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2009年11月27日 (金)

原爆のこと

変な自慢では無いが、日本にある都道府県の中で行った事が無いのは沖縄県だけだ。

昔オートバイに乗っていた時期にあちこちへ行った事や、若い頃に現実逃避の為に「いじけ旅」と称して東北や四国をふらふらとしていた事なども手伝って、随分とあちらこちらへと行った。見知らぬ土地で無計画に野宿をしたり、知らない店に適当に入ったりするのはなかなかに楽しかったものだ。

それは海外に行った時もあまり変わらなかった。多分、一生治らない。この「ふらつき癖」は。

そうやってあちらこちらへ行って、未だにいくつか印象に残っている土地がある。

例えば。

中学生の時に自転車で訪れた渡瀬遊水池の突き抜けるような景色。

和歌山の那智勝浦の漁港で独りで寒さに震えながら聞いた波の音。

岩手県、野宿した小岩井農場の「しん」とでも聞こえて来そうなほどの静けさ。

北海道、友人のツネキ君と二人で過ごした珍道中。

様々な情景が、今も色鮮やかに私の脳裏に蘇る。幾つものニッポンの風景の記憶、それは私の掛け替えの無い財産の一つだ。

その中でも幾つか、私にとって取り分け印象深い土地がある。

生まれ故郷の東京、九年間を暮らして過ごした京都、この二つの土地が私にとって特別なのは半ば当然の事として、もう一つ、私にとって特別な土地がある。

それは、広島だ。

今日は、広島の話を少し。

初めて広島を訪れたのは、中学の修学旅行の時だった。

京都の寺社仏閣を見てから広島に移動、原爆ドームを見て宮島を見て、というかなりベタなコース。実際の所、そんな物心も大してついていない時期に寺社仏閣などを見ても、その良さはあまりわからない。覚えている事と言えば、京都で泊まった宿のすき焼きが大層不味かった事や、宮島の宿で向かいの宿のヤンキーとケンカになった事や、夜間の散策中に同級生の赤井君と平野さんが手を繋ぎながら歩いているのを見て、「あいつら、付き合っとるんじゃのう」「すごいのう」などと我々「DTズ(童貞ズ)」が言っていた事ぐらいだ。

そんな私でも記憶に残っている、いや、残ってしまっていると言った方が正しいだろうか、それが広島で見た原爆ドームだった。

その横にある広島平和記念資料館、そこで夥しい数の原爆写真を見た事は、トラウマと言うには少々大袈裟だが、強烈な印象を中学生の私に残した。

1945年、8月6日、実際に起きた現実の出来事としての原爆投下であるが、それは果たして本当に起きた事なのか、と錯覚するほどの地獄絵図、つまりは「まるでこの世のものとは思えない」というような印象を抱いたのだ。

私は未だにどこかで、「戦争はいけない、原爆はいけない」という小学生のような思いを抱え続けているが、その根幹にあるのは、恐らくはこの時の強烈な印象からではないだろうかと思っている。

昨日、ニュース番組「報道ステーション」を見ていた。

写真家のアラーキーこと荒木経惟氏が、「広島ノ顔」と題して写真展を開催していたのを、報道ステーションが特集していた。

顔、顔、顔。

アラーキーは今回は「顔」をテーマに、広島に生きる人々の顔を撮っていた。曰わく、「顔は裸だから」だそうだ。

味わい深い写真が何点も番組で紹介された。私は以前からアラーキーは好きな写真家だったのだが、改めて素晴らしいなと感服した。そこにはリアルな人の顔があった。表層的な美しさにとどまらない、悲喜交々の様々な顔をアラーキーは撮っていた。

私の印象に残ったのは、ある一家の写真だった。

それは、原爆被害を受けた女性、そしてその娘と、更にその娘の息子という、親子三代が同時に写った「顔」であった。

原爆の被害は一過性のものでは無い。その被害は血液やDNAにまで被害を及ぼし、原爆被害者の子供達は「被爆一世、二世、三世」と言ったような呼び名で呼ばれる事もしばしばだ。

上記の家族たちも、そういった被爆一家である。

しかし、彼らの表情は一様に明るかった。

生きている事が、こうして家族に囲まれている事が嬉しい、と祖母が語った。それはどこにも嘘の無い、本当の言葉であるように私には感じられた。

そんな表情が、私の心を打った。

広島にのみならず、長崎にも原爆は投下された。被害者の数は30万人だとも40万人だとも、或いはその数倍だとも言われている。

そういった事があったにも関わらず、強く、生きている人たちがいる事に、私は心を揺り動かされるのである。

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