いつまでも柔らかでいられなくて
史実であるのか創作であるのかは知らないが、坂本龍馬のエピソードで一つ、好きなものがある。
それは龍馬の師となる勝海舟との出会いの際のエピソードだ。
ある日、尊王倒幕を目指した龍馬が、佐幕保守派・開国論者の急先鋒であった勝海舟の元を訪れた。名目上は「勝の開国論を聞こう」という事だったが、実際の所、「いざとなれば勝を斬ろう」という心構えであったという。つまり、龍馬は刺客として勝と出会ったと言っても過言ではないのだ。
勿論、結果として龍馬は勝を斬らなかった。その開国論、世界観に感銘を受けて、その場で勝に弟子入りした。
このエピソードから現在を生きる我々が学び得る教訓は様々あるであろうが、やはりその内の一つは龍馬の卓越した柔軟な思考ではないだろうか。(龍馬をあっさりと説得させてしまった勝海舟は流石であるが、今回は触れない)
立場的には相反する立場の人間の意見であっても、良いものは良いとして取り入れる。龍馬の魅力として度々語られる「ボーダーレスで広範な視野」というものがこのエピソードからわかる。
ただし、「反対側の人」の意見を訊いて、あっさりと自らの意見を変える事が出来る程、私は(或いは私達は)もはや大して柔軟ではない。その事もまた、知っている。
二十代の前半までには、私の思考の中でのコペルニクス的転回とでも言うべき大きな変化が何回かはあった。その原因は人からの意見であったり、読んだ本であったり、或いは自分で考えた事であったりだった。
良い意味で私は私に不信感を抱いていた。「今自分が良いと思っている事、指針としている事は、いずれ流転する。ただ身を任せろ」と。つまり私は私の信念を、良くも悪くも信じてはいなかったのだ。
それが、知らぬ間に固まって来た。
三十代に突入した今、「私はもう恐らくは私から大きくは変わらない」という絶望にも似た諦観を抱いている。私という人間の凡その骨組みは既に出来上がってしまった。枝葉末節においての変化・修正は当然あるにしても、根っこの部分はもはや強固に出来上がってしまっているのではないか。私はそう感じている。
「年を経るごとに頑固になる」、簡単に言ってしまえばそういう事なのだろうし、それは別段悪い事だとは思わない。
別の見方をすれば、「動じなくなってきている」という見方も出来る。これまでに幾つもの屈辱的な言葉を浴びせられ続けている内に、大半の事を「聞き流す」ようになってしまっているのかも知れない。最初は柔らかだった空手家の拳が段々と固くなるかのように。
だから龍馬のような柔軟さと広い視野に、私達はいつまでも憧れてしまうのだろうか。
どんどん頑固にはなるが、処世術だけは経験値として覚えていく。そういった一種の自己乖離の裏返しとして、柔軟な思考の男に、広範な視野の男に憧れてしまうのだろうか。
そうやって少しずつ凝り固まってきたのは何時の頃からだったかな、と考えると、恐らく私の場合は25歳ぐらいではなかったか、という気がしている。
先程から書いているように、良く言えばあまり動じなくなった。悪く言えば、人の言う事にあまり左右されなくなった。そういう傾向が始まり出したのは、大体25歳ぐらいの時だったと思う。
ひょっとしたら、それがやっと「物心が付く」という事なのだろうか、と思うのだ。「私」が大体出来上がる、それが「物心が付く」という事なのかな、と。
そうだとしたら、20代以降の私は、随分と酒で意識を失っている時間が長いのだよな、と思い出した。せっかく物心も分別もついてきたのに。
10年間は3650日であり、1日は24時間なのだから、3650×24=87600時間、というのが10年間の長さだ。
私は大体一日の四分の一ほどを酩酊して過ごしていたので、87600÷4=21900時間、実に10年間で21900時間もの時間を意識下なのか無意識下なのだかよくわからぬ状態で過ごしてしまっている訳だ。それを考えると、私はどこかで「分別がつくようになってきた事」を無意識の内に拒絶しているのだろうか、とも思う。
まだもう少し人生は続きそうなのだけれど、こうしてこれまでの事を考えるとうんざりさせられる事も多々ある訳だ。
何だか今日はいつにもましてとりとめがないので、ここでヤメ。
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コメント
25歳…お肌の曲がり角と同じ年ね…女性も大体、25くらいで潤いのあるピチピチした肌を失っていくのよね…。25過ぎると、押したら押し返すようなお肌の柔軟性というかバネみたいなものがなくなっちゃう。人間、やはり「25」というのは指標的な年なのね…。動じなくなったのはいいことじゃない?芯の部分が確立されたってのは生きていく上で大事なことじゃないかな?
投稿: クロサバ | 2010年1月25日 (月) 18時07分
男は頑固で良いんじゃないですか。我が愚息は流行りの草食系らしいけど…かなり頑固(笑)基本の考えは曲げない。じいちゃんにそっくりです。…でも、男には他に色んな魅力があるから、頑なでいいサアです。私は福島君好きな方ですよ(笑)
投稿: のりまき | 2010年1月26日 (火) 11時48分
クロサバさんへ
動じなくなってきた事で一つの安心感が生まれてくる一方で、何か感受性が鈍くなっているような気もどこかでします。
何でもないような事に安易に感動したり絶望したりしていたっていうのは、本当に良くも悪くもだなあ、と。
投稿: ふくしまたけし | 2010年2月 4日 (木) 14時45分
のりまきさんへ
「自分の意見を持つ」という事と「人の話を聞く」という事をうまくバランスを保ちながらやっていきたいですね。どちらかに偏りすぎるのは、ぼくはまだ恐いです。
つってもなかなか人の意見も聞けないおこちゃまなんですけど(笑)
投稿: ふくしまたけし | 2010年2月 4日 (木) 14時48分