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2009年8月21日 (金)

二種類のミス

ボルトちゃん、200mを19秒19の世界新記録。もう何だか別次元の走り。

リポーターの「オーマイトレジャー」こと織田先生も半ば呆気にとられていた模様。

思うに、これが19秒25ぐらいの新記録であったならば(これまでの記録はボルトちゃんの19秒30)、織田先生も「新記録キターーー!」とはしゃいでいたかも知れないが、まさかの0秒11の短縮。「キターーー!」というよりも口をあんぐりさせて「何コレ?」と呆気にとられる方がリアルな反応だとも言える。人智を超えたものを見た時には、えてして我々はそうなる。昨夜の織田先生はまさしくそうであった。私も勿論口あんぐりだったけれど。

今間違いなく世界最高峰のスポーツ選手の一人だな。ボルトちゃん。

もう一つ、スポーツの話を。

昨日でようやく我らが広島カープの対中日ドラゴンズの連敗が13でストップした訳だが、ここまで13連敗もしている数字がわかるように、今現在、中日ドラゴンズは我らの広島カープよりも「強い」。これは疑いの余地の無い事実である。

では圧倒的な戦力差があるのかと言えば、そんな事はなかろうと私は思っている。戦力に差こそあれ、その差は微差である。

では何が違うのかを見た時に、それは「ミスの差」ではないだろうかと思う。

「ミスの差」、これは決してミスの数の差を指している訳ではない。ミスの質の差を指してそう言っている。

ミスは無いに越した事はない。しかし、機械でなく人間がプレーしている以上、ミスというのは避けがたい過ちでもあるのだ。

ノーミスがほぼ有り得ないという前提に立った時に、ミスには二種類のミスがある事がわかる。

それは「積極的なミス」と「消極的なミス」である。

例えば、我らが不動の二塁手、東出輝裕(ひがしであきひろ)の前方に打球が飛ぶ。その際に、積極的に前に出て捕球を試みた際に起きるエラーと、大事に捕球しようとして一歩後ろに下がって捕球を試みた際に起きるエラーとの間には、海よりも深い隔たりがある。これが私の言う「積極的なミス」と「消極的なミス」である。

見ていると、この二つのミスの内、中日ドラゴンズと広島カープとでは内訳が随分と異なる印象を受ける。

中日ドラゴンズのセンターフィールダー(中堅手)、藤井淳志を見ていると、その積極性に清々しさすら覚える。常に一歩前へ出て捕ろうという積極性が彼には見られる。その積極性は時としてミスを呼ぶ事もあるが、ゲームの流れを変えるようなファインプレーを喚起する事もしばしばだ。

球界随一の二遊間と呼ばれる荒木井端の二遊間にも同様の積極性が見て取れる。

広島カープにおいて、その「積極的な守備」を徹底しているのは、名手、石井琢郎ぐらいしか思い浮かばない。梵英心や小窪哲也、外野手では赤松真人や天谷宗一郎にその積極性の片鱗は確かに見えるが、未だ「徹底されている」とは俄かには言い難い。

この点だけを取り上げて未曾有の13連敗、と結論づけるのは安易に過ぎるが、こういった差は小さいようで非常に大きい。私はそう感じている。

送りバントやエンドランに目を向けてもその積極性の差は明らかだ。どっちつかずの中途半端なプレー。現在のカープの窮状の大きな要因の一つは、こういった積極性にある。

翻って私の食い扶持である音楽の事を省みると、私も決してカープを非難出来る立場にない事はわかる。

ミストーンを出してしまった時の事を考えると、それはやはり「大事にいこう」とした時が大半だ。

そうやって消極的な姿勢から生まれたミスは、更にミスの連鎖を呼ぶ。負のスパイラル。それは一度転がりだしたらなかなかに止まらない。

積極性を支えるのは一種の自信であり、その自信のバックボーンとなるのは日々の修練の積み重ねである。

音楽も野球も「瞬間瞬間を勝負する」という視点に立てば同じである。一点に対するこだわりは、言葉を変えれば1アウトに対するこだわりであり、一球に対するこだわりである。

それは音楽においても同様。一音にこだわりの無い者に、次の一音がやってくる筈などは無い。

積極的に前を向いて死ぬか、後ろを見せて背中を斬られて死ぬか。

向こう傷。受けずにいられればそれが良いが、少なくとも背中に傷は受けたくは無い。目の前の勝負から逃げ出してはならない。

そんな事を、野球を観ながら思う訳である。

今日は阪神戦。勝ちますように。

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