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2010年3月 2日 (火)

個性は潰されても潰されなくても関係無いと思う

昼飯に味噌汁を自分で作って納豆ご飯と一緒に食べる。美味い。

味噌汁は、煮干でしっかりとダシをとってから、豆腐とワカメとネギを具材として入れた。先日うどんを自作した時にも身に染みてわかったが、この手の料理(うどん、味噌汁等)はとにかく「丁寧にダシをとる事」が何より大事だ。そこさえきちんとしていれば、勝負は八割方決まったようなものだ。先日のうどんは鰹節でダシをとった。今日は煮干。今度は昆布での上手なダシのとり方に挑戦してみたい。

さて、そんなこんなで少しのんびりとしている。週末が少し忙しかったのだけれど、週が明けてからはまた数日間のんびりとした日が続く。こうして料理に興じたりも出来る訳だ。

オリンピックが終わったせいもあってか、何となく世間も落ち着いたように感じられる。

今回のオリンピック、以前の記事にも書いたが、私はさほど夢中になって見ていなかった。なので一昨日から昨日にかけて、「オリンピックを振り返る番組」みたいなものを幾つか見た。

上村愛子の相変わらず美貌に若干やられながら見ていたのだが、気になった事を一つだけ。

開幕直前にちょっとしたお騒がせ事件の当事者として日本で(不本意ながら)一躍有名になってしまったスノーボードの国母選手の一件。

私個人の意見を言えば、「服装なんてそんなのどうだって良いだろ」という所も多分にあるのだが、彼を巡る論調の中に大変癇に障るものが幾つかあった。

それらの癇に障る意見に共通するのは、「個性」というキーワードである。

曰く、「何故日本という国は選手の個性を尊重しないのか」と。

そこで私の頭の中に幾つものクエスチョンマークが浮かぶのだ。

まず、私には国母選手はさほど個性的には見えなかった。スノーボードの選手たちの服装を見ていれば、ジーパンで出場する選手も多数、スキーウェアからいささか離れたようなものも多数あった。そういった中に入った時に、国母選手の服装は決して奇異ではない。腰パンもピアスも、言ってしまえば「大多数の流行」だと受け取る事が出来る。(勿論それは「スノーボード界」という極めて小さな社会の中での流行だが)

そういった観点から見た時に、彼はむしろ「秩序を守る側の人間」だという見方も出来る。スノーボードというスポーツのファッション性、そういったものを、実現出来ていたかいなかったかは別にして、体現しようとしていたのではないだろうか、と。

私はスノーボード競技を片手間にぼんやりと見ながら思っていたのだが、逆に「背広に七三分け、そしてメガネ」というファッションでかの競技に出場したならば、それは大変な反逆の象徴にもなったのではないだろうか、とさえ思ったのだ。

そして一番私が釈然としないのは、「個性とは守られるべきものなのか?」という点である。

守られなければならない個性など、それは既に個性でも何でもなく単なる主張であろう、と。

個性的であろうとする人間がすべからく凡庸なように、意識された個性、守られた個性など個性ではない、と私は考えている。

消そうとしてもどうしても消えない、最後まで仕方なく残ってしまったものだけが真の個性なのではないだろうか。

ゆえに、「どうして彼の個性を潰すのか」という論調には強い反感を覚える。そんなもん始めから個性でも何でもねえよ、と。

そういった意味では、先月引退となった横綱朝青龍、彼は良くも悪くも「本当に個性的な人」であった。

朝青龍と国母選手、同列に論じられる事もしばしばであったが、それも完全に論点がずれている。個性の質がそもそもにおいて違う。

国母選手に私が唯一同情的になるのは、「競技前から批判を受けた事」である。彼は彼なりに努力をしてオリンピックの代表という座を勝ち取った。ならば、競技が終わるまでは競技に集中させてやれば良いのに、と思った。

ともあれオリンピック閉幕。選手の皆様、お疲れ様でした。さあ、次はプロ野球開幕だ!

ファンは気楽でいいものです。

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