ニュートン力学と相対性理論
我々の考える「正しさ」というものは、ある一定の(限定された)状況においては、その効力を発揮する。
例えば1+1=2という数式。これが「正しく」ある事を考える際には、非常に煩雑な種々の条件(或いは状況)を設定する事が必要となる。
まず、「足される立場」である1と「足す立場」である1を、完全に同一のものとして仮定しなくてはならない。
更には「1」という概念を極限まで抽象化し、「1」という存在形態を仮定でも何でも構わないから一先ず受け入れる。更に他の条件もあるが、それはこの際割愛するが、そういった「極めて限定的な状況」において、初めて1+1=2という数式は成り立つ。
理論上はこういう事は可能だが、現実的にはこういった現実的な状況というのは大変稀有な状況だ。
嘗てアイザック・ニュートンの発見した力学、一般にニュートン力学と呼ばれるものは、私達の身の回りにある「運動」を、ほぼ完璧に表した理論であるとされた。
確かに我々の生活の中で起こる様々な物理的運動は、このニュートン力学によって「ほぼ」説明可能だ。
そこに疑問を投げかけ、新たな運動理論を構築したのは、かのアルベルト・アインシュタインである。
彼は独自に相対性理論を発表した。重力や加速度を扱わない特殊相対性理論、そしてその重力や加速度(実は重力も加速度も見かけ上は同じらしいのだが)を扱う一般相対性理論において、新たな運動理論を提唱した。
細かな内容については、決して私も多くを知る訳ではないので明記を避けるが、大体においてはこういう事である。
相対性理論において、扱う重力や速度が地球上で日常的に目にするレベルのものであれば、ニュートン力学はほぼ正しい。相対性理論による観測結果とニュートン力学による観測結果は、同一に近い近似値となる。
と。
しかし以下のような但し書きが付く。
それが太陽やブラックホールのような強大な重力場であったり、光速に近いような速度での慣性系を用いて観測された場合、ニュートン力学は通用しなくなる。
この但し書きである。
さて、ここから「ニュートン力学は間違っていた」と判断するのは可能であろうか。私はそうは思わない。
先程の「1+1=2」の状況で述べたように、ある一定の状況下においては、ニュートン力学は「正しい」のである。その理論に沿って現実の物質(或いは時間)は運動し、変化する。更に言えば、我々が「普通に」日常を暮らす限り、ニュートン力学さえあれば殆どの事象は説明に事足りる。時空間が歪むような現象を実感するような機会はほぼ皆無に近いと言って良い。実際にこの時空間が歪んでいるにも関わらず、だ。
相対性理論は、我々の日常からは幾分離れた状況においてこそその真価を発揮する。日常的な状況においては相対性理論もニュートン力学も「ほぼ同じ」なのだから。
私は科学は完全な門外漢であるので、現在の状況を詳しくは知らないが、恐らくはその相対性理論ですらもカバーしきれていない領域(状況)というのは存在するのではないだろうか。そこにはまた別の「正しさ」がある。しかし、それもまた「相対性理論が間違っていた事」の根拠にはならない。「不足であった事」の根拠にはなるとしても。
このようにして、大まかに言えば「正しさ」というのは極めて相対的である、というのが相対性理論の骨子なのではないだろうかと私は解釈している。
私には私の時空間の正しさがあり、ブラックホール内にはブラックホール内の時空間の正しさがある。それはどちらも正しく、どちらも間違っている。言い換えれば、どちらも本当であり、どちらも嘘である。
何がしかの争いが生じる原因には、絶対的な真偽や善悪があるのではなく、互いに「都合」があるからなのではないだろうか。お互いに「自らの正しさ」を否定されては困る「都合」があるのだ。
それを理解した上で不遜に言わせて頂ければ、そこからは決して相対性理論的な革新的な何かなど生まれ得ない。絶対に。
私には私の正しさがあり、私の主張がある。それは皆同じ事なのだ。
天動説が地動説に翻ったような、まさしくコペルニクス的転回などというものは、最早生まれづらい状況にあるのだろう。しかし、ニュートン力学に相対性理論が補足説明を加えたように、「現在ある正しさ」を疑い、そこに補足説明を加えていく事は可能だ。
出来るならば、私は私を疑い続けたい。
私など、何も正しくないのだと。
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コメント
主婦やってると、とんと学問からは遠ざかるから、久しぶりに、こういうのを読むと、あ~やっぱり物理は素敵なのね(学生時代はあの公式達はさっぱりわからず苦労したけどさ)、と思った。物理と数学の醍醐味は目の前の日常世界からの逃避だよね。ニュートン力学がおよばないのは、宇宙みたいなマクロだけじゃなくて、素粒子とかのミクロもそうだよ。ミクロもある意味、ミクロ宇宙だけどね。物も電子くらい小さくなると、存在が確率でしかない。今この瞬間、同じ電子がここにもいるし、同時にあっちにもいる…マジックみたいな世界が量子科学では常識世界になる。
私達がこの世界で常識だと思ってることは、ある線越えると、非常識になり、ミクロ世界やマクロ世界ではまた違う常識がある。でも、どれも正しいんだよね。私も科学のエキスパートじゃないから、科学論理的に的外れなことを言うかもしれないけど、どの常識も近似の上になりたっているから、万物の絶対的な常識にはなりえないということ?全て相対の正しさであり、視点が違えば見え方も違ってくる。
福島くんも絶対的な正しさじゃなくて、相対的な正しさがあれば◎でしょう?それに、正しいばかりの人間じゃつまらないものね。全部じゃないけど、私は福島くんは正しいこと言ってると思うことが多いよ。福島くんって、こんなに常識人だったのね、ということが最近わかりました。
投稿: クロサバ | 2009年7月10日 (金) 03時17分
くろさばさまへ
たくさんコメントくれてありがとうございます。書いたものに何か反応がくるって、嬉しいものです。
そうか、ミクロ宇宙か。確かにそっちの世界もありますね。
でも、どっちが「想像しやすい」かという問題になれば、ぼくはマクロの世界の方がイメージしやすくあります。宇宙の話は比較的頭に思い描きやすいのですが、量子とか素粒子ってイメージとしていまいちピンと来ないんですね。でも、くろさわさんが言うように、結局宇宙と同じ「現実離れした世界」なんでしょうね。うん、何かそういうのは好きです。わくわくしますね。
そうそう、それでこの文章でぼくが言いたかった事を、くろさわさん、上手くまとめてくれました。「どの常識も近似の上に成り立っている」。うん、そういう事なんです。
投稿: ふくしまたけし | 2009年7月10日 (金) 11時08分