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2010年3月16日 (火)

吉本隆明さんのこと

「何もしない」と決めた一日。「何もしない」のもなかなかに難しい。

ここの所、肉体的・精神的に少々逼迫していた事もあってそういった日を設けたのだが、決して病気な訳でも何でもないので、「何もしない」という事にすぐに飽きる。もそもそと布団から這い出してきて、テレビで野球のオープン戦を見る。カープが負ける。

仕方なく飯を作る。納豆にはネギと芥子をうんと効かせると美味い。味噌汁の出汁はきちんと煮干でとると美味い。自作の遅い昼飯に満足する。

おもむろにパソコンの前に座って、ブログでも書こうかな、と。

実は珍しくきちんと書きたいトピックがあって。

吉本隆明という人の事。

つい先日、テレビでやっていた彼の特集を見て、私は大層心を動かされたのだ。

吉本隆明。詩人であり、文芸評論家であり、思想家である。戦後最大の、思想家である。ハルノ宵子、よしもとばななの父親という事もあり、最近では「ハルノやばななの父」という見方で見られる事も多いが、バカを言ってはいけない。正しい方向は「隆明→ハルノ、ばなな」であり、決してその逆ではない。多くの人間の思考に多大なる影響を与え続けており、現在御年83歳、いまだなお強い影響力を持つ思想家である。

テレビ番組の内容は、昭和女子大で行われた氏の講演を「ただ映したもの」であった。それが良かった。不必要な解説や編集を入れずに、彼の息遣いや表情、或いははみ出した鼻毛までをも、ただ、じっと映す。そこには独特な緊迫感があり、それだけで一つの作品として成り立つ。NHK教育テレビが放送していたのだが、NHKもたまには良い番組を作るじゃないか、と偉そうにも私などは感じた。過剰な演出や解説は、時として「面白さ」をぶち壊す事も少なくない。わかりやすい事「だけ」が面白い訳では決してないのである。

吉本隆明氏の思想の根本には、「開かれてある事」というものが強くある。

それは、氏が戦時中に「皇国少年」としてその時代を過ごした経験から来ている。天皇礼賛、戦争賛美、という絵に描いたような皇国少年である。

氏が言うには、その皇国少年であった自分の背景には、「閉じられた世界」があったからだそうだ。内に対しても外に対しても閉じていた。だからこそ、ある種盲目的な皇国少年となった、と。そういう氏だからこそ、「閉じられた世界」の危険性を強く自覚しているし、「開かれてある事」の重要性を強く説いている。

今からおよそ20年ほど前の話であるが、氏の母校である都立化学工業高校に、中学生であった私は親父と二人で氏の講演を聞きに行った事がある。中学生の私にはいささか難しすぎる講演内容ではあったが、その時には「政府や企業はリコールに対して柔軟に応じるという開かれた姿勢を持つべきである」という事を言っていたのを覚えている。政府、或いは企業、そういった「集団」が閉じられているのは危険な事だ、と。それは上述したような氏の「開かれてある事」への指向の一環と考えれば納得がいく。

終戦による「転向」、その事をきっかけとして、氏の重厚なる思想は徐々に形成されていったのであろう。

今回の昭和女子大での講演について言えば、芸術論がその大半を占めた。

氏は自らの著作、『言語にとって美とはなにか』の中で、言語を大きく二つのベクトルに分けている。曰く、「自己表出」と「指示表出」である。

美しい花を見て、「あ、きれいだな」と思う。この時に脳裏で発された言葉は「自己表出」である。また、誰かに対して「ねえ、あの花はきれいだね」と言う、この言葉は「指示表出」である。

自己表出による「あ、きれいだな」という言葉は、誰か(他者)に伝えられる事を前提とされていないし、目的にもなりえない。それに対して、「ねえ、あの花はきれいだね」という言葉は、誰かに伝えられる事を目的とされている。つまり「内にある言葉」と「外に向かう言葉」という風に言い換えることも出来る。

この「自己表出」と「指示表出」という二つのあり方を用いて、氏は芸術論を展開した。

かなり端折って結論を言ってしまうと、「芸術(或いはその本質)とは自己表出である」というのが彼の意見となる。

つまり、本来的には芸術と言うものは外に向いていない、あくまでも内に向いたものなのだよ、という事だ。

もう一つ、彼が語っていた言葉を借りると、「優れた芸術というものは、それを見た人間に、(このものの良さはオレにしかわからない、オレこそがこの芸術の良さを十全に理解出来る)と思わせる事が出来る」と言っている。

なるほど、自己表出の顕現として芸術があるのであれば、それを見た人間(読み手、聴き手)の自己表出と何かのはずみにリンクした際には、そのような「独り占め感」が出て来るのは納得がいく。

そうやって出て来た自己表出的な芸術、それは、見事なほどに経済的な価値観とは結び付かない、と氏は続ける。わかりやすく言えば、「芸術なんて金にはなりゃあしないんですよ」と。

だから、それが良いじゃないか、というような事を氏は仰っていた。内にも外にももっと思考を「開いて」いって、もっと自由になりましょうよ、と。

そういった講演の内容、それ自体も大変にスリリングで興味深いものであった。だが、どうだろう、車椅子に座りながら、後半は天を仰ぐように、そして歌を歌うかのように朗々と語る氏の姿、それはまさに「切実に生きる人」の姿であった。

Yoshimoto

83歳にしてこの切実さである。現代を生きる思想界の巨人、そういった側面とは別に、「切実に思考し、生きる人間」として私の心を強く打った。

彼が話したように、この日講演をしたように、私も音楽がしたい、と思った。言葉に詰まっても、痰がからんでも、鼻毛がはみ出ていても。

だってその姿はあまりにも素晴らしかったから。

遥かに遠い頂ではあるのだけれど。

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