コメント返し
をしました。頂いていたものに全て。暇だったので。
全てのコメントにレスを返したつもりなのですが、もし何か返し忘れているようなミスがあれば、それは私の責任ではございません。
公安と政府の陰謀ですので、悪しからず。
をしました。頂いていたものに全て。暇だったので。
全てのコメントにレスを返したつもりなのですが、もし何か返し忘れているようなミスがあれば、それは私の責任ではございません。
公安と政府の陰謀ですので、悪しからず。
カレンダーをよく見たら、3月は明日がもう一日だけあった。
さっきの記事に「今日で3月終わり」などと書いてしまったから。
誰にだって間違いはあるのだ。
というか、今年は閏年で、3月が一日だけ多めにあったに違いない。
きっとそうに違いない。
それか公安の陰謀。
つい先週くらいに年が明けて新年の挨拶をしていたような気もするが、実際には本日が3月30日、今日で3月が終わる。
年が明けてから3ヶ月間、何があったかなと思い返してみる。
色々あったような気もすれば、何もなかったような気もする。少しだけ生活が変化を始めてはいるが、結局の所、飯を食ってピアノを弾いて糞をして酒を呑んで寝る、という基本的な所は一つも変わらない。
そういう所。基本的な所をきちんと守らないと。
なるべく背伸びはしない。
なるべく普通にやる。
週末、色んな事を終わらせる。一通り片付く。良かった。大した事ではないのだが、詳しくはいずれ。
今週末からは演奏がたくさん。一週間はみっちりと練習の日々。
数回前に「コメントたくさんうらやましい」と書いたら、意外と「可哀想だから書いてやる」とコメントをくれる方もたくさんいて、嬉しいやら恥ずかしいやら酒を呑むやら糞を漏らすやら。
その内返します。
前田智徳が先日今シーズン初打点を上げましたので、初ヒットを打ったらその時に全てのコメントにレスを返すに間違いないような気がしないでもないような気がするような今日このごろ、皆様は如何お過ごしでしょうか。私はカレーを作りました。
相変わらず貧乏です。
今年初の永川劇場開幕を目の当たりにしました。
ええ、大変にドラマチックな劇場でございまして、助演致しました東出輝裕君の手助け(絶妙なエラー)もあり、10回裏、劇的なサヨナラタイムリーを見事に被弾して下さいました。
しかも打ったのは、今日も元気にポロポロポロポロとエラーをしまくっていた中日ドラゴンズのエラー王ことセサルくん。まさに「劇場」の名に恥じない幕切れでした。
え?何の事書いてるかわからないって?
負けたんだよ!カープが!
野球だよ!やきう!
はあ…情けない負け方…
まさか誰もこのチームが今シーズン優勝するなんて予想出来ないだろうな。
まあ、するんだけどさ。優勝。
この記事の一つ前の日記に、「昨夜酔っ払って上機嫌になった私は広島カープの応援歌を大声で歌っていて、周りの人に大層迷惑だった」と書きましたが、実際の所私にはその当時の記憶がなく(アルコールのような物質が脳を浸食していた為)、正直その真偽を計りかねる所だったのですが、その光景(泥酔した私)の一部始終を見ていたハーモニカ奏者の皆川和義氏が本日、事の真相を教えてくれました。
「福ちゃん。福ちゃんのブログに泥酔してカープの応援歌を熱唱って書いてあったけどそれは嘘だよ。熱唱していたのは夏川りみの『涙そうそう』だよ。あと、平井堅のモノマネもしていたよ。全く似ていなかったけど」
との事です。謹んでここに訂正すると共に、何故私が『涙そうそう』を猛烈な勢いでシャウトしたくなったのか、その深層心理がわかる方は御教授下さいませ。
あと、平井堅はやっぱり男のお嫁さんを貰いたい感じの人なのか、知っている方も御一報を。
昨日は野球を見る。
と言っても、広島対中日のカードは名古屋ドームでの一戦だった為、テレビで観戦。東高円寺にある広島カープの店「お好み村」で観戦。何人かピアノの生徒も来た。
中日ドラゴンズの一二塁間の異常なまでの守備の下手さに驚愕する。ブランコ・セサルという外人コンビ。特にセカンドのセサルのザルっぷりが凄かった。あの二人が一二塁間をやっている内は、中日は強くない。間違いない。
試合はカープが勝つ。3対1で勝つ。当然、嬉しくなった私は「祝杯」の名の元に酒をごぶごぶと呑む。「酒は呑んだら呑まれろ」という自らの中に強くあるポリシーの元、ごぶごぶと呑む。
今日は朝から自宅でレッスンだったので昨日の内に自宅に帰っておきたかったのだが、面倒くさくなって彼女の奈美子の家に泊まる。奈美子の家は東高円寺なので。
どうやって帰ってどうやって寝たのか覚えていない。奈美子が言うには、「帰り道でずっとカープの応援歌を歌っていて、うるさくて死んでほしかった」との事。死んでほしかった、という部分には全面的に同意する。
起きてみたらば、いささかの二日酔い。大丈夫、これぐらいなら水を飲みまくれば良い。
朝メシ代わりに奈美子がにゅうめんを作ってくれた。優しい。「それ食ったらとっとと働いてきやがれこのボンクラ」と言われ、家を追い出される。
電車に乗って自宅に帰る。
さて、今日は珍しく働きます。
そんな普通の日です。
本日、待ちに待ったプロ野球のセ・リーグが開幕である。
夕方18:00ぐらいから各カードがプレイボールとなる。我らが広島カープは、名古屋ドームにて中日ドラゴンズとの三連戦から今年のペナントレースの幕を開ける。
昨年は、この中日ドラゴンズに良いようにやられた。全く勝てなかった。その苦手意識を払拭する為にも、この初戦は是が非でもものにしたい。
さて、開幕まで残り二時間を切った今、私の中では恒例となっている今年のセ・リーグの順位予想をしてみたい。あくまでも個人的な予想だ。
一位:広島カープ
二位:読売ジャイアンツ
三位:中日ドラゴンズ
四位:横浜ベイスターズ
五位:ヤクルトスワローズ
六位:阪神タイガース
という所である。これらの予想について少しだけ解説を。
一位のカープ。この予想が無謀なのはわかっている。わかっているが夢は見たい。大黒柱のルイスが抜け、エースの大竹が故障で出遅れているという台所事情がかなりのピンチを物語ってはいるが、それでも優勝は諦められない。だって今年は前田がいるんだもの。梵と栗原が復活して、天谷と末永が覚醒して、青木高広が予想外の活躍を見せる。シーズン中盤からは新人の今村猛が活躍し始める。それなら優勝も夢ではない。いや、無謀なのは承知の上だ。でも夢ぐらい見させてほしい。
二位のジャイアンツ。これはもう仕方が無い。戦力が1チームだけ違う。小笠原、ラミレスを中心とした重量打線。充実した投手陣。先発投手に若干の不安はあるものの、それを考慮に入れても戦力はダントツだ。手強すぎる。
三位の中日ドラゴンズと四位の横浜ベイスターズ。実はここは当初逆の順位にしたかった。尾花新監督を迎えた横浜ベイスターズは、今年の台風の目になる可能性がある。大幅な補強にも目を見張る所であるが、いかんせんエース三浦大輔の出遅れが痛い。それがなければ三位横浜、四位中日と予想していたが、やはり守備力に優れた中日が大崩れするとも考えにくいので、この予想。中日はピッチャーの吉見とチェンの存在がでかい。やはり確実に計算出来るピッチャーが二人もいるというのは手強い。
五位ヤクルト。これに関しては、オープン戦を見ていた印象からだ。中継ぎ以降の投手陣が不安定過ぎる。フォアボールから自滅するパターンが多い。また、走塁に対する積極性がまるで見れなかった。福地、田中浩康、飯原と俊足選手はたくさんいるのに、積極的に走らせない。格下チーム相手にはそれでも良いかも知れないが、例えばジャイアンツのような格上チームを相手にそれをやれば、単純に力負けする。その辺りの意識が変わらないのならば、上位進出は難しいのではないかと見ている。
六位の阪神。これは決して「アンチ阪神予想」ではない。現在、阪神タイガースの五番を打つのは、「辛いです…カープが好きだから…」の名言でお馴染みの辛いさん、違った新井さんであるが、今現在は彼が阪神の癌になっている。これに関しては阪神タイガースファンの方々でも同意する方は少なくないのではないだろうか。全ては彼だけが悪い訳ではないが、今年の阪神には私は大変ちぐはぐな印象を抱いている。「繋がらない」。それは技術的にも精神的にもだ。他にも、狩野という若くて良いキャッチャーが育ってきた矢先に城島獲得、これが頂けない。狩野のみならず、他の若手のモチベーションを下げてしまう。投手陣と城島との繋がりにも、私は疑問を抱いている。
という予想であるが、カープファンである私は、「強い巨人、強い阪神にカープが勝つ」という構図が好きなので、巨人はともかくとして、阪神にも強くいてもらいたい。
さあ、開幕だ。
ラーメンが390円、餃子が190円のラーメン屋、「日高屋」。日本全国にチェーン店を持つというので、御存知の方も少なくないだろう。
実は、ここのラーメンが結構好きだ。
「美味いっ!」と唸るようなラーメンではない。及第点というか、特別美味くはないがほっとするような、そんな味。そういうものが食べたい時だってあるのだ。
そんな日高屋でラーメンを啜る。ダイエットダイエットと思いながらもサービス券を使い大盛を注文してしまう私。お願いだから死んでほしい。
そんなデブでデブを煮染めたような姿でラーメンを啜る私の 後ろにはカップルが。
食事もそこそこに話に花が咲いているようで、私もラーメンを喰らいながらついついそのカップルの話に耳を傾けてしまう。
ん?
戦慄が走る。
…
別れ話してやがる…
女:「だからー、もう○○とはやっていけないっていうかー、アタシにもうやっていく気がないわけー。わかるー?」
男:「いや、ていうかお前、勝手過ぎじゃね?」
女:「しょーがないじゃん、もうそうなっちゃったんだからー」
…
…
お前ら、日高屋で別れ話をするな…
何だろうか、私の個人的な意見を言わせてもらえば、もし私が別れ話をするような事があっても、日高屋ではしたくない。
私:「奈美子、ごめん!もうこれからは自分の右乳首に洗濯ばさみを挟んではちぎり挟んではちぎりという独り遊びはやめにするから!いや、週一にするから!だから別れないで!」
奈美子:「餃子うまっ!そして安っ!」
…
…
こんな展開が容易に想像出来る。
日高屋は中華料理を食う所であって、別れ話をする所ではない。まとまる話もまとまらなくなる。
食べかけのラーメンを「お客さん、もう閉店ですから」と言って下げられそうな時に、「子供がまだ食べてる途中でしょうが!」
これはやっても良い。田中邦衛的な人であればやって良い。もしくは北海道であればどこでもやって良い。
とにかくも、日高屋で別れ話をしないでほしい。私からの切実な願いだ。
追記:日高屋のラーメン、若干味が変わったような気がするが、これは私の気のせいか?前はもうちょっと美味かったような気がするのだが。
こうして毎日飽きもせずにブログを書いている訳だが、書く時には自分の中で3つのパターンがある。只今深夜二時。全然眠くない。あまりに暇なので、それを紹介してみたい。ご自身でもブログを書かれている方があれば、参考にでも反面教師にでも何にでもして頂ければ恐悦である。
以下、3つのパターン。
1.勢いで一気に書いてしまうパターン。書いたら即投稿、手直しナシというやり方。ちなみに今回はこのパターン。かなり行き当たりばったりに書くし、書き始めた時点では着地点も殆ど決めていない。だから今日もどうなるかわからない。この書き方が全体のおよそ半分以上を占める。書いている分には一番愉しい書き方である。
2.数回に分けて書くパターン。一つは途中まで書いて、一度中断して続きを書くというやり方。もう一つは一度一気に最後まで書いてから、それを下書きとして残しておいて、後日加筆修正並びに推敲を入れるやり方。本、映画、音楽等の感想文に多用する。大体は全体の2〜3割がこのパターン。それなりに労力を要する。
3.2番のパターンの変形なのだが、書いて、直して、また書いて、また直して、最終的にボツにする、というパターン。それなりに本腰を入れて書いてしまうと、書き上がったものに何かしらの「完成度」じみたものを自らで求めてしまう悪癖がある。ついつい、「何じゃこの文章は!なっとらん!気に食わん!」と私の中の星一徹的な部分が激しく吠えた後に、返す刀で保存中の下書き文章をデリートする。後には一抹の空虚感だけが残る。
この3番のパターン。それはいかがなものか、と私は自問するのだ。消さなくったって、良いじゃねえか、と。
ブログなんて所詮は便所の落書き程度でも構わないのだ。
例えばこんな例はどうだろうか。
オシャレカフェの写真と共に「今日は代官山で友人と楽しくお茶して来ましたー♪夢に向かってまっすぐな友人を見てたら、私まで元気をもらっちゃいました!明日からも頑張らなくっちゃ!私、ファイトファイト(笑)」というブログ。
所謂「マンコ保持者(manco possessor)」、世間で言うところの「女性」、業界用語で言うところの「ナオン」もしくは「チャンネー」と呼ばれる方々にこういったタイプのブログを書く方が多い訳であるが、正直、そのブログを読んでの私の感想は、「貴様、試験管を入れてからしこうした後に割るぞ」である。
いやいや、言い過ぎた。それは無い。嘘だ。悪ぶってみたかっただけだ。
それはそれで良いのだ。だってブログなのだから。
だから私も負けじと削除せずに載っけちゃえば良いのだ。
「今日私は新しい日本語ラップを考えた。『アイツはいつも頑固、そんなアイツがチンコマンコと連呼、チェケラチェケラチェケラッチョ、オレはそれを聞いて漏らすウンコ』というラップを」
みたいなブログを書いたって良いのだ。だってブログなんだもの。
しかし、適当に書いたこのラップは小学生レベルだな。ウンコチンコで笑ってて良いのは小学二年生までなのだが。
まあ良い。
なかなかそれが出来ずに、「うーん、ギャグにキレがない、ボツ!」といったような理由などでお蔵入りになる文章も少なくない。
それもまあ良い。
実は何が書きたかったかと言うと。
上述したような「オシャレカフェでのお茶ブログ」には、得てしてたくさんのコメントが付いている事が多い。
曰わく、「うわー、そこのカフェ、雰囲気すごく良さそう!あたしも今度行ってみたいから場所教えて!」だの、「そうだよねー、夢に向かうって大事な事だよねー!」だの、「それでは今度代官山の派出所を襲撃、そして爆破致しましょう。権力との闘争の第一歩です。決行日はいつが良いですか?」だのとたくさんのコメントが付いている訳だ。
正直に言おう。これがめちゃ羨ましい。
めちゃんこ羨ましいのだ。
我々ブログを書く人間にとって、一番嬉しいのはまずアクセスが伸びる事である。ブログなんぞを書いている人間はすべからく露出狂な訳で、より大多数の方々に露出が出来た方が嬉しいのだ。そしてアクセス数に次いで嬉しいのが、このコメントである。
「私」の書いた文章に誰かが共感したり反感を持ったりする。そしてそれが言葉となって現れる。嬉しくない筈が無いのだ。
私のこのブログにも時折コメントをくれる酔狂な方が何人かいるが、それは実はめちゃんこ嬉しいのである。
すぐにはコメントは返さない。だってチャットじゃねえし。
コメントを頂いたという喜びを先ずは噛み締め、そしてコメントの内容を数度反芻する。そろそろ返さねえとこりゃやべえな、という頃合で重い腰を上げてからコメントを返すのだ。
ホント、コメントは嬉しいのである。
深夜に暇だったので全然知らない他人のブログをあれこれ見ていたら、何だかそんな事を思った。
訳知り顔で時事ネタをぶって他人を叩いてたら、あちこちから「そうですよね、ワタシもその件は許せません!」とかコメントもらえるんだな。
いいなー。
コメントいいなー。
コメントコメント書いていたら、脳に「メメントモリ」という言葉が浮かんで来ました。
酒もだいぶまわって参りましたし、お後が宜しいようで。
4月のスケジュールをいくつか。
4月2日(金)東京品川 トライベッカ
tel 03-6717-0933
http://www.tribeca.cc/shinagawa/index.html
vo:おおたりこ b:日下部史貴 pf:福島剛
19:45~start music charge:500円
品川駅の駅ビルの中にあるレストランでライブです。天才おおたりこに、骨太ベースの日下部さんをお迎えして。
4月4日(日)東京新宿 道楽亭Ryu's bar
tel 03-6457-8366
http://www.ryus-dourakutei.com/index.html
harmonica:皆川和義 pf:福島剛
新宿二丁目のど真ん中にある「道楽亭」の音楽イベントに参加します。対バンは鳩山浩二氏、鶴岡武雄氏。我々の出番は多分19:00過ぎから。
18:00~start music charge:1000円(1ドリンク付)
4月5日(月)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:山崎伸之 pf:福島剛
いつものメンバーで、いつものアリエス。真っ直ぐに「音」を見つめながら。結構本気です。
19:20~start music charge:2000円
という事でとりあえずこの三本。どれも楽しみです。今からリハーサル行ってきます。
中野「青葉」で、つけ麺を食べてきた。
有名店。「さては名前だけか?」といういささかの疑念も抱きつつ入店。
つけ麺を注文。最近、どこでつけ麺を食しても、判で押したように「濃厚魚介ダシ、極太麺、半熟味付玉子」と似たようなものが出て来て、それはそれで美味いのだが、何か「またこれか…」という落胆が胸をよぎるのも事実。
また「アレ」かな…と思いながらつけ麺の到着を待つと、出て来たのは、思いの外すっきりとした色合いのスープに、それほど太くない麺。
この時点で「おっ」と心が躍る。やはり皆が皆同じでも面白くない。
スープを軽く一口。幾つかの風味が複雑に絡み合うが、それらがうまく調和されている。見た目通りのあっさりさも良い。うん、美味い。
麺にはしっかりとしたコシがありながら、小麦が仄かに香る。
具材も悪くない。柔らかいチャーシューに大きめのメンマ。麺と一緒に啜れば、口の中で一つに溶ける。
最後はスープ割り(ダシでつけ汁を薄めるサービス)を頼んで、最後まで完食。なかなかに満足する。700円という値段も、安いとは決して思わないが、高いとも思わない。まあ「適正」の範囲内。
満足度は高い。ついブログにこうして紹介してしまう。
最近食べ物の事ばかり書いているな。ちなみに私は日々自己最高体重を更新中だ。絶賛肥満中だ。だって食べるの楽しいんだもの。
夕方からはずっとピアノを弾く。こちらは相変わらずのド下手。ちくしょう。
スーパーで鰯が大変安かったので購入。スーパーの鰯にしてはなかなかに上等。
六匹中、一匹を刺身に、残る五匹をツミレに。
ネギとショウガをキツい目に効かせる。煮る前から既に美味い。
楽しい夕飯タイムでございます。
彼女の奈美子が夕飯を我が家に食べに来るというので、矢鱈と張り切って餃子なんぞを作ってしまった。
キャベツとニラをみじん切りにして、ショウガとにんにくをおろしたものを入れて、そこに豚挽き肉ぶっこみいの、酒垂らしいの、塩コショウ砂糖醤油ごま油と、てけとーにぶち込んで右脇えぐりこむよにかき混ぜえのして中身を作る。
後は買ってきた餃子の皮でしこしこ包む。
その傍らで中華スープの準備。余ったニラとネギを大量にぶっこむ。
一緒にチャーハンも準備する。エビと卵とネギのチャーハン。
もうすぐ奈美子が来るので、そしたら餃子焼きます。美味いと言ってくれると良いのだけれど。
最近、料理がすげえ楽しい。
別段、花粉症でも何でも無いのだが、頭がぼうっとして、何か偏頭痛がしている。
なので見事に覇気が無い。「やる気」がイマイチ沸いて来ない。
頭が痛いなー、などとぶつくさ言いながら、だらだらとパソコンを弄る。
ふと、このニフティのブログにyoutubeの映像を貼ってみたくなる。youtubeへのリンクURLを貼る事は簡単に出来るが、動画自体をここに表示出来ないだろうか、と。
いくつか調べてみてやり方がわかる。やり方がわかった記念に、やはり「ふと聴きたくなった」だけの矢野顕子の歌をテストとして貼り付けてみる。うまくいく。我ながら大したものだ。多分著作権的にはアウトなのだろうけれど。
貼り付けた矢野顕子の歌は、「愛について」という歌。母と子と、そして父と、三人の物語。この歌を聴くといつも少し泣きそうになってしまう。矢野顕子のピアノ演奏も素晴らしい。
もう一つくらい、著作権的には全く問題の無いやつを貼り付けてみようかな。
それは即ち自分の作品。これなら著作権は自分にあるし、怒られようがない訳だ。
やってみっかな。
昼にレッスンを一つやって、次のレッスンは夜の7時からだった。
東京ドームでは14:00から広島対読売のオープン戦がやっている。
行かなくちゃ。君に会いに行かなくちゃ。
私の中の井上陽水的な部分が情熱的なシャウトを上げる。
チケットを持たずに一人で東京ドームへ。
前田智徳に会いにやってきた。
一人で寂しく観戦のつもりが、偶然にも球場内で行きつけの広島焼き屋の女将に会う。更にその店の常連さんも合流し、三人でまったりと観戦。
会話の九割がカープトーク。曰わく、「石原には危機感が足りない」だの、「ショートのレギュラー争いは現時点では完全に梵」だの「建さんは結果も内容も文句のつけようがナシ」だの「永川が危なげなく三人で抑えるなんてまるで守護神のようだ」だのと。
「ペローン」、「ボボ」、「劇場」、「ゴリラの置物」などのカープ用語を遠慮せずに使えるのはなかなかに楽しい。
試合は六対一で完敗するも、添付写真にわかるように、七回表に神が降臨する。あ、普通に言えば「前田智徳が代打で出てくる」。我々のテンションの上がり方たるやその時が最高潮。声の限りに「まっえっだ!」を連呼。神は空振り三振だったが、見れただけで満足だ。ホームランを打ったら泣いてしまうから。
久しぶりの球場の余韻に浸りつつ、千駄ヶ谷へ。レッスンに向かう。←今ココ
カープのレプリカユニフォームを着たままなのだが、仕方がない。まあ良いだろう。
レッスン頑張ってきます。
明日は神宮球場に広島対ヤクルト戦を見に行きます。
「何もしない」と決めた一日。「何もしない」のもなかなかに難しい。
ここの所、肉体的・精神的に少々逼迫していた事もあってそういった日を設けたのだが、決して病気な訳でも何でもないので、「何もしない」という事にすぐに飽きる。もそもそと布団から這い出してきて、テレビで野球のオープン戦を見る。カープが負ける。
仕方なく飯を作る。納豆にはネギと芥子をうんと効かせると美味い。味噌汁の出汁はきちんと煮干でとると美味い。自作の遅い昼飯に満足する。
おもむろにパソコンの前に座って、ブログでも書こうかな、と。
実は珍しくきちんと書きたいトピックがあって。
吉本隆明という人の事。
つい先日、テレビでやっていた彼の特集を見て、私は大層心を動かされたのだ。
吉本隆明。詩人であり、文芸評論家であり、思想家である。戦後最大の、思想家である。ハルノ宵子、よしもとばななの父親という事もあり、最近では「ハルノやばななの父」という見方で見られる事も多いが、バカを言ってはいけない。正しい方向は「隆明→ハルノ、ばなな」であり、決してその逆ではない。多くの人間の思考に多大なる影響を与え続けており、現在御年83歳、いまだなお強い影響力を持つ思想家である。
テレビ番組の内容は、昭和女子大で行われた氏の講演を「ただ映したもの」であった。それが良かった。不必要な解説や編集を入れずに、彼の息遣いや表情、或いははみ出した鼻毛までをも、ただ、じっと映す。そこには独特な緊迫感があり、それだけで一つの作品として成り立つ。NHK教育テレビが放送していたのだが、NHKもたまには良い番組を作るじゃないか、と偉そうにも私などは感じた。過剰な演出や解説は、時として「面白さ」をぶち壊す事も少なくない。わかりやすい事「だけ」が面白い訳では決してないのである。
吉本隆明氏の思想の根本には、「開かれてある事」というものが強くある。
それは、氏が戦時中に「皇国少年」としてその時代を過ごした経験から来ている。天皇礼賛、戦争賛美、という絵に描いたような皇国少年である。
氏が言うには、その皇国少年であった自分の背景には、「閉じられた世界」があったからだそうだ。内に対しても外に対しても閉じていた。だからこそ、ある種盲目的な皇国少年となった、と。そういう氏だからこそ、「閉じられた世界」の危険性を強く自覚しているし、「開かれてある事」の重要性を強く説いている。
今からおよそ20年ほど前の話であるが、氏の母校である都立化学工業高校に、中学生であった私は親父と二人で氏の講演を聞きに行った事がある。中学生の私にはいささか難しすぎる講演内容ではあったが、その時には「政府や企業はリコールに対して柔軟に応じるという開かれた姿勢を持つべきである」という事を言っていたのを覚えている。政府、或いは企業、そういった「集団」が閉じられているのは危険な事だ、と。それは上述したような氏の「開かれてある事」への指向の一環と考えれば納得がいく。
終戦による「転向」、その事をきっかけとして、氏の重厚なる思想は徐々に形成されていったのであろう。
今回の昭和女子大での講演について言えば、芸術論がその大半を占めた。
氏は自らの著作、『言語にとって美とはなにか』の中で、言語を大きく二つのベクトルに分けている。曰く、「自己表出」と「指示表出」である。
美しい花を見て、「あ、きれいだな」と思う。この時に脳裏で発された言葉は「自己表出」である。また、誰かに対して「ねえ、あの花はきれいだね」と言う、この言葉は「指示表出」である。
自己表出による「あ、きれいだな」という言葉は、誰か(他者)に伝えられる事を前提とされていないし、目的にもなりえない。それに対して、「ねえ、あの花はきれいだね」という言葉は、誰かに伝えられる事を目的とされている。つまり「内にある言葉」と「外に向かう言葉」という風に言い換えることも出来る。
この「自己表出」と「指示表出」という二つのあり方を用いて、氏は芸術論を展開した。
かなり端折って結論を言ってしまうと、「芸術(或いはその本質)とは自己表出である」というのが彼の意見となる。
つまり、本来的には芸術と言うものは外に向いていない、あくまでも内に向いたものなのだよ、という事だ。
もう一つ、彼が語っていた言葉を借りると、「優れた芸術というものは、それを見た人間に、(このものの良さはオレにしかわからない、オレこそがこの芸術の良さを十全に理解出来る)と思わせる事が出来る」と言っている。
なるほど、自己表出の顕現として芸術があるのであれば、それを見た人間(読み手、聴き手)の自己表出と何かのはずみにリンクした際には、そのような「独り占め感」が出て来るのは納得がいく。
そうやって出て来た自己表出的な芸術、それは、見事なほどに経済的な価値観とは結び付かない、と氏は続ける。わかりやすく言えば、「芸術なんて金にはなりゃあしないんですよ」と。
だから、それが良いじゃないか、というような事を氏は仰っていた。内にも外にももっと思考を「開いて」いって、もっと自由になりましょうよ、と。
そういった講演の内容、それ自体も大変にスリリングで興味深いものであった。だが、どうだろう、車椅子に座りながら、後半は天を仰ぐように、そして歌を歌うかのように朗々と語る氏の姿、それはまさに「切実に生きる人」の姿であった。
83歳にしてこの切実さである。現代を生きる思想界の巨人、そういった側面とは別に、「切実に思考し、生きる人間」として私の心を強く打った。
彼が話したように、この日講演をしたように、私も音楽がしたい、と思った。言葉に詰まっても、痰がからんでも、鼻毛がはみ出ていても。
だってその姿はあまりにも素晴らしかったから。
遥かに遠い頂ではあるのだけれど。
福島家の集いがある。
酔っ払う。
総勢13名の参加。我が家は相変わらず仲が良いのは良いことなのだが、しかしギャーギャーと騒がしい会になる。
一番ギャーギャーと騒いでいたのは私だが。
私達が子供だった頃の昔話に花が咲く。
その頃、私達は近所に住んでいたばあちゃんの家に毎週末集まって、昼飯をみんなで食っていた。ばあちゃんが住んでいたのは六畳一間の都営住宅、その六畳間に十人以上の人間が集まっていたのだから、さぞや狭かったのだろうが、私には不思議と狭かったような記憶は薄い。
私には当時(今でもだが)家出癖があり、家出をしてはばあちゃんの家に転がり込んでいた。
ばあちゃんの家に行かない時は、近所の新中川周辺を泣きながらふらふらと歩いており、私の従兄弟達が走り回って私を探していた。そんな事を言われ、少々気恥ずかしくなる。
大学を出た人間はさほど多くない福島家であるが、私の父が文学部の日本文学科出身、従姉妹のねえちゃんが文学部の哲学科出身、私と私の恋人の奈美子が文学部の英文科出身、異常なまでの文学部率の高さにいささか眩暈がする。文学部という学部は、逆立ちしても就職の出来ない学部である。なので私が日々ピアノを弾いたりカープを応援したりしながら遊んで過ごしているのも、奈美子が日々イナバウアーの練習をしたり歴代横綱とセ・リーグの歴代ホームラン王の名前を暗記したりして遊びながら過ごしているのも、全ては文学部が悪いのだ。私達は何も悪くない。
奈美子が私の親戚一同から「ごめんね、こんなタケシで」と頭を下げられていた。私は何も悪くない。
少なくとも、私が悪い時を除けば、私は常に悪くないのだ。
今日は私は一日レッスン。親父が朝から釣りに行っているので、魚がたくさん釣れていたら、奈美子の家に美味い魚を持って行こう。
賢明で世間の動向に敏感な当ブログの読者諸氏ならば、最近国際情勢を賑わしている「DD問題」は既にご存知の事だろう。
「DD問題」、そう、「ダシガラをどうする問題」の事である。
海外では「How do I treat a dashigara?」というキャッチコピーと共に、各国の首脳達が激論を闘わせているという、噂の「DD問題」である。
すべからく料理の基本は「出汁取り」にある。そんな事は小学生でも知っている周知の事実である。
立ちのぼる煮干しの香り、香ばしい昆布の芳香、上品かつワイルドな鰹節の魅惑。そう、「出汁を制すものは世界を制す」、世界チャンピオンを何人も育て上げた有名なトレーナーの至言である。
私も私とて、やはり世界を狙う身である。今一度基本に立ち返り、明日のためのその一、「丁寧に灰汁を取りながら右脇をえぐりこむように鰹節を煮るべし」を実践している。これだけでうどんの美味さが格段に変わる。まさに基本中の基本である。
さて、基本を実践し、その帰結として美味いうどんが食えるというのは良い。それは一種の方程式だからだ。幼少の砌、英才教育の一環としてみっちりと掛け算九九を仕込まれた私だからこそ、そういった論理的思考はお手のものだ。今となっては七の段より上がかなり怪しいが、それは些細な問題だ。
問題は、ダシガラである。
出汁を取り終わった後の鰹節、つまりわかりやすく言えば、「ホセ・メンドーサとの死闘を終えた矢吹丈」、これを如何に取り扱っていくかというのが、今、国際世論の中で激しく論じられている訳である。
出汁を取り終わった後の鰹節、つまり「真っ白に燃え尽きた鰹節」、「MMK」は、どのように調理しようと不味いのである。味が無い、歯ごたえが無い、テレビも無い、ラジオも無い、車もそれほど走っていない。まさにないない尽くしなのである。オラこんな村イヤだ。
私はこれまでその「MMK」に、単純に醤油をかけて食してみたり、またある時はめんつゆとごま油で炒めてみたりもした。しかし、まるで強固に口を閉ざした貝のように、「MMK」は美味くならないのである。不味いままなのである。
さりとて、それは価値ある食材である事には一分の揺らぎも無い。荒波を泳いだ鰹が、その尊い命を我々人間の為に差し出し、乾燥されたり削られたりした挙げ句の鰹節である。どうして無碍に棄てる事など出来ようか、いや出来ない。
(↑蛇足だが、これは「反語」という日本語表現である)
我々の命は、様々な命の犠牲の上に辛うじて成り立っている。その事実を強く自覚した際に、食材を無碍に棄てる事、それは畢竟、死をも意味する蛮行なのだ。
この問題に対し、朝鮮民主主義人民共和国、所謂北朝鮮の代表である金正日氏は、「ダシガラは我が祖国ではご馳走イムニダ。人民はダシガラを食っておれスムニダ。ぽっくんは牛肉のステーキを食うイムニダ」という声明を発表している。
片やアメリカ合衆国の代表であるバラク・オバマ氏は、「Yes, we can!」という威勢の良い掛け声と共にダシガラをむしゃむしゃといってみたのは良いものの、その余りの貧相な味わいに「change…」と言って眉をしかめたそうだ。
我が国日本の代表はと言えば、その内の一人、窪塚洋介氏は「I can fly!」と叫んで飛んでいってしまうし、もう一人の代表落合福嗣氏はテレビカメラの前を「うんこ!うんこ!」と叫んで走り回るというなかなかにアナーキーな振る舞いを始め、頼りの筈の貴乃花親方は「ちゃんこは…部屋で食うものです」と、兄勝氏(あにマサルし)への批判に余念が無かった。
最早八方塞がり、「DD問題」にはそうした閉塞感がある。
賢明で理知的な読者諸氏におかれましては、この世紀末的で絶望的な問題への解決策を知る御仁があれば、世界の恒久平和の為に一肌脱ぐつもりで、解決策を御提示願いたい。
危機感を持って頂きたい。これは、地球規模で我々を脅かしている大問題なのだ。
午前中から平井の税務署へ行く。確定申告だ。散々あちらこちらを盥回しにされて、税金やら何やらを6兆円ほど納めてくる。今年一年間、日本で作られる道路やら何やらはおよそ全てがその金から作られる事だろう。
さて、昼の二時過ぎに家に帰ってきて、私は一人で泣いた。涙を流してしまった。
事の顛末はこうだ。
自転車で平井の税務署まで行っていたのだが、本日は広島カープと阪神タイガースのオープン戦が13:00からやっていたので、私はそれが見たくて仕方が無かった。家に帰ったら即テレビ観戦、そう思いながら、自転車が赤信号で止まる度に携帯電話で「広島カープモバイルサイト」にアクセスしながら試合経過を見守っていた。
カープは1対0で勝っていた。私はその事実に喜ぶと共に、もう一つの不安を抱いていた。
オープン戦が見たい、だけではなく、私は前田智徳が見たかったのだ。
前田が代打で登場するのは恐らくは試合終盤以降、ランナーを溜めたチャンスの場面で登場するだろう。平井大橋を渡って小岩に戻っているその時には、まだ前田は登場していなかった。
もしも前田の打席を見逃してしまったら嫌だな、そう考えながら私は家路を急いだ。
家に帰って来た時には試合は6回表、カープの攻撃だった。
状況は1アウト2塁3塁、打席にはキャッチャーの石原慶幸が立っていた。
「おお、チャンスじゃないか」
私がそう思ったその瞬間、石原は三遊間を強烈に破ってタイムリーヒットを放った。
「やったー、二点目!」私は歓喜した。
久しぶりに歌う「宮島さん」。宮島さんの神主がおみくじ引いて申すには、今日もカープは勝ーち勝ーち勝っち勝ち!である。この瞬間、カープファンとしてはまさに最良の時である。
続くバッターはDH小窪。
と、思ったら。
代打が告げられた。
登場したのは背番号1。そう、前田智徳である。
私は久しぶりに映像で見る前田智徳の姿に、早くも涙を堪えるのに必死だった。
またこうしてあなたの打席を見れるとは…お帰りなさい、前田智徳…
そう、心の中で呟いた。
相対するピッチャーは、タイガースのルーキー、二神投手。これからのタイガースを担う若手の有望株である。
二神投手がいささか緊張した面持ちで投じた一球目は、内角高めのストレート、ストライクゾーンとボールゾーンのぎりぎりを行く、絶妙なボールであった。
しかしその初球、前田智徳は、一振りで斬って落とした。
ライトスタンドに高々と吸い込まれていく白球。文句の付けようの無い、どこまでも美しいホームラン。その芸術性たるや、野球というスポーツの辿り着く一種の極みではないだろうか、とさえ私は思ってしまった。鳥肌が、止まらなかった。
そしてその瞬間、私の目からは涙がこぼれ落ちていた。
堪えても、堪え切れなかった。
奇遇な事だが、昨日、私は『前田智徳の肖像』という自作曲を書き上げたばかりだ。
前田智徳、今日のホームランは復活の一打であり、始まりの一打だ。
今年の前田智徳からは、目が離せない。
数日ぶりに朝からひたすらピアノに向かう。
途中、あまりにも眠くて30分寝る。
またピアノに向かう。
いくらやってもちっとも前に進んでるような気がしない時、それでも唇を噛んで足掻き続ける。
多分、足掻いてもがいて一生が終わる。
納得が行かない事が多ければ多いほど面白いのは、人生と芸事の共通点ではないかな。
今日は一つ、取り返しのつかないミスから一日がスタートする。
頭を抱えるが、いじけて一日を棒に振ってはならないので、気持ちを切り替える。
昼に一つだけレッスンをしてから、確定申告の準備。経費となる領収書をことごとく捨ててしまっている自分に愕然とし、辟易する。ああ、それにしても金が無い。
一通り書類の準備を終えて、千駄ヶ谷の音楽スタジオへ。向かう途中でガムを噛んでいたら、結構な勢いで一緒に舌を噛む。
血が流れる。
踏んだり蹴ったり、という言葉が頭に浮かんで、それがものすごく腑に落ちてしまった、そんな一日。
天才、という言葉を聞いた時に、完全無比、そういったイメージを抱かれる方も少なくないかも知れない。
しかし、私の場合はと言えば、抱くイメージは完全無比とはいささか異なる。
天才、と聞いて、何か少々不完全なイメージを抱いてしまうのだ。
一芸に秀で、凡庸な人間が辿り着けぬ境地を見ていながら、何かつまらぬ所で簡単なミスを犯す。そんな不完全なイメージが私にはある。「誰にも出来ない事」が出来る一方で、「誰にでも出来る事」が出来ない。異端であり天才、そんな風に思ってしまうのだ。
そういった意味では、私はシアトルマリナーズのイチローにはあまり天才のイメージは抱きづらい。頑なにフォアボールを選ばないという一風変わった所はあるものの、やはり彼の勤勉で真摯な野球に対する態度が生み出した数々の技術を前にして、至高の芸術品を見るような心持ちにさせられる。
そのイチローと同じ背番号51を背負う男、広島カープの末永真史(すえながまさふみ)外野手、彼には私は強く「天才」のイメージを抱いてしまう。
開幕前のカープエッセイ、第三弾は彼、末永真史選手を取り上げてみたい。
佐賀県生まれの28歳、左投げに左打ち、俊足巧打のバッターである。怪我に泣かされる事も多い彼であるが、昨年はこれまでで最多の73試合に出場、得点圏打率は驚異の0.487を記録した。
勿論、0.487というこの数字、規定打席には半分程しか達していない事を考慮に入れれば、あまり信用に足る数字ではないかも知れないが、末永真史という選手を知る一つの手掛かりにはなる、と私は思う。
得点圏打率が高い、という事が何を意味するのか。それは端的には「尋常ではない集中力の高さ」を表している。
ランナーが二塁、或いは三塁にいる、いわゆる得点圏と呼ばれる状況。選手達の気持ちの昂ぶりたるや、相当のものがあるだろう。そこで通常よりも神経を研ぎ澄まして、相手投手の心理を読み、価値ある一点へと繋がる一打を放つ。それだけでもまさに「尋常ならざる事」なのだ。
また彼の打席を見ていると、不思議な違和感を抱く時がある。
投手には、「このコースにこのボールが投げれればまず打たれない」という聖域があると言う。土壇場の緊張した場面で、その聖域へ自らの渾身の白球を投じる。「ウィニングショット」とも呼ばれる東京である。
だが、稀にその聖域を陵辱する選手がいる。つまり、投手が「ここに決まれば打たれない」と自信を持って投じた一球を、無慈悲に打ち返すバッターが。
そういったバッターの代表格は、前回紹介した前田智徳である。
膝元に鋭く投じられた切れ味抜群のスライダー。普通のバッターならばまず打つことの出来ない乾坤一擲の一球。それを前田智徳は無慈悲にライトスタンドへと放り込む。そのようなシーンを目撃したカープファンは少なくない。
そしてまた、末永真史もそういった無慈悲な選手の一人なのである。
「何故それが打てる!?」というバッティング、そして彼の天才の真骨頂、ど真ん中に入ってきた緩いカーブを悠々と空振り、「何故それが打てない!?」である。
不完全という天才のイメージ、まさに私には末永真史は天才に見える。
今年のカープは外野手のレギュラー争いは熾烈を極めている。
天谷宗一郎はほぼレギュラーを手中にした感がある。それに割って入る強肩外野手廣瀬純、圧巻の俊足で驚異的な守備範囲を見せる赤松真人、新外国人のフィオレンティーノ、そして復活を期す嶋重信。私個人の希望を言えば、やはり守備でも前田智徳は見たい。
そういった中で、天才末永真史の存在感がより一層際立てば、こんなに嬉しい事はない。
覚えておいてほしい、「天才」末永真史である。
神保町のビレッジバンガードにて、新井英樹の「ザ・ワールド・イズ・マイン」の完全版を発見する。
この作品、確か週刊ヤングサンデーに連載されていた漫画作品だ。主人公の「トシ」と「モンちゃん」が理不尽な殺人を重ねる。同時発生的に「ヒグマドン」なる怪物が現れて地球を襲う、という何とも世紀末的な世界観と共に絶望と希望が描かれる。
大変に興味深い作品であるのだが、いかんせんそのモチーフとなった暴力描写などの過激さから、物語が佳境を迎えた所でほぼ打ち切りに近い形で最終回となった曰く付きの作品である。
圧倒的なスピード感やテンションの高さは、漫画という表現媒体の限界に挑戦したものであるように私には感じられた。
大幅な加筆修正が加えられているそうで、とても興味があるのだが、金が無かったので購入を断念する。全五巻、今度金に余裕のある時に一冊ずつ買おう。
しかし、あのビレッジバンガードという店は相変わらずあまり好きになれない。置いてある商品には面白いものがたくさんあるのだが、何だろうか、全体的な雰囲気があまり好きではない。「明るいサブカルチャー」みたいな雰囲気が。サブカルチャーには何かしらの「後ろめたさ」が欲しいと思ってしまうのは私の我が儘だろうか。
本日はこれから西荻窪へ。恒例のワークショップへ。
新しい発見や出会いが待っているのかも知れない。それを考えると、少し心が躍る。
ひょんな事から久しぶりに友人のHRHGに会う。
あ、HRHGっていうのは「広瀬量志郎HG」というヤツの事で。
勿論、HGなので新宿二丁目で会う。小一時間の互いの会話は「やらないか」と「ウホッ」のみ。相槌は「アッー!」である。その三つの単語を駆使してお互いの近況報告をする。
私「ウホッ、やらないかやらないか、ウホッ」
HRHG「アッー!」
と言った具合に。
いやいや、ホントは良からぬ企みを色々と話し合っていただけなのだけれど。日本転覆とか政府解体の革命方法などについて。
昼過ぎにHRHGと別れて千駄ヶ谷のスタジオへ。半日練習をしようと思って。
二、三時間練習した辺りで強烈な眠気が私を襲った。「何だろー嫌だなー変だなー怖いなー」と稲川淳二風に思ったのだが、眠いのばかりは仕方が無い、その状態でピアノを練習しても楽しく無いので一旦練習を中断、外へ散歩に出る。
外へ出てみたら、大変に穏やかな陽気。もはや春だ。「早春賦」を歌いながら散歩する。はるーはなーのみーのー、と。
嬉しくなって地べたに寝転がっていたらそのまま寝てしまう。通りがかった警察に起こされる。
別に何も悪い事はしていないのに。
「何をしてるんだ」と聞かれたので、正直に「寝ていました」と答える。程なくして解放される。
仕方が無いのでスタジオに戻ってまた夜まで練習をする。ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」、第一楽章、やっと最後までたどり着きました。2ヶ月かかったよ。まだまだ全然弾けないけれど。
そんなこんなで一日が過ぎてゆきました。
今日も平和です。
大好きな野球選手というのはそれはもうたくさんいて、「枚挙に暇が無い」というのは正にこういう時に使う言葉なのだなと思う。
勿論どうしたってカープの選手に好きな選手は多いが、他球団の選手にも好きな選手は多い。
中日ドラゴンズの井端弘和内野手、東北楽天イーグルスの田中将大投手、北海道日本ハムファイターズのダルビッシュ有投手、読売ジャイアンツの大道典嘉外野手、東京ヤクルトスワローズの宮本慎也内野手、他にも好きな選手はたくさんいる。
だが、一番好きな選手は誰なのか、と聞かれたら即答だ。
広島東洋カープの前田智徳外野手。彼は現役選手だけでなく、既に引退した選手を入れても、私の一番好きな選手なのだ。
極端な話、私にとっては「野球ニアイコール前田智徳」でもある。
広島戦を見に行く時、私はいつも心のどこかで思う。「今日は前田が見れるかな」と。
彼がバッターボックスに立つ。彼のテーマソングを大声で歌う。「狙い絞って振り抜け、速く鋭い打球を、飛ばせ明日へ向かって、輝け前田」と。その時の私の高揚感たるや、少なくともスポーツ観戦においては他に比肩しうるものを知らない。
彼は昨年一年間を、怪我の為に棒に振った。一部では前任監督のマーティ・ブラウン氏との不仲説も囁かれたが、そういった事は所詮は憶測の域を出ない。結果として「前田智徳は2009年、一度も試合に出なかった」。それが全てであり、それ以上でもそれ以下でも無い。
彼が三軍のグラウンドで何を思いながらバットを振っていたのだろう。イチローが憧れ、落合が「天才」と称した孤高のバットマン。ホームランを打っても、自らの理想とする打球から離れていればベースランの最中に首を傾げる事さえあった変わり者。幾度の怪我に泣かされながら、彼は今何を考えているのだろう。
そんな彼が、今年は復活を期している。代打専門のポジションではあるそうだが、我々ファンは今年こそその芸術的なスイングを目にする事が出来るのだ。
彼が、3月4日のマツダスタジアムにおける埼玉西武ライオンズとのオープン戦に、約二年ぶりに出場したそうだ。
結果は三振。快音は聞かれず終いだったそうだが、私は思う、「もしその場に私が居合わせていたら、私は果たして溢れ出る涙を堪える事が出来ただろうか」と。
背番号1。彼の姿を球場で見れる。今年こそ見れる。
代打前田智徳の名前がコールされ、仏頂面の背番号1が集中した面持ちで打席に向かう。
どこまでも高く、打球は空に吸い込まれていく。
そんなシーンを想像したら、今から涙が出そうなのです。
お帰りなさい、前田智徳。
訳の分からないほどの二日酔いに苛まれつつ、昼過ぎに起きて、昼に幾つかの事務作業をする。
さてどうしたものかと思案して、ふと思い付く。そう言えば、プロ野球カードが大量にたまっていたな、と。押し入れからガサガサと野球カードを取り出してきて、それらを整理。買い取ってくれる業者に売りに出す。
売りに出すための整理とリストアップだけで軽く半日を費やす。入ってくる金額は約一万円。何だよそんなもんか、と若干がっかり。
まあ、捨てればタダだし、一万円でも入ってくるだけ良しとしなくては。
そんな事をしていたらあっという間に一日が終わる。
神様、今日も私は一日を無駄に過ごしました。裁きの雷(いかずち)を落としてやっておくんなまし。
久々にテレビでサッカーをじっくりと観戦中。日本対バーレーン戦。
本田と松井が良い選手だな、と思う。
中村俊輔との世代交代は、そう遠くない話なのかも知れないなあ。
個人的に好きな岡崎選手が点を入れてくれて現在は1対0。
もう一点ぐらい見たい。
ジャズの曲は大体32小節、多くともその倍の64小節を暗譜出来れば、取り敢えずの体裁を保てる事がほとんどだ。後は即興の部分も多いから。
それに比べてクラシックは絶対的な暗記量がジャズに比べて遥かに多い。
今練習しているベートーベン、数えてみたのだけれど、1ページあたりの小節数、実に48小節(たまたま今やってるページね)。それが8ページ。繰り返しの部分も入れると何と700小節前後ある訳だ。
これを完全に暗譜して弾いているピアニストがザラにいる訳だから、その暗譜力だけで既に脱帽だ。
すげーなあ。
バカなのでちっとも覚えられません。
昼飯に味噌汁を自分で作って納豆ご飯と一緒に食べる。美味い。
味噌汁は、煮干でしっかりとダシをとってから、豆腐とワカメとネギを具材として入れた。先日うどんを自作した時にも身に染みてわかったが、この手の料理(うどん、味噌汁等)はとにかく「丁寧にダシをとる事」が何より大事だ。そこさえきちんとしていれば、勝負は八割方決まったようなものだ。先日のうどんは鰹節でダシをとった。今日は煮干。今度は昆布での上手なダシのとり方に挑戦してみたい。
さて、そんなこんなで少しのんびりとしている。週末が少し忙しかったのだけれど、週が明けてからはまた数日間のんびりとした日が続く。こうして料理に興じたりも出来る訳だ。
オリンピックが終わったせいもあってか、何となく世間も落ち着いたように感じられる。
今回のオリンピック、以前の記事にも書いたが、私はさほど夢中になって見ていなかった。なので一昨日から昨日にかけて、「オリンピックを振り返る番組」みたいなものを幾つか見た。
上村愛子の相変わらず美貌に若干やられながら見ていたのだが、気になった事を一つだけ。
開幕直前にちょっとしたお騒がせ事件の当事者として日本で(不本意ながら)一躍有名になってしまったスノーボードの国母選手の一件。
私個人の意見を言えば、「服装なんてそんなのどうだって良いだろ」という所も多分にあるのだが、彼を巡る論調の中に大変癇に障るものが幾つかあった。
それらの癇に障る意見に共通するのは、「個性」というキーワードである。
曰く、「何故日本という国は選手の個性を尊重しないのか」と。
そこで私の頭の中に幾つものクエスチョンマークが浮かぶのだ。
まず、私には国母選手はさほど個性的には見えなかった。スノーボードの選手たちの服装を見ていれば、ジーパンで出場する選手も多数、スキーウェアからいささか離れたようなものも多数あった。そういった中に入った時に、国母選手の服装は決して奇異ではない。腰パンもピアスも、言ってしまえば「大多数の流行」だと受け取る事が出来る。(勿論それは「スノーボード界」という極めて小さな社会の中での流行だが)
そういった観点から見た時に、彼はむしろ「秩序を守る側の人間」だという見方も出来る。スノーボードというスポーツのファッション性、そういったものを、実現出来ていたかいなかったかは別にして、体現しようとしていたのではないだろうか、と。
私はスノーボード競技を片手間にぼんやりと見ながら思っていたのだが、逆に「背広に七三分け、そしてメガネ」というファッションでかの競技に出場したならば、それは大変な反逆の象徴にもなったのではないだろうか、とさえ思ったのだ。
そして一番私が釈然としないのは、「個性とは守られるべきものなのか?」という点である。
守られなければならない個性など、それは既に個性でも何でもなく単なる主張であろう、と。
個性的であろうとする人間がすべからく凡庸なように、意識された個性、守られた個性など個性ではない、と私は考えている。
消そうとしてもどうしても消えない、最後まで仕方なく残ってしまったものだけが真の個性なのではないだろうか。
ゆえに、「どうして彼の個性を潰すのか」という論調には強い反感を覚える。そんなもん始めから個性でも何でもねえよ、と。
そういった意味では、先月引退となった横綱朝青龍、彼は良くも悪くも「本当に個性的な人」であった。
朝青龍と国母選手、同列に論じられる事もしばしばであったが、それも完全に論点がずれている。個性の質がそもそもにおいて違う。
国母選手に私が唯一同情的になるのは、「競技前から批判を受けた事」である。彼は彼なりに努力をしてオリンピックの代表という座を勝ち取った。ならば、競技が終わるまでは競技に集中させてやれば良いのに、と思った。
ともあれオリンピック閉幕。選手の皆様、お疲れ様でした。さあ、次はプロ野球開幕だ!
ファンは気楽でいいものです。
我が家、福島家は比較的親戚付き合いが密な方だ。
色々と理由はあるのだけれど皆何故か故郷の小岩から離れず、その近辺に住んでいる。
事ある毎に親戚は集まるし、たまに聞く「親戚の存在は知っているが顔は合わせた事が無い」という状態とは程遠い。
それが果たして良いことなのか悪いことなのかは私には預かり知らぬ所ではあるが、何にせよすぐ近くに家族がいる、というのは存外に気分が良い。
従兄弟に三人の子供がいる。
一番上の娘が生まれたのは私が中学生ぐらいの時の事だったので、その娘ももう中学三年生である。
生まれた当初の面影はとうに無く、今では生意気盛りの思春期ガールだ。誰もが通る道だ。
私にとっても大変に可愛い姪っ子(で良いのか?この場合)なのだが、その姪っ子が高校受験に合格したとの知らせが今日、あった。
なかなかに勉強が苦手な子だったので、どうなるかと心配していたのだが、取り敢えずは一安心。良かった良かった。
お祝いしなきゃな。
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