行く気はなかった選挙を振り返る
台風の音を、風の音や雨の音を聴きながら本日は自宅療養をしている、とは前回の記事で書いた。
ただ、あまりに暇なので、ブログでももう一回書いてみようかと思い立ち、久方ぶりにパソコンの前に座る。
文字通り「徒然なるままに」、思ったことでも書いてみようか。
昨日の衆議院選挙について。
ちなみに私は投票には行っていない。「私は大人です、私は行かない」、もしくは、「投票、ダメ、ゼッタイ」という強い決意の元に行っていない。先に断りを入れておくが、棄権と政治的無関心とを安易に結び付けるのはどうか、と思っている。私は民主主義的(つまりは多数決的)な選挙制度がそもそも好きではないので、選挙に多大な関心があっても敢えて行かない事は多々ある。
「選挙に行っていない人間が権利を主張するべきではない」という論調をよく聞くが、私はこれには批判的だ。多数の矛盾点や問題点を内包した日本の選挙制度を無条件に受け入れてしまっている事、これはこれで大きな問題なのだ。投票のみが正義である訳がない。
さて、選挙の結果としては、民主党の歴史的圧勝、そして自民党の歴史的惨敗という形で幕を閉じた。
この結果自体を見ての私の個人的な感想は、「これ以上無いほどに理想的な結果だ」というものである。
無論、私は民主党の支持層ではない。では何故「民主圧勝、自民惨敗」というこの結果が理想的なのか、そこには二つの理由がある。
まずは「自民惨敗」について。
ここまでの極端な惨敗という事になれば、自民党という党は根本的改革に乗り出さざるをえなくなる。つまり、この選挙後には、「与党自民党」ではなく、「野党としての第一党自民党」という事になる。それは言い換えれば新党の誕生とも言っても良い。
嘗て小泉純一郎氏が「自民党をぶっ壊す」と言って、幾つかの改革に臨んだ。それは結局全てが失敗に終わったような気もしているが、その試み自体は大変に意味のある事だったと私は思っている。
具体的な例を挙げれば、「派閥の解体」という点では小泉純一郎氏は随分と意欲的であった。私もこれには好意的だ。半ば成功したかに見えた派閥解体、しかしそれは小泉氏の辞任後にあっさりと復活を遂げた。その時に私は痛感した。自民党という党は最早内側から直せるような党ではない、問題は随分と根深い、壊すとすれば外側からだ、と。そして今回、図らずも「外側から壊された」形になった。これが今回の選挙の一つの収穫である。
次に、「民主圧勝」も大変喜ばしいニュースの一つだ。
何故か。
簡単に言ってしまえば、期待が大きいほど失望の度合いは高まるからだ。
民主党は今回300超の議席を確保した。本来ならば、政権を奪取するのにここまでの議席数は必要が無かった筈だ。はっきり言えば、今回は議席を取り過ぎた。
国民の多くは民主党に期待をして投票したのだろう。それはそれで良い。
しかし結論から言ってしまえば、民主党が政権を取った位ではこの国は変わらない、私はそう思っている。言葉を換えれば、「私の政治的絶望は随分と深い」。
その絶望を、もう少し共有したいという思いがあった。
私が頭で描いたシナリオはこうだ。
・国民が民主党に期待をして、民主党が政権を取る
↓
・しかし財源確保等の問題から、民主党の政策は破綻する
↓
・外交問題にも弱さが露呈する
↓
・民主党政治、失敗
↓
・国民は思う、「結局自民も民主も変わらねえじゃねえか」と。
↓
・結果、政治的絶望が拡がる
↓
(以下略)
こう考えた折に、今回の過剰すぎる民主党の議席数と言うのは、単なる「自民への失望」にのみならず、「国民の期待の表れ」と取る事も出来る。
その期待が今回のように大きければ大きいほど、失望の度合いも強まっていくのだ。
そういった意味で、今回ほど理想的な結果に終わった選挙は無い。私はそう言いたいのだ。
本当に、現在の中央集権的なシステムなど日本という国家が有する「システム」自体がもう限界に来ていると私は考えている。変革の術はある。まずは、国民全体が現在の政治制度により多くの不信感を抱くべきだ。現状を疑うべきだ。
その為の昨日の選挙、と考えれば、随分と有意義である。
これで良いのだ。
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