茅ヶ崎を電車が通り過ぎる時、珍太郎の心は妙にそわそわと、落ち着きを失った。
そこは珍太郎にとってほんの少し、特別な土地だったからだ。
今から10年も昔の話だった。
珍太郎は、海外で一人の女と出会った。珍太郎が、二十歳の時の話だった。
卑猥田エロ美。この物語の核になる、もう一人の主人公である。二人はインドの首都、デリーの街で出会った。
珍太郎は、エロ美との出会いをはっきりと覚えていた。あまり記憶力の良くない、昔話などには比較的無頓着な珍太郎からすればそれは珍しい事だった。
珍太郎はその当時インドにいた。何を目的に行っていた訳でもない。ただ、時間を持て余していたのだ。いや、時間だけではない。その時珍太郎は、人生そのものを持て余していたのかも知れない。若い頃からしっかりと無駄なく人生を生きる人間など少ない。多くの人間が、その貴重な時間を多量にドブに捨てる一時期を人は「青春」と呼び、若い時分から無駄なく人生を生きる稀有な人間の事を人は「天才」と呼ぶ。そういう意味では、珍太郎はまさに「青春」を生きていた。
宛もなくインドに来て、デリーの安宿街を珍太郎がふらふらと歩いている時だった。横から強烈な怒声が聞こえた。
「ディスイズエクスペンシブトゥーマッチなの!高すぎるのよ!アンタきちんと商売する気あんの?バカなの!?死ぬの!?」と。
聞き覚えのあるイントネーションの話し手は、やはり日本人だった。インド人に対して、片言の英語と気っ風の良い日本語とを交えながらしっかりとコミュニケーションをとっていた。
何を買おうとしているのだろう。気になって珍太郎は遠目にその女の方を見た。女は、横笛のような笛についての値段を交渉していた。
「スリーサウザンドルピー?バカなの?殺すわよ!タルティルピーならOKよ!」威勢良く女が言うや否や、インド人は表情を緩め、「OK、グッドフレンド、タルティルピーOK」と微笑んだ。ちなみにタルティはインド訛りでサーティ(30)だ。
恐らくその横笛の値段は10ルピーほどだ。珍太郎はインドは早くも三回目だったので、その相場の大凡の所はわかっていた。女は、ゼロを二つとったにも関わらずにインド人にボられた。そもそも、10ルピー(およそ30円)の商品を3000ルピー(およそ9000円)で売りつけるインド人の感性が驚愕なのだが、と珍太郎は思った。
しかし、それまでの怒声の勢いからは想像もつかないほど、女の顔は笑みに綻んでいた。
30ルピーを差し出して横笛を受け取ると、最早我慢など出来ぬ!といった塩梅で女は笛に唇をつけた。
極めて自然に、笛の音が響いた。女はすぐに音を鳴らす事に成功した。素晴らしく美しい音であった。
指使いに関しては少々思案している風だったが、それもすぐに要領を得たらしく、間もなく簡単な音階を吹いた。
楽器に慣れた後、女は確かめるように一つの曲を吹いた。それは、「たま」の『さよなら人類』であった。
二酸化炭素を吐き出して、あの子が呼吸をしているよ
珍太郎の脳裏にその歌詞が浮かぶ。しかし、何故に『さよなら人類』?とは思ったが、珍太郎はあえて聞かずにいた。女は、まるで舞うように笛を吹いていた。珍太郎はそれに完全に見とれていた。うっとりと。結論から先に言ってしまえば、この瞬間に既に珍太郎は眼前の女に恋をしていたのだ。
音楽が暫く鳴り響く。「今日人類が初めてー木星に着いたよー」の所でついつい珍太郎は「着いたー!」と大きな声で合いの手を入れてしまった。全くの条件反射だ。すると、女が珍太郎を見た。軽く、微笑んだ。
珍太郎はそこからヒゲダンスを踊った。女は途端に笑顔になった。
「猿になるよー、猿になるよー」のフレーズを女が吹き終わった後、二人はがっちりと握手を交わした。
「あなた、名前は?」女が聞いた。
「カリデカ…カリデカ珍太郎(かりでかちんたろう)っていうんだ。宜しく…」
そう言うと女は快活に言葉を返した。「アタシは、卑猥田エロ美っていうの、宜しくね!」
「エ、エロ美ちゃん…」珍太郎はその名前を恥ずかしながらも反芻した。
珍太郎が本格的にエロ美に惹かれていくのにそれほどの時間はかからなかった。少々気が強く、また気難しい面もあったが、珍太郎はエロ美にどんどん惹かれていった。
エロ美は、大変に背の低い、小さな女性であった。いつも恥ずかしそうに帽子を深々とかぶり、長いスカートを履いていた。
昼過ぎになると、ホテルの珍太郎の部屋をコンコンとノックし、「ねえ、お昼ご飯食べに行かない?近所に美味しいカレー屋さんがあったの」などとはにかみながら言っては珍太郎を食事へと誘った。
食事を終えてホテルに戻ると、珍太郎の前で笛を吹いた。それは、驚くほどに美しい音色だった。珍太郎は、それまでにそんなに美しい笛の音を聞いた事がなかった。三度目とはいえ見知らぬ土地へやって来て気を引き締めていた珍太郎が、心を緩めた瞬間であった。
珍太郎はエロ美に「ぼくは君の事が好きなんだ」と伝えられたら、と思った。想いを打ち明けられたら、そうしたらどれだけ素敵だろう、と夜毎考えた。
「エロ美ちゃん…」
布団の中で、珍太郎は独りで唇を噛み締めた夜もあった。
結果から言えば、珍太郎はエロ美に対してその淡い恋心を伝える事はなかった。デリーを離れ、エロ美はそこから東にある聖地バラナシへと向かい、珍太郎は西へ、一路パキスタンを目指した。二人は、逆方向へと進み、離れていった。
パキスタンへと向かうバスの中で、珍太郎の頭の中で、風に揺れる長いスカートと鍔の広い帽子が、鮮明に思い出されていた。たった一週間ほど、二人は同じ時間を過ごし、珍太郎は淡い恋に落ちた。ただそれだけの事だった。
それが、10年前の話だ。
珍太郎はもう30歳になっていた。
一年前に同い年の女性と結婚した。子供が近々生まれる予定だ。珍太郎は、幸せだった。
茅ヶ崎駅へ電車が近付いた時に珍太郎の心が騒いだのは、嘗てエロ美が「あたしね、茅ヶ崎の生まれなの」と言っていたのを覚えていたからだ。
年に、ほんの数回だが、この湘南の辺りを電車で通る。珍太郎は、そのたびに昔の淡い恋心を思い出すのだ。
卑猥田エロ美ちゃん…今ではどこで何をしているのだろう…
珍太郎がそんな事をふと思ったその瞬間だった。
眼前に、エロ美が、いた。
長いスカートを、今でも履いていた。足元の少し汚れたスニーカーが、とても可愛らしかった。
茅ヶ崎駅から電車に乗り込んで来たのだ、間違いない。
珍太郎もエロ美もすぐにお互いを認識した。エロ美がエロ美だと、珍太郎が珍太郎だと、お互いにすぐにわかった。
二人はじっと見つめ合った。時間にして約一分、つまり約60秒ぐらいの間だったろう。二人にはそれが随分と長い時間に感じられた。
先に表情を綻ばしたのはエロ美だった。破顔して、少し笑った。
「カリデカ君、お久しぶり」
珍太郎も、すぐに破顔した。
「うん、久しぶりだね。元気だった?」
言いながら、珍太郎はほんの少しの居心地の悪さを感じた。
「今更オレは君に何を言おう」
珍太郎は、そう、思ったのだ。
「10年ぐらいになるのね。あたし、たまにカリデカ君の事思い出してたわ。ううん、たまにじゃないかも知れない。結構頻繁に」
言いながら、エロ美は少し当惑していた。エロ美自身にも、やはり「今更何を言おう」という気持ちがあったのだ。
ほどなくすると、珍太郎の横に座っていた中年女性が下車し、隣の座席が空いた。そこにエロ美が腰掛けた。
「何してたの?10年間」
エロ美が尋ねた。それはとても穏やかな声だった。
「まあ、相変わらずで。何とか生活してるっていうか、そんな感じ…」
珍太郎は、呟くような声で、だがしっかりと聞き取れるように、そう答えた。
「あ、でも昨年結婚したよ。もうすぐ子供も生まれるんだ」
珍太郎がそう言うと、エロ美は珍太郎から視線を外して、虚空を見つめながら言った。
「あたしもね、結婚したわ。三年前に」
珍太郎はそれを聞いて黙って頷いた。
「だから今は苗字も卑猥田じゃないの。今は淫乱澤、そう、淫乱澤エロ美(いんらんざわえろみ)って言うの。何だか語呂が悪いでしょう?」
珍太郎は少し黙って考え込んだ。
淫乱澤…どこかで聞いた事がある名前だ…
珍太郎はそんな事を考えていたが、すぐにそれは一つの結論へと帰結した。
「淫乱澤って、まさかあの大手保険会社の淫乱澤コンツェルンと何か関係あるの?」珍太郎は尋ねた。
少し躊躇ってから、エロ美が答えた。
「まさしくそうよ、私の今の夫は淫乱澤コンツェルンのトップ、淫乱澤羽目之助(いんらんざわはめのすけ)よ」とエロ美は答えた。
淫乱澤羽目之助、その名前は社会の情勢にに疎い珍太郎でも耳に覚えがあった。「あなたのお宅にいんらんざわー」というテレビCMを目にしない日はない。バイクと言えばホンダ、そして本田宗一郎というのと同じノリで、保険と言えば淫乱澤コンツェルン、そして淫乱澤羽目之助だった。
エロ美は、ゆっくりと呟き始めた。
「主人がね、あ、淫乱澤羽目之助がね、あたしが路上で笛を吹いているのを聴いたの。あたしはその時は大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を吹いていたわ。別に好きな曲ではないんだけれど、やっぱり多少は流行りの歌も吹かなきゃね」
それを聞いて珍太郎は「『それが大事』は今は全然流行ってない」と言いかけたが、やめた。
エロ美は続けた。
「でね、サビに入る前の『ここにあなたがいないのが寂しいのじゃなくてーここにあなたがいないと思う事が寂しい』っていう所があるじゃない。あそこを吹いた時に、主人がたまらず合いの手を入れて来たのよね。曰わく、『WowWow(うぉううぉう)ー』と。それで仲良くなったわ」
そう言うとエロ美は再び珍太郎の方をじっと見た。
「昔ね、あたしがインドにいた時、あたしが初めて笛を吹いた時に、大声で合いの手を入れてくれた人が一人いたの。あたしは、その人の事が大好きだったの。」
珍太郎は、咄嗟に視線を外した。
「着いたー!だ…」
ボソッと、珍太郎が言った。
「そうよ、着いていたわ。着きまくっていたわ。木星はおろか、土星、天王星あたりまで。着きに…着きに着いていたわ!だから主人のWowWowに、その人の事を重ねたの!仕方がないじゃない!」
一息に、エロ美が言った。
「そうか…」
珍太郎が呟いた。
「エロ美ちゃんは、俺の事が好きだったんだ…」
珍太郎がそう言うと、エロ美は諦めたような、観念したような様子で「そうよ」と呟いた。
「淡い恋だった事はわかってる…でもあたしはあなたが好きだった…一緒に過ごす時間が、楽しくて仕方がなかった…」
絞り出すようなエロ美の言葉であった。
珍太郎がそれに続いた。
「オレだって、オレだって君の事が…」
エロ美が、珍太郎の口を手の平で塞いだ。
「言っちゃダメ…言っちゃダメ…なの…」
珍太郎は反論した。
「君は…君は言ったじゃないか!」と。
「あたしは良いの。女の子だから。ねえ、あなたの事が今でも好きよ。いつかまた、こうやってばったり会えたら嬉しい」
「オレだって嬉しい」
二人の間に沈黙が流れた。
電車が熱海に着いた。
「あたし、もう降りなきゃ」
そう言うと、エロ美は立ち上がった。
「ねえ、いつかまた本当に会えるかしら」
「ああ、きっといつか会えるよ」
再び、エロ美が破顔した。
「わかった。じゃあこれからあたしは長野の仏門に入るわ。俗世間、バイバイ!」
そう言うと、踊るようにエロ美は駅へと降り立った。
珍太郎を乗せたままの電車は、ゆっくりと西へと進んでいった。
(了)
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