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2010年3月13日 (土)

大ピンチ!DD問題

賢明で世間の動向に敏感な当ブログの読者諸氏ならば、最近国際情勢を賑わしている「DD問題」は既にご存知の事だろう。

「DD問題」、そう、「ダシガラをどうする問題」の事である。

海外では「How do I treat a dashigara?」というキャッチコピーと共に、各国の首脳達が激論を闘わせているという、噂の「DD問題」である。

すべからく料理の基本は「出汁取り」にある。そんな事は小学生でも知っている周知の事実である。

立ちのぼる煮干しの香り、香ばしい昆布の芳香、上品かつワイルドな鰹節の魅惑。そう、「出汁を制すものは世界を制す」、世界チャンピオンを何人も育て上げた有名なトレーナーの至言である。

私も私とて、やはり世界を狙う身である。今一度基本に立ち返り、明日のためのその一、「丁寧に灰汁を取りながら右脇をえぐりこむように鰹節を煮るべし」を実践している。これだけでうどんの美味さが格段に変わる。まさに基本中の基本である。

さて、基本を実践し、その帰結として美味いうどんが食えるというのは良い。それは一種の方程式だからだ。幼少の砌、英才教育の一環としてみっちりと掛け算九九を仕込まれた私だからこそ、そういった論理的思考はお手のものだ。今となっては七の段より上がかなり怪しいが、それは些細な問題だ。

問題は、ダシガラである。

出汁を取り終わった後の鰹節、つまりわかりやすく言えば、「ホセ・メンドーサとの死闘を終えた矢吹丈」、これを如何に取り扱っていくかというのが、今、国際世論の中で激しく論じられている訳である。

出汁を取り終わった後の鰹節、つまり「真っ白に燃え尽きた鰹節」、「MMK」は、どのように調理しようと不味いのである。味が無い、歯ごたえが無い、テレビも無い、ラジオも無い、車もそれほど走っていない。まさにないない尽くしなのである。オラこんな村イヤだ。

私はこれまでその「MMK」に、単純に醤油をかけて食してみたり、またある時はめんつゆとごま油で炒めてみたりもした。しかし、まるで強固に口を閉ざした貝のように、「MMK」は美味くならないのである。不味いままなのである。

さりとて、それは価値ある食材である事には一分の揺らぎも無い。荒波を泳いだ鰹が、その尊い命を我々人間の為に差し出し、乾燥されたり削られたりした挙げ句の鰹節である。どうして無碍に棄てる事など出来ようか、いや出来ない。

(↑蛇足だが、これは「反語」という日本語表現である)

我々の命は、様々な命の犠牲の上に辛うじて成り立っている。その事実を強く自覚した際に、食材を無碍に棄てる事、それは畢竟、死をも意味する蛮行なのだ。

この問題に対し、朝鮮民主主義人民共和国、所謂北朝鮮の代表である金正日氏は、「ダシガラは我が祖国ではご馳走イムニダ。人民はダシガラを食っておれスムニダ。ぽっくんは牛肉のステーキを食うイムニダ」という声明を発表している。

片やアメリカ合衆国の代表であるバラク・オバマ氏は、「Yes, we can!」という威勢の良い掛け声と共にダシガラをむしゃむしゃといってみたのは良いものの、その余りの貧相な味わいに「change…」と言って眉をしかめたそうだ。

我が国日本の代表はと言えば、その内の一人、窪塚洋介氏は「I can fly!」と叫んで飛んでいってしまうし、もう一人の代表落合福嗣氏はテレビカメラの前を「うんこ!うんこ!」と叫んで走り回るというなかなかにアナーキーな振る舞いを始め、頼りの筈の貴乃花親方は「ちゃんこは…部屋で食うものです」と、兄勝氏(あにマサルし)への批判に余念が無かった。

最早八方塞がり、「DD問題」にはそうした閉塞感がある。

賢明で理知的な読者諸氏におかれましては、この世紀末的で絶望的な問題への解決策を知る御仁があれば、世界の恒久平和の為に一肌脱ぐつもりで、解決策を御提示願いたい。

危機感を持って頂きたい。これは、地球規模で我々を脅かしている大問題なのだ。

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