消えていく記憶、残る思い出
我が街小岩の駅前には、大きな声で独り言を言っている人がちらほらいる。今日も「写真が出来たんだってよ!でも取りに来いって言われてもなあ!」と叫んでいるオッサンがいた。見えないお友達と話しているのだ。平和な街だ。
さて、今日は「忘れる」という事について考えてみよう。
私たち人間の記憶力というのは往々にして曖昧で、生まれてから今までの事を全て詳らかに覚えている人間には私は未だ嘗て会った事が無い。もしも「そういう人(全てを記憶している人間)だっている!」と言われれば、それを否定する術を私は持たないのだけれど。「へえ、そうなんだ」と返すより外ない。私達は随分と狭い世界で生きているのだから。
私たちは、過ぎた事を「忘れる」。それは良きにつけ、悪きにつけ。
あくまでも個人的な仮説ではあるが、それは何かの自己防衛本能に則っているのではないだろうか、と私は思う。ある一定量の情報を頭に入れた時に、容器としての脳から情報がこぼれ落ちる。それが或いは「忘れる」という事なのではないだろうか、と。
あまりに多くの物を所有して人間が生きていけないように、記憶もまた量としての臨界点をそれぞれに持っているのかも知れない。それを超えた時に、私たちの脳は余剰の情報をほぼ自動的に削除し、忘れる。勿論、容器の嵩は、成長や退化によってある程度伸縮はするのだろうけれど。
「忘れる」という現象を、実生活レベルで頻繁に経験する。
年が明けてから私は完全に思い付きでジョン・コルトレーンというサックス奏者の「ジャイアントステップス」という曲の練習に取り組んでいる。一つのエクササイズとして、コルトレーンが吹いたフレーズを一音ずつなぞっていく、所謂「コピー」と呼ばれる練習だ。
コルトレーンのサックスソロは、前半だけでおよそ10コーラス近くに及ぶ。1コーラスが16小節の長さであるから、単純に計算すれば約160コーラスもの長さをそのソロは持つのである。
これがなかなかに覚えられない。
前日に何時間も練習して覚えた筈のフレーズも、一夜おいて翌日になれば綺麗さっぱり忘れている。仕方がないからもう一度覚え直す。さらに翌日になれば、その大半をも再び忘れている。そんな事が日々続いていく。
しかし私はどこかで諦観にも似た感情を抱いている。
「忘れたらまた覚えれば良いのだ」と。
それは先に言ったように、私の脳が「その情報はまだ不必要だ」と判断して自動的に削除した結果として忘れているのだ。必要とする時が来れば、それはごく自然に私の記憶に組み込まれる。その時を、じっと待つのだ。地道に忘れたり覚えたりを繰り返しながら。アフリカの砂漠の中で寒さに耐えながら夜明けを待つフタコブラクダのように。
脆弱な記憶の中で、どうにも消えない記憶もいくつかある。それは、顔から火が出そうな程に恥ずかしい記憶もあれば、思い出しただけで歯軋りを堪えきれない悔しい記憶もある。中には、私の大切な人達の、宝石のように素敵な記憶だってある。
いつかは忘れてしまうのかも知れないし、もしかしたら私が息を引き取るその瞬間まで、それらは残っていくのかも知れない。
覚えたり忘れたりを繰り返して、そうして私たちは生きている。
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コメント
忘れるってのは、記憶が消えちゃうんじゃなくて、脳のどこかに眠らせちゃうことな気がするけどな…どうなんだろう?催眠術をかけると、無意識の世界で、幼い時の記憶とかを事細かに蘇らせることができるでしょう?
忘れられない脳を持つ人は生きていくのが苦しいだろうな。私は忘れたいこと(恥)がとても多いので、忘れっぽい頭でとても助かってます。忘れたいことが多い福島くんも、だから酒で記憶をとばす試みをしてるんだよね?
投稿: クロサバ | 2010年1月13日 (水) 01時31分
クロサバさんへ
記憶が眠る、か。それもありえますよね。人間は脳の2~3割ぐらいしか使ってない、というのを何かで聞いた事がありますから。その使ってない部分にしまっているのかもね。
恥の多い生涯を送ってまいりますと、お酒の力も借りなきゃなりません。
投稿: ふくしまたけし | 2010年1月14日 (木) 15時00分