。願わくは、饒舌な沈黙を創れるようになりたい。

そんな事を思って、今日も拙い独奏を練習する。

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