« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月31日 (金)

本日詳細

見事に酒を呑んでいない。

飲酒が習慣的になった18歳の頃から考えると、全く酒を呑まずに日々を過ごすというのは、およそ12年ぶり、という事になる。

この一週間で口にした酒は、何とビール二杯のみ。完全に呑んでない、と言い換えることが出来る。

随分と昔の事だが、数ヶ月間、完全に菜食主義者の体裁をとってみた事がある。それは完全な興味本位だ。一切肉食をしない事によって自分の躯にどのような変化が起きるのかに興味があった。そしてそれは実際に変化をもたらした。勿論、主義主張ではなく興味本位でやっていた事なので、数ヶ月(確か3ヶ月か4ヶ月くらいだったと思う)の菜食生活で変化を確認したらば、すぐにやめてしまった。吉野屋で牛丼を食っていた。

酒に関しては、何か変化をもたらすだろうか。

わからない。

けれど、今は確実に呑んではいけない時期だ。それはわかっている。躯が既に危険信号を幾つも出している。私の頭(精神)では酒を強く欲しているが、躯はそれを拒絶している。珍しく私は精神よりも躯を優先させている。プライオリティ、って確かこういう時に使う横文字だったっけな、などとつまらない事が脳裏を過ぎる。

さて。

本日は以前よりブログ内でも宣伝していたvocalのおおたりこさんとのライブ。前回の投稿時は携帯電話からだったので詳細を載せられなかったが、今日はパソコンからなので、以前の文章からコピー&ペーストにて詳細を貼り付け。

以下詳細。

7月31日(金)東京高円寺After Hours 
tel 03-3330-1556
http://www.afterhours-1975.com/index.html
vocal:おおたりこ piano:福島剛
7月ラストは「若きブルーズの女王」おおたりこさんとのデュオ。力強さと繊細さの同居する抜群のボーカルをどうぞ。
20:00~start  music charge:1800円

という事です。皆様、是非ご来場下さい。

| | コメント (2)

2009年7月30日 (木)

テロを引き起こす暴力

『ドラゴンボール』のフリーザに延々と追いかけられて私は逃げ惑い、終には追いつかれてしまって殺される、という、割と分かりやすいタイプの悪夢にて目を覚ます。

ちなみに最後は正確に言えば殺されてはいない。

私は盟友(という設定)のピッコロ(緑色の人)から「魔貫光殺砲(指先からレーザービームみたいなやつがびゅわーーと出る技)」を習っており、フリーザに捕まったその時には、「貴様にやられるくらいならいっそ自分で!」と、自らの胸を自らの魔貫光殺砲で貫いた。絶命しかけた所で目が覚めた。「何だ、夢か、良かった…」と。

いやいや、ぼちぼちキテますな。自分でも大丈夫か?と思いますが。

さて、少しだけ普通のエッセイを。というか怒りのエッセイを。

新疆ウイグル自治区。

この地名、アジアを旅行する人たちの間では比較的有名な地名であったが、一般的にはさほど知られていないのではなかっただろうか。

それが今現在、恐らく日本でも過半数以上の人がこの地名と地理的な位置を把握しているだろう。中国の最西部、中央アジアとの間にあるこの地域が、この数週間、日本のニュースでも大々的に取り上げられている。

原因は、今月初旬に起きた新疆ウイグル自治区におけるウイグル人の暴動だ。私はこの一連の流れに、はっきりとした強い怒りを覚えている。

中国という国は、過半数を占める漢族と、それ以外の少数民族からなる多民族国家である。しかし、それはあくまでも体裁に過ぎない。多民族が融和した国家、とはお世辞にも言い難い。それはチベット自治区の問題を見てもそうであるし、今回の新疆ウイグル自治区の問題を見ても明らかにそうだ。中国は、単一民族国家を目指しているのではないだろうか。

思い切って言ってしまえば、それは漢族による独裁国家である。

先日、「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長が日本を訪れた。彼女が日本において語った言葉をどこまで真実として捉えるか、という事には若干の疑問も残るが、これまでの中国政府のやり方を見るに、それは大筋においては「さほど間違っていない」のではないだろうか、と私は思う。

彼女の発言を要約すればこういう事である。

「中国政府は我々(ウイグル族)と対話を持とうとはしていない」

追い詰められたウイグル族の人々は、暴動という手段に出た。暴力が暴力の連鎖を生んでいる。

私は、音楽家という立場上、全ての武装闘争路線に対して否定的である。(懐疑的、ではない。それは手段としては一つの有効性を持つと思っている。しかし、それに対して肯定的にはなれない)暴動とは、確固たる武力革命の一種なので、その行為自体を礼讃する事はない。

しかし、何故その暴動が起こったのかを考えた時に、つまりはそういった暴動を予防する一手を打っていなかったからだろう、と思っている。その武装闘争を予防する唯一の手段は、決して武力による抑圧などではない。どこまでも対話である。

私がこう書いたものを読みながら、何を悠長な事を、と考えられる方も決して少なくはないだろう。けれど、その対話を持たずして、平和的多民族国家としての中華人民共和国などはありえない。私は強くそう信じている。当然、チベット問題に関しても同じ事が言える。

さて、我が日本の政府は、この一大事に何をしているのかと言えば、訳のわからぬ権力闘争である。自民党だろうが民主党だろうが何だって構わない。一刻も早く、新疆ウイグル自治区に数多いる負傷者やその家族の為に、支援の手を差し伸べるべきではないだろうか。

アメリカ合衆国は、現在の所これといって目立つ動きをしていない。私が知らないだけかも知れないが。言わば、静観の構えをとっている。

それに倣うのか。

アメリカが手を出さない事には日本も無関心、という態度で良いのか。

麻生だろうが小沢だろうが鳩山だろうが誰でも構わない。早くその決断を下せよ、と私は強い怒りを覚える。

こうしている間にも、人がまた一人、殺されているのかも知れない。

中国政府は今回の暴動を「テロ行為」だと言っているが、では何故そのテロ行為が起きたのか、原因が自分たちにある事をもう少し考える余地はないのか。強くそう思う。

朝っぱらから怒りのコラムでした。

すんませんな。

| | コメント (4)

2009年7月29日 (水)

moonlight in 神宮

moonlight in 神宮
神宮で見るお月様は綺麗です。

カープ追いつかれてきたよ、やべえよ。

廣瀬打った!さあ、栗原!

| | コメント (0)

神宮から

神宮から
千駄ヶ谷でのレッスンが終わって20:00。

RCCの広島カープ携帯サイトを見ると…

六回裏、10対3でカープリード!決戦の地は神宮球場!

行くしかねえだろ!っつう事で来ました神宮!

7回の攻撃に間に合った。

頑張れカープ!

| | コメント (0)

明後日は高円寺アフターアワーズ

つまらない事をだらだらと書いている場合ではなかった。

ライブ告知を一発。

明後日、7月31日の土曜日は、高円寺アフターアワーズにてライブです。

共演は「若きブルーズの女王」(←私が勝手にそう呼んでいる)こと、vocalのおおたりこさん。

彼女の歌は、勿論粗い所も多少はあるのだが、全体として見た(聴いた)時に、その辺の人の歌とまるで次元が違う。繊細さや力強さを併せ持ち、そして何よりもダイレクトに聴き手の心に届く。稀有な才能、などとたった一つの言葉で纏めてしまうのはあまりにも勿体無い。それはここまでの彼女の日々の修練であったり、過ごして来た人生の産物なのだろう。

年齢だけで言えば、私よりも少々年下なのだが、「若い女の子の歌の伴奏をしてやろう」などという気持ちは私に微塵もない。遥かに格上の先輩ミュージシャンの胸を借りて精一杯演奏させていただく、という気持ちが強い。

ピアニストでも、私よりも年下で遥かに私よりも素晴らしい演奏をする人はザラに見る。その際には若干の悔しさや焦りも伴う。いや、これにはあまり年齢は関係ないか。素晴らしい演奏家を見た時には、嘆息と共に少々の悔しさが入り混じる。

翻ればそれは誰のせいでも無い。他でもない私自身の努力不足のお陰でしかない。

私の如きヘタクソなピアニストがそういう素晴らしい演奏家達と共演させていただく時、いささか「申し訳ない」という気持ちも脳裏を過ぎるが、それ以上に光栄であり、当日が楽しみで仕方がなくなる。いずれにせよ逃げ場は無い。待った無し、ガチンコ勝負の前の何物にも代え難い緊張感がそこにある。

という訳で少々大袈裟に宣伝したが、明後日7月31日は、20:00より高円寺アフターアワーズでライブ。

ご来場をお待ちしております。

| | コメント (0)

人生もラーメンも太く長く

風邪が治らずに病院へ。触診されてから「多分肝臓が腫れてます」などと言われた挙げ句、大量の薬を処方される。マジにしばらく節酒だな、などと柄にもなく思う。

薬を飲まなくてはいけないので何か食わなくてはと思いながら、街をしばし彷徨う。あまり悩まずに近所のラーメン屋に入店。本当にこの数日間、麺ばかり食っている。饂飩に蕎麦にラーメン。よく厭きないものだと我ながら感心する。

昼飯時だった事もあり、店はそれなりの賑わい。カウンター席しかないその店で、私の右手には女性三人組、左手には肉体労働の男性二人組が座っていた。どちらも仕事の同僚だろう。私は別段気には留めなかった。

ラーメンの到着を待つまでの間、私は独りなのであまりにもする事がない。携帯電話の待ち受け画面なぞを悪戯に眺めてみたりもするが、一分ほどの暇つぶしぐらいにしかならない。ぼんやり胡椒入れなどを弄っていると、両サイドから会話が聞こえてきた。

聞き耳を立てるでもなく立てないでもなく聞いていると、驚く事に、どちら側も「同じ話」をしている事がすぐにわかった。

それは、「その場にいない他の同僚への不平不満、或いは陰口」である。

そういう事を言うことは、特別好きな訳では勿論ないが、取り立てて悪い事だとも思わない。同じ職場の同僚同士で飯を食いに来たら、他の同僚の陰口ぐらい言うだろうと思っている(諦めている)。それはそんなに非常識で不道徳な事ではない。我々はみんな、それなりに酷い事をしながら生きている。

「あいつホント空気読めねえよなあ」

「あいつ今日も朝からチョーキモかったんだけどー」

それぐらい言うさ、我々人間は不完全なんだから。誰も君たちを責めやしない。そう思いながら、思いの外早くやってきたラーメンを、私は啜った。

ラーメンは相変わらず美味くて、私は喉が腫れて口の中が荒れている為にその味を100%堪能出来なかった事がいささか勿体なく感じた。

食べ終わって会計を終えて店を出た。ママチャリに乗って家路についた。

でも、やっぱりあまり好きになれねえな、と思いながら自転車を漕いだ。

誰かを非難する。その事自体があまり好きではない。それは隠れて言おうと正面切って言おうとどちらも好きではない。誰かを非難する事でしか自分を大きく見せられないのかな。そう思ってしまう。

私自身も随分と生意気なので、「キミは全然わかってないね、全くダメ」的な事を言われる事はよくある。それこそ陰でも言われているかも知れない。そんな事はどうでも良いが。

しかし、大抵の場合、その裏側には「俺は(私は)キミと違ってわかっている」という傲慢が見て取れる。理解の深い自分を誇示しようという単純な身勝手さばかりが鼻について、「ふーん、すげえね、そりゃわかってなくてすみません」と心無い謝罪の言葉をぺらぺらと並べ立てるに留まる。

例えば、師匠市川修が生前私に「お前はホンマにわかっとらんのう」と言っていたのと先に挙げたそれとは、天と地ほどの開きがある。それは飛行機とアルパカくらい違うので、よく見比べる必要すらない。師匠以外にも、私にとって大変に意味のある「お前わかっとらんのう」を言ってくれた人は何人か(も?)いる。そういった「わかっとらんのう」は、私に多くの事を考えさせたし、確実に私の糧となった。

比して、自分を誇示したいだけの人が言う「キミはわかってないね」は、ものの見事に私の頭をスルーしていった。中途半端な苛立ちだけを残して。

弱いものたちが夕暮れ、更に弱いものを叩く、その音が響き渡れば、ブルースは加速していく。

ブルーハーツはそんな風に歌った。

ラーメン屋で同僚の陰口を叩くのも悪くないだろう。

私はそんな彼らをこうして叩いているというメタ構造もここにはある。

そもそも私にだって、自分を大きく見せたいが為に他人を非難する事だってたまにはある。人の事など言えた義理でもない。

誰が悪いのかを探し当てる為に生きてるんだったら、もうさっさと死にたい。そんな事をしてまで生きていたいとは思わない。他人はどうだか知らないが、少なくとも私は。

でも、今は私は長生きしたいのだ。風邪をひいたらきちんと病院に行くくらいなのだから。

酒も少し控えよう。

それで、もっとオモシロオカシク長生きしよう。人生は太く長くが良いな。

| | コメント (0)

2009年7月28日 (火)

高いリポD

リポDのちょっと良いヤツは、マズい。良薬口に苦しというやつか。今からライブです。高いリポDパワーで頑張ります。

| | コメント (2)

昨日以上の垂れ流し

風邪は治らない。

世界は終わらない。

昨日からずっと布団の中で一日を過ごしているので、いささか頭が錯乱気味だ。

倒錯。錯乱。

本当に頭がおかしくなってくる時というのは意外な程に冷静だ。逆に「狂ったフリ」というのは存外に楽だな、と。冷静と狂気との狭間で凡庸な自我を保つ。つまらぬ。

思考とその表出(或いは表現)とがダイレクトに繋がる。頭で考えている事が何の留保もなく出て来るのは良いか悪いかを別にして面白い。そして、やはり私の根底にあるものは不条理で。全くもって理路整然としていない。混沌の中で、止め処もなく想念だけが浮かんでは消える。弾ける泡のように。

本日は上野でハーモニカトリオのライブです。良ければどうぞ。

| | コメント (2)

2009年7月27日 (月)

垂れ流し

病床に居て、どうせ暇だからブログもたくさん更新するだろうと思っていたのだが、そうでもなかった。面倒くさく億劫だ。こんな事でも健康あってのものなのだなと実感する。

寝て過ごす休日だと言っても、何も出来ない。本も読めないし譜面を書いたりも出来ない。戯れに猫の写真集『島々のねこ』をパラパラと捲る。野良猫が可愛い。ちょっと滑稽な所が余計に可愛い。お気に入りのショットは、猫が飛蝗をくわえているショット。猫は獣でアホなので、無駄に命を蹂躙している感じが良い。人間の子供も生命を無駄に蹂躙したりするものな。蟻の巣に熱湯をかけたり、私も子供の頃にやったが、あれはまだ人間ではなく獣の段階だったのだな。

今年の夏には、旅行に行きたい。取り分け行きたいのは東北は岩手県。龍泉洞という洞窟に、押角という秘境駅。宮古の浜の浄土ヶ浜はまるで天国のような美しさだと言う。

嘗て十年以上前に独りで宮澤賢治ゆかりの地を旅行した事があったが、今回は賢治のゆかりの地ではなく、三陸の自然を堪能したい。岩手行きたい、岩手。休み取れるかな。金があるかな。行きたい。岩手。

あー、もっかい寝るかな。体調治らねえかな。

明日は上野アリエスです。

| | コメント (2)

多分五年後くらいには「ビッグイシュー」を売っている

日々の予定というものをほぼ覚えていないので、手帳は私にとって絶対に欠かせないアイテムだ。携帯電話を失くすのと手帳を失くすのとでは、おそらく手帳をなくす方が困り度合いは強い。

手帳≧財布>>>携帯電話

みたいな感じだ。

だから携帯電話と財布は何回か失くした事があるけれど、手帳は、ない。「ないない!なくなった!」と大騒ぎしたことはあるが、比較的すぐに出てきた。良かった。

只今は風邪で寝込んでいる。本日が何も仕事はない休みの日だったというのは知っていたが、明日の予定は覚えていなかった。なので手帳を見てみたら、明日は日中がレッスン、夜がライブ。結構ハードではないか。これはマズい、気合いで今日中に完治させなくてはならぬ、と気持ちを新たにした。

治療法は単純だ。ひたすら水分、そしてひたすら発汗!これに尽きる。ポカリスエット飲みまくりだ。あとは過剰なまでの睡眠。これで気合いで治す。かかって来い!

で、明日のライブですが、上野アリエスでのハーモニカトリオです。

詳細は調べないとわからない。時間は多分19:30ぐらいから。チャージは多分2000円前後。上記からは大きくはズレない筈だ。

メンバーは、ハーモニカが皆川和義、ベースが長谷川明弘、ピアノが「小岩のキムタク」こと私だ。

やめてっ、石とか投げないでっ、痛くしないで!

「小岩のキムタク」は嘘でした。

「ビッグイシューという雑誌を売っていそうな人」こと私、にしておく。これは多分本当だから。

ライブにお客さんがたくさん来ると良いなと思ったので、こうして宣伝しておく。

今から再び寝ますが、おそらく今日は頻繁にブログが更新される事が予想されます。

絶対に下らない事しか書かないけどね。

それは強い意志のもとに。

| | コメント (0)

絶賛病気中

起床。

む、頭が痛い…

躯の節々にも絶妙な痛みが…

胃腸も痛い…

間違いない。風邪だ。

熱もあるし。

という事で本日より絶賛病気中となります。マジな話をすると、今日が休みで良かった。

私に仄かな恋心を抱いている女性編集者などがいれば、励ましと癒やしの電話もしくはメールは常時受付中である。躊躇はいらぬ。

ちなみに仕事の電話やメールは、普通に無視する可能性があるが、そこはご了承を頂きたい。治ったら返事をする。

愛情は黒い。

俺の糞も黒い。

長生きがしたい。

| | コメント (0)

2009年7月26日 (日)

無が在るという事

石田ゆり子という神がいるが、彼女が十代の若かりし頃には国体クラスの水泳選手だった事は有名過ぎる事実である。ジャイアント馬場がプロレスラーになる前には野球選手だったというのと同じくらい有名な話だ。ちなみに現在中日ドラゴンズの監督である落合博満氏の前職はプロボウリング選手である。明日使えるムダ知識を提供していくのも当ブログの大切な役割である。

さて、その神、石田ゆり子。彼女が元水泳選手だという話を知ってから、私はずっと水泳選手に対して美的採点基準はかなり甘い。取り分け石田ゆり子神が平泳ぎを専攻していたので、平泳ぐ女性は綺麗に見えて見えて仕方がなかった。平泳ぎとは神の泳ぎである。私はそう信じて疑わなかった。

水中で、両の掌(たなごころ)が胸元へ引き寄せられる。まるで何かのエネルギーをため込むかのように、躯は一瞬にして折り畳められ、そしてそれが刹那、炸裂するかのようにしなやかに伸びる。平泳ぎのフォルムは、他のどの泳法よりも美しい。少なくとも私はそう思う。

いや、思っていた。

平泳ぎは美しい。これは間違いのない事実である。

では何故私が「思っていた」と過去形にして語らねばならないのか。この苦渋の言葉を絞り出さねばならないのか。重要なのはこの点だ。

私は平泳ぎよりも美しい泳法を発見した。

そう言う事も出来る。

そう言えなくもある。

真実と虚構は常に背中合わせだ。

結論から先に言おう。

平泳ぎよりも美しい泳法。それは「泳げない」という在り方である。

このコペルニクス的転回に至った時、私は一種の解脱に似た境地を味わった。

無というものが在る。この形而上学的認識。日々を哲学しながら生きる、深遠な私ならではの認識である。

美しく平泳ぐ女性を凌駕するのは、泳げない女性に外ならない。私ぐらい思慮深い人間ともなれば、これぐらいの結論に至れるのである。羨望の眼差しで私を見る事を躊躇わなくて良い。間違っても「あ、フクシマがついにガチに狂いだした」などと思ってはいけない。

今、私は「泳げない女性」を愛でようという、岩よりも固い決意と共に在る。

夏も盛りに入る。海に遊びに行くのも良いだろう。プールに泳ぎに行くのも良いだろう。

だが、泳げない貴女は、誰よりも美しい。大丈夫だ、水着にならなくて良い。そもそも海は泳ぎに行く所ではない。魚釣りをしに行く所だ。共に魚を釣ろう。美味い酒を呑もう。

いやね、最近「泳げない女性って超良いな」と思ったのですけれど、それを大仰に書いてみました。

早く死ねば良いのに。

そうそう、昨日のピアノトリオのライブはむちゃくちゃ愉しかったです。花火に行かずにご来場頂きました皆様方、ありがとうございました。次回は10月17日です。

| | コメント (6)

2009年7月25日 (土)

バスから見る夕日

バスで金町へ向かう。

西の空がうっすら赤く色づいているのを見て、妙に懐かしくなる。

あれ、これって何で懐かしいんだろう、と自分の記憶を手繰ってみると、それは多分10年ぐらい前に無目的に海外をふらついていた時の記憶だとわかる。

移動には頻繁にバスを利用していたし、その時によく夕日を見た。鮮明に覚えているのは、インドのリシケシュという村に向かうバスの中で見た夕日だ。記憶力が虫ほどしかない私の脳だが、多分死ぬまで忘れない。

具合の良い事と悪い事の区別なく、端からどんどん忘れていってしまう私だが、そうやって決して忘れられない事もいくつかはある。勿論、いつもそれが大事な事だとは限らないのだけれど。

さあ、今から本番。

新曲『江戸川の戦い』もやります。

(↑なんちゅうタイトルだ)

| | コメント (0)

本日ライブ

本日、金町ジャズインブルーでピアノトリオのライブです。

隅田川の花火大会があるらしい。プロ野球のオールスターゲームがあるらしい。

客が来る気が全くしない。

ので来て下さいね。

7月25日(土)東京金町 Jazz inn Blue
tel 080-1263-0955
http://www.jazz-inn-blue.net/
b:長谷川明弘 ds:松永博行 pf:福島剛
20:00~start  music charge:1500円

よろしく。

| | コメント (0)

2009年7月24日 (金)

人が読んでいる本が気になる

昨夜、電車の中で若い学生っぽい男性が読んでいた本、表紙にタイトルが書いてあったのだけれど、ものすごく面白そうだった。

『タンパク質の一生』
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0806/sin_k422.html

今度買って読んでみようかな。

| | コメント (2)

二番手の在り方

早起きをして、朝から大量の譜面を書いている。こんな風にきちんと仕事をしていると、まるで自分が自分でなくなったかのような感覚が少しあるが、勿論、気分は決して悪くない。

丁度区切りの良い所まで来たので、ブログでも書いて少し小休止。といってもまだ朝の8:30。早起きは何文の得になるんだったか、と勘定するまでもない。

さて、普通のエッセイを。

主人公に対する二番手のライバル、というものが昔から大変好きだ。今日はそのライバルの話を。

例えばそれは『ガンダム』におけるシャア・アズナブルであったり『あしたのジョー』における力石徹であったり。歴史に目を向けてもそうだ。足利尊氏の陰に隠れた新田義貞や、織田信長の陰に隠れた上杉謙信や武田信玄。二番手のライバル達が大変に魅力深い存在であるからこそ主人公は際立つ。逆もまたしかり。それは喩えて言えば太陽と月の関係性にも似ているのかも知れない。

さて、そんな「二番手好き」の私が、ここの所いささか当惑している。

それは昨今の都議選での結果である。

民主党の圧勝、自民党の歴史的大敗により、今まさに政権が変わろうとしている。「二番手好き」を自認する私であるから、この結果は喜ぶのかと思いきや、実は全く喜んでいない。私は民主党という、この二番手政権が嫌いなのだ。かといって自民党を支持している訳でもないが。

基本的には、自民党政権というものは打倒されてしかるべきだと思っている。一般的な世論と同じように、現在の麻生政権に多くを望むのは最早酷だ、という認識も私にはある。けれど、それを打倒して第一党となるのが、かの民主党か、と考えた時に、私はやはり少々うんざりする。

それに続く政党、例えば公明党であったり共産党であったりが現状として論外な位置にいる事を鑑みても、自民党が倒れた後にそれを引き継ぐ勢力が民主党であるというのは理解できる。それは単純なパワーゲームの一種だ。しかし、民主党は嫌いだ。

そこには、二番手の品性のようなものが欠けているようにも私には思われる。

私が民主党に抱くイメージというのは、与党である(或いはあった)自民党のミスや粗を熱心に探し、それに対してヒステリックな糾弾をカマしているイメージという、これなのである。

菅直人氏や鳩山由紀夫氏などが国会答弁の際に強気に麻生総理に対して「総理、これは一体どういう事なんですか!」と言っているあの物腰を見るにつけ、「あ、コイツラ、キライ」と私は思ってしまう。本当に国民の為を思って怒りを感じているようには、私にはあまり見えない。それは何だか麻生太郎という分かりやすいステレオタイプの「悪役」を創り上げる為の小芝居にしか見えない私がいる。私という人間がひねくれ過ぎてしまっている為なのかも知れないが。

しかし、好むと好まざるとに関わらず、間もなく日本の政治は一つの転機を迎える。

それに対して、あまり歓迎的な気持ちをもって接する事の出来ない私がいる、という事なのだ。

「じゃあお前が何かやってみろよ」と言われた時には、「すみません、出来ません」と力無く呟いて下を向くしかない私であるので、何だかここに書いた事も便所の落書きと大差もないな、とは思う。

日本の政治はどこに向かうのだろうか。いつまで軍事協定に縛られ続けるのだろうか。

いささか、憂鬱になる。

| | コメント (2)

2009年7月23日 (木)

間違いだらけの人生を歩みながら

人生には幾つもの岐路がある。

その岐路に立った時、好むと好まざるとに関わらず、我々は兎に角「決断」をしなくてはならない。

「保留」ではない。「決断」だ。

取り敢えず導き出した「決断」、それが正しいのか間違っているのかはその時点では我々にはわかりかねる。後々になってわかる事が殆どだし、更に言えばそれは流動的だ。後から正しく補正する事も可能ならば、反対に間違いへと逆補正に陥る事だってありうる。必ずしもその場での「決断」だけが全てではない。

私はと言えば。

岐路に立った時に何がしかの「決断」を下す。それは常に「間違っている」という自信がふんだんにある。自信に満ち満ちている。ああ、我が人生に悔いあり。

いや、悔いは無いのだけれど。

困った事に、どうせ間違っている、と開き直ってしまっているので、悔いは無い。後からどうにでも修正可能だと、大陸の人達ばりに大らかに捉えている。そうであった、私の人生の座右の銘は、「大丈夫」であった。

さて、そんな間違いだらけの人生を爆笑しながら歩いている最中の私であるが、本日もとある間違いを指摘された。

詳しくは、数回前に書いた私のライブスケジュールに関する記事をご参照頂きたいのだが、明後日25日(土)の金町ジャズインブルーでのライブにおける詳細である。

スタートが19:30となっているが、これは真っ赤な嘘である。

正しくは、20:00スタート。これが間違いの無い情報である。

私には間違いと同時に嘘も多いが、絶妙な具合に間違いと嘘が溶け合った格好の具体例である。

明後日7月25日、金町ジャズインブルーでのピアノトリオは、20:00スタート。真実はいつも一つ。

ベースは長谷川明弘氏。ドラムは松永博行氏。これもまた嘘偽りない真実の情報である。

是非にご来店を。

| | コメント (0)

新しいノート

新しい五線譜を買うと、何だか嬉しくなる。

何も書いていないから、ここから色んな音符だのコードだのを私が書き込んでいく。

知らない曲を覚える。私の作った曲が増える。

全ては一冊のノートから始まる。

子供のように、嬉しくなるのだ。

| | コメント (0)

2009年7月22日 (水)

何なの?ばかなの?死ぬの?

日食を愉しみにはしていたのだが、結局それも叶わなかった。

昨夜、20時ごろからヤマと呑む。脳と身体と財布に大変優しくない呑み方をしてしまい、起きたら昼の一時過ぎ。日食の時間が終わっている上に、記憶が殆ど無い。馬鹿なの?死ぬの?と自問自答を繰り返す。

酔っ払って好きな女性に電話をかけた形跡(発信履歴)があり、その事に恐れ戦く。その相手の女性から昼過ぎ、つまり先程にメール着信あり。その全方向的にトチ狂った電話の内容をざっくりと教えてもらい、更に絶望は深まる。記憶は一切ない。再度、自らに「馬鹿なの?死ぬの?」と自問する。

またその電話の内容が酷かったらしい。内容も酷ければ、かけてきた時間も酷かったらしい。私は多くを語らない。全ては嘘だと思うから。職務質問をされてそのまま警察に行ったらしい。「国家権力の横暴だ」と言い張ってなかなか警察から帰らなかったらしい。全ては嘘だと思うから。

ヒリつくようなリアル、それは時としていびつな形を取る事がある。全ての物事はカッコ良くなんていかない。

本当に。もう。何なの。ばかなの?死ぬの?

ヤマとなみちゃんに、ごめんなさい。

父にありがとう、母にさようなら。そして全ての子供たちに、ごめんなさい。

| | コメント (2)

2009年7月21日 (火)

天気を恫喝してみる

明日の日食、東京地方の天気は曇りのち雨、降水確率は50パーセントらしい・・・

・・・

・・・

ナメとんのかボケ!気合いで晴れんかい!

次は26年後やぞ!オリンピックよりも遥かにレアな現象やぞ!

何を曇りとかヌルい事ぬかしてけつかんねん!イテこますぞ、コラ!

ケツの穴から手ぇ突っ込んでそのまま喉から手ぇ出して奥歯ガタガタゆわせるぞコラ!

という事で天気を激しく恫喝しておきましたので、明日は気合いで晴れてくれると思います。

今から文房具屋さんに行って下敷きを買って、それを油性マジックでごりごりに塗り潰す作業に入りたいと思います。

| | コメント (2)

2009年7月20日 (月)

日食という偶然

日食があるらしい。明後日。

もちろん日食は日清食品の略ではなく、太陽が月に隠れる現象の事を言っている。

皆既日食ではないらしいが、東京でも午前中に観測出来るとの事。たまには早起きして見てみようかな。

中学生ぐらいの頃に、この日食という現象に不思議なくらいに惹かれた記憶がある。ダイヤモンドリングと呼ばれたり金環蝕と呼ばれたりするその光景(厳密には違うのか?知らん)の写真を見て、変にうっとりとしたものだ。

何十年に一度の偶然。太陽と月の交わり。それは私の心を躍らせた。

銀河の中にいるという事を時折忘れそうになるけれど、そういう現象のお陰で自分が(或いは私達みんなが)宇宙の塵の一屑だという事を思い出さされる。

日食という偶然。ありがたがるほどの事ではないのかも知れないけれど、それは今でも私の心を少し愉快にさせる。

| | コメント (2)

弱さへの反感

恥の多い生涯を送って来ました。

などと太宰治ごときに言われてしまってはかなわぬ。

私から言わせてもらえば、彼の恥など微々たるものではないか。

太宰治の恥、その度合いや程度を仮に女子高生が授業中に不意に音付きのオナラをしてしまった時の恥ずかしさに喩える事が出来るならば、私の恥はオナラではなく脱糞だ、という事になる。

プーっ…(キャッ、恥ずかしい…っ!)

だったものが

モリモリモリ!(キャッ、今すぐ涅槃に旅立ちたい!)

となる。

太宰治など比較にならぬほどに恥の多い生涯を送って来たのは、他でもないこの私である。

OK牧場!

そうさ、困った時にはこの一言さ。

OK牧場!

ビバ、ガッツ。

いやいやいや、何を急に狂人のように書いているかと言うと。

徒然に他人のブログなどを見ていた時に、「自分は弱い人間だ」というストレート過ぎる表現を見てしまって、それで随分と辟易とした。比較的すぐに、ブラウザ左上の「戻る」ボタンを数回続けてクリックした。自分で自分の事を「弱い」と言うなんて、何であろうか、流行りの言葉を使えばそれは著しく「品格に欠ける」。私はそう思う。

同時に、太宰治が何かに書いていた「弱さ、苦悩は罪なりや」なんていう言葉を思い出した。だから少し太宰治の事を書いた。私は彼のこの言葉を読んだ時に、何か彼の事が根本的に好きになれなくなったのだった。

自分で自らを「弱い」と言う人間の事が、あまり好きではない。人間には弱くて脆い部分もある。けれどそれと同じだけ、鈍感で強靭な部分もある。たった一面だけを捉えて「自分は弱い」などと言われても、「何だかなあ(阿藤海っぽく)」である。わざわざ誰かにそんな「自分弱い」アピールして、どうしてもらいたいんだろうな、と。

けれど確かに世の中には存在する。自分が傷付けられる事には人一倍敏感で、他人を傷付ける事には全く鈍感な人間たちも。

私もついつい人から心配してほしい余りに被害者面をしてしまいそうになる時はあるが、それは深く反省し、そして強く戒めていきたい。そんな自分を発見した時には全くもって恥ずかしい。頭の中でNERV(ネルフ)の人たちが、「恥ずかしい率急上昇!タケシ、活動限界です!」と叫ぶ。ああ、全てはこれからだ。

やはり、困った時には朴訥フェイスで「OK牧場!」。この一択でキメ打ちしていこう。改めてガッツは偉大だ。

ガッツ石松曰わく、「ボクシングと出会って人生観が380度変わりました」だそうだ。

ガッツ…一周して20度じゃん…それじゃ…

| | コメント (2)

2009年7月19日 (日)

映画「いけちゃんとぼく」

西原理恵子原作の映画、「いけちゃんとぼく」を観る。

全編を通して言えば、子供達の交流を描いた映画であるが、まるっきり子供向けの映画ではない。

少々ネタバレもあるが、私の印象を簡単に記してみれば、「どこまでも優しい怨念を描いた映画」という印象だ。

「ぼく」の傍にいつも現れるいけちゃん。そのいけちゃんの正体を知った時に、とても切ない気持ちになる。

正直に白状すれば、中盤は観ながら少々ダレてしまった所もあったが、ラスト20分ほど、私は号泣していた。

出番としてはほんの数分しか出て来ないのだが、吉行和子の演じる老婆、この人物が最終的には全てを持っていく。無論、主人公だと言ってしまっても差し支えない。

私は最近妙に自分の死について考える事も増えたが、この映画を観る事によってまた、更に生きる事と死ぬ事とを考えさせられた。

不思議な、しかし秀逸な叙情的映画である。

観に行って良かった。

| | コメント (0)

2009年7月18日 (土)

心地よい束縛

今日は一日予定があったので、朝、家を出る前に30分だけピアノを練習。

練習をサボってピアノを弾かない日があると、わかりやすくその翌日に下手になっている。

楽器を、というよりも芸事を志すというのは、こういう所で難儀ですな。

ずっと芸に束縛される。

まるで不愉快では無いのが不思議なのだけれど。

幸せな事です。

| | コメント (0)

2009年7月17日 (金)

馬鹿と煙は

馬鹿と煙は
馬鹿と煙は
馬鹿と煙は
高いところに昇りたがるらしく。

何を思ったか、ふと思い付いて一人で東京タワーに昇るという純度100パーセントのキチガイ行動をしております。

展望台で一人でビール。皆まで言うな。イタいのは承知の上だ。

しっかし東京タワー、入場料たっけえな。昇るだけで820円って。缶ビール450円って。

東京湾やらレインボーブリッジやらを高い所から見てなかなかに満足。飛行機も大きく見える。

うん、悪くないね。

| | コメント (2)

昼の緑の電車から

山手線が巣鴨駅を通り過ぎる時に、随分と蝉がみんみんと騒ぎ立てているのを聞いた。

日暮里駅では時代劇の格好をした男が乗ってきた。何かのエキストラだろうか。

隣に座ったケバい女は、ずっと化粧に執心している。電車内で化粧をするのは決してチャーミングだとは思えない。オマエ必死だな、このズベ公、と心の中で悪態をついてみる。

池袋で、みんなが降りる。

私も降りる。

別々に、それぞれの目的地に向かう。

暑中お見舞い申し上げます、と君に向かって言いたくなった。それは、何だか無性に。

| | コメント (0)

2009年7月16日 (木)

エヴァを見てこようかな

今週末には映画『いけちゃんとぼく』を観に行く約束をしていたけれど、先程友人のヤマから「暇?」というメールが来たので、今日は『ヱヴァンゲリヲン破』を観てきます。

一週間に二回も映画館に行くのって、ひょっとしたら生まれて初めてかも。

男同士で映画行くのもごっつい久しぶりです。

死んだ師匠と二人で何回か映画に行った事があるけれど、恐らくそれ以来。

しかもエヴァって(笑)

『いけちゃんとぼく』に関しては、「きちんと予習をしましょう」という事で、一緒に行ってもらう女性に無理やりに原作の絵本を貸し付けました。「熟読しておくように」と。

「主人公の「ぼく」がフクシマさんに似てるね」と言われました。どうやら、中学生ぐらいの感じで見られているようです。ま、大体そんなもんですけど。

今から観に行く『エヴァ』の主人公の一人、碇シンジ君(14歳男性)とこの間脳内で会話しました。

私はあまりにも恥多き人生を送っていますので、その事をシンジ君に相談した訳です。

彼に忠告されました。

シンジ「自分には、何かあるなんて思うなよ・・・」

シンジ「別れ際に、下ネタばっかり言うなよ・・・」

私「なに、怒ってるの・・・?」

私「ごめんなさい・・・こういう時、どうやって生きていけばいいのかわからないの・・・」

(シンジ君、にっこり笑って)

シンジ「死ねば良いと思うよ」

シンジ君、君が正しい!!!!

| | コメント (0)

2009年7月15日 (水)

離れて見て

離れて見て
千駄ヶ谷の街から、新宿の街に夕日が沈んでいくのを見る。

あまりにも綺麗で、突然誰かに電話する。

「ねえ、知ってた?新宿は夕暮れ時に遠くから見るのが一番綺麗だよ」

って。

あんまりみんなに教えるのもシャクではあったけれど、私はそんなにケチでもないのでこうしてブログにも載せて教えてあげる。

多分ベストスポットは千駄ヶ谷から市ヶ谷辺りまで。

の路上。

| | コメント (2)

灰色の悪夢

灰色の夢を見て朝6時に起きて、暫らくしてから再び寝たらばまた灰色の夢を見て起きる。

不思議な事に、中身のストーリーはまるで覚えていない。ただただその色彩だけがくっきりと脳裏に残っている。所謂「悪夢」の一つと考えて良いのだろう。

脳にもやでもかかったかのようにずっと頭がぼんやりしていた。食事を採ったりちょっと多目に麦茶を飲んだりして、もう一度寝たりしていくらかマシになってくる。

こんなになった原因ははっきりとわかっている。ちょっとここには書けないような恥ずかしい理由で。中学生でもこんな失敗をするかどうかは微妙だな、と苦笑い。それと少しだけ反省。ごめんなさい。

ほぼ完全に覚醒して起きたら昼過ぎ。一日が既に半分近く終わっている。不可逆な時間の進みに後悔を覚える。

久しぶりに千駄ヶ谷でレッスンだから、夕方から千駄ヶ谷に向かう。

大丈夫だ。大丈夫。

| | コメント (0)

2009年7月14日 (火)

100年後の音楽

朝から近所の調律師の方に来ていただいて、ピアノを直してもらう。調律も一緒に、と思ったけれど、調律師の方から「梅雨が明けて湿気が落ち着いてからで良いんじゃない?」というアドバイスをいただき、今日は調律はナシで。それでもピアノが直ったから随分と気分が良い。

Ketil Bjornstadというピアニストの曲を午前中から採譜する。パソコンのWindows Media Playerが判断するには、これはジャンルで言うと「ジャズ」になるそうだ。私の認識としてはどちらかと言えばクラシック音楽なのだけれど。

最近のジャズはクラシックぽいものも包括するし、逆もまたそうらしい。随分と垣根は曖昧になりつつあるのだな。

100年近く前の音楽、ジャズの原型、例えばルイ・アームストロングの音楽とそれ以上昔のクラシック、モーツァルトの交響曲なんかを比べてみればやはり随分と違うけれど(似ている箇所も勿論あるけれど)、それらが歩み寄ったんだろうか。

わからない。

音楽は、あと100年後にはどうなっているんだろうか。

出来れば、今なおもってベートーヴェンが聴かれているように(それもある種の新鮮さを失われずに!)、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンの音楽が聴かれていれば良いな。

ファッツ・ウォーラーとかシドニー・ベシェとか。私の大好きなミュージシャン達はいささか時代遅れみたいで、レコード屋でも棚の奥の方に追いやられている。おかしな話だ。でも、本当に素晴らしい音楽は、どれだけ時代が経っても色褪せない。

ベシェのソプラノサックスを聴く度に、私は遠い世界に連れて行ってもらえる。

ファッツ・ウォーラーやジェームス・P・ジョンソンのピアノで、身体の芯が激しく揺さぶられる。

ロバート・ジョンソンのギターを聴いていると泣きそうになる。

コールマン・ホーキンス、ロイ・エルドリッジ、アール・ハインズ、マディ・ウォーターズ、オーティス・スパン、勿論チャーリー・パーカーにバド・パウエル、それにセロニアス・モンク。

素晴らしいレコードや楽曲をこの世に残して去っていった私のヒーローたち。

そしてそれを受け継いで、今も新しい音楽を紡ぎ続けるランディ・ウェストンやアブドゥラー・イブラヒム。

ただただ頭を垂れながら、彼らの偉大さに屈服する。

宇宙に散りばめられた幾つもの星のように、それらはそこにある。

飛んでいきたくなっちゃうよね。

宇宙に。

| | コメント (2)

2009年7月13日 (月)

TAKA TONE LIVE TOUR

そうだ、こっちも告知しなきゃいけないの忘れてた。チケット発売が明後日7月15日からです。

私の大好きなタップダンサー、TAKAこと川村隆英さん。そのライブツアーが9月にあります。今回は浜松、仙台、東京の三箇所。東京は二日間やりますが。

日本最高峰のジャズタップです。

以下詳細。

《浜松》DANCE FACTRY(POP CAFE)
9月19日(土)
Open 18:00- Sart 18:30-
\3,500-/定員60名
浜松市下石田1823-1
http://dancefactry.hamazo.tv/

《仙台》仙台市市民活動サポートセンター 市民活動シアター
9月21日(月)敬老の日
OPEN 14:30- START 15:00-
\3,500-/定員 90名
仙台市青葉区一番町四丁目1-3
http://www.sapo-sen.jp/

《東京》Buddy
9月23日(水)秋分の日
OPEN 13:00- START 14:00-

9月25日(金)
Open 18:30- Start 19:30-
\4,000-(1ドリンク付き)/定員 各90名
練馬区旭丘1-77-8 双葉会館 B2F
http://www.buddy-tokyo.com

てな感じです。チケットのご予約は以下より。

http://www.taka-tone.com/contact/

以前、発売開始一週間で売り切れ、みたいな事があったらしいので、なるべく早めのご予約をお勧めいたします。

| | コメント (0)

スケジュール、7月と8月

7月と8月のライブスケジュールです。どうぞ観にいらして下さい。

7月25日(土)東京金町 Jazz inn Blue
tel 080-1263-0955
http://www.jazz-inn-blue.net/
b:長谷川明弘 ds:松永博行 pf:福島剛
これも久しぶりのピアノトリオ。真っ直ぐに音楽を見つめていきます。本領発揮です。
19:30~start  music charge:1500円

7月28日(火)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:長谷川明弘 pf:福島剛
7月もアリエスでハーモニカトリオ。創意工夫を凝らして。でも決してマニアックにはなりませんからね。
19:30~start  music charge:2000円

7月31日(金)東京高円寺After Hours 
tel 03-3330-1556
http://www.afterhours-1975.com/index.html
vocal:おおたりこ piano:福島剛
7月ラストは「若きブルーズの女王」おおたりこさんとのデュオ。力強さと繊細さの同居する抜群のボーカルをどうぞ。
20:00~start  music charge:1800円

8月8日(土)京都深草ざぶざぶ 
tel 075-642-6348
sax:黒田雅之 b:椿原栄弘 ds:副島正一郎 pf:福島剛
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zabuzabu/
京都の名店「ざぶざぶ」にてサックス黒ちゃんのカルテット。アホを前面に押し出しながら、でも繊細にやりたいな、と。(「なと」じゃねえよ)
19:30~start  music charge:1800円

8月10日(月)京都高野むーら 
tel 075-703-0120
b:鶴賀信高 pf:福島剛
http://jazzmurra.web.fc2.com/pdf/murra20090810.jpg
初めて出演、京都のむーら。ベースの鶴賀ともデュオというのは初めてかもしれない。この日は思い切り前衛やるつもりでいます。平日ですが夏休みなので、是非学生さんも来て下さい。チケットはお店まで。
19:00~start  music charge:1500円(前売)、1800円(当日)

8月17日(火)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:山崎伸之 pf:福島剛
この日のベースは同い年の山ちゃん。皆川さんの美しいハーモニカの音色の後ろで、ピアノとベースがちゃかちゃかして遊ぶ、という何とも不思議なライブです。面白いですよ。
19:30~start  music charge:2000円

8月30日(日)神奈川川崎 川崎教育文化会館
かわさきタップフェスティバル
tel 0570-02-9999 (電子ちけっとぴあ電話番号)
http://www2.odn.ne.jp/mstapfactory/ktf-top.htm
The Successors
tap:川村隆英 b:イチタカタ pf:福島剛
川崎タップフェスティバルに「The Successors」として参加。もちろんタップフェスティバルに出演するなんて初めての経験です。詳細は上記ホームページより。

現在わかっている所では以上です。どうぞ御覧にいらして下さい。

| | コメント (0)

普通の日記

一昨日はワークショップ。打ち上げで酔い過ぎて、またしても失言大魔神となる。はっきり言って、私から言わせてもらえば森元首相の失言なんて可愛らしいものだ。翌日に死にたいほどに恥ずかしくなる。もう。

昨日はレッスン後、渋谷でポップスのライブ。渋谷で迷子になってしまった時に、改めて「この街が大嫌いだ」と思う。新宿よりも池袋よりも、渋谷は嫌いだ。原宿も嫌いだ。錦糸町とか小岩は好きだ。高円寺も好きだ。

ポップスのライブにおいては、恙無くピアノを弾いて、と言いたかった所だが、あり得ないミスを幾つかしてしまう。音楽を仕事にしている人間のするようなミスではない。ピアノが下手くそすぎる。思い切り凹む。死ねばいいのに、と落ち込む。もう。

その後、東中野で西池則子さんのライブへ。ドラムの湯川学さんとともども、親しくさせていただいている。狭い店内でのライブで、尚且つピアノはエレキピアノだったけれど、(しかもドラムはスネア一つだけだった!)大変に素晴らしいライブ。則子さんの歌は明るくて好きだ。変に暗くなり過ぎない。暗い歌を歌っても、どこかに突き抜けるような明るさがあるので、何か救われるような気持ちになる。

ベースの矢野伸行さんとピアノの高橋聡さんも素晴らしかった。ベースの矢野さんは骨太ながらも流麗にスイングするし、ピアノの高橋さんはエレキピアノにも関わらず、繊細な表現をあちこちに散りばめられていて、「すごいなあ」と子供のように感心して見てしまう。

京都の頃からの仲の良い友達、カオリちゃんとマイヨちゃんもいたので、終演後に一緒に少し呑んでから帰宅。帰り道の道すがら、少しだけ散歩をする。東中野の下町の雰囲気が、中野坂上に近付いてくるにしたがって、徐々に高層ビル群も増え、都会の様相に取って代わる。傍らを車が通り過ぎる。指相撲をする。落ち込んでいた気持ちが段々と薄れてきて、つまらない自我が少し剥がれる。電車に乗って小岩に帰るのが勿体無く思えたけれど、しっかりと小岩まで帰る。今度は市ヶ谷で散歩をしよう。

珍しくぐっすりと寝て今日。様々なスケジュール調整であちこちにメールを送る。こういうのも仕事だからな、と思いながら朝からせっせとやる。パソコンを触っているから、ついでにこうして「物凄く普通の日記」を書く。

こうして「普通の日記」を書くのは随分と久しぶりのような気もする。何だか恥ずかしい。

さ、今から自分のライブスケジュールを更新したら、ピアノの練習しよっと。

今日は平和です。とても暑いけれど。

| | コメント (0)

2009年7月12日 (日)

一人上手と呼ばないで

仕事が

命がけです。

プリンセス天功

という電車内広告を見て、声をあげて笑ってしまった。一人で。

恥ずかしい。

| | コメント (0)

昨夜も昨夜とて

脳髄までアルコールに侵されまして。

恥に恥を塗りに塗りまして、大変恥ずかしい訳ですが、そんな時は「知らないルンバ」を歌い、そして踊ると良いのです。

♪オレは知らない知らないルンバ

覚えてなーい

それはオレであってオレじゃなーい♪

という歌です。今作りました。

二日酔いなのか「まだ酔ってる」のか判然としませんが、朝から頑張ります。

今日はリハ→レッスン→ライブの三部作です。

朝からのリハの時点で吐きそうです。

頑張ります。

あ、そっか!わかった!

死ねば良いんだ!

| | コメント (0)

2009年7月11日 (土)

Abdullah Ibrahim 『SENZO(先祖)』

以前エントリーした記事で書いた、南アフリカのピアニストAbdullah Ibrahim 『SENZO(先祖)』、とりあえず十回前後じっくりと通して聴いたので簡単な感想を以下に。通勤電車内の暇潰しだ。

兎に角私はこのアルバムを聴く事を大変愉しみにしていた。京都のジャズ喫茶「ラッシュライフ」のマスターが「ダビングしてやろうか?」と、万年金欠病の私に心優しくも持ちかけてくれたが、それも丁重にお断りした。誰かの好意に甘える事無く、自らの金で、そして「然るべき時」を待って私はそれを聴きたかった。単なる我が儘に過ぎないが、それは私にとってとても大事な事だったのだ。

そして、その機会に恵まれた。

結論から言えば、完全に圧倒された。

家のオーディオセットのボリュームの目盛りを、いつもよりほんの少し大きめにして聴いた。ただ無心に、感動した。故に、これ以下の私の感想にはいささか大袈裟な表現も出るかも知れないが、それは仕方のない事だ。

Abdullah Ibrahimの音楽、それ自体は極めて深遠にして複雑なものであるが、簡単に言葉で説明する事は出来る。非常にうってつけな日本語がある。

Abdullah Ibrahimの音楽、それは「とても美しい」音楽である。

こうして単純な言葉にしてしまえば、最初に断りを入れたような彼の音楽の奥深さや複雑さは、印象としては消えてしまいかねない。しかし敢えて言いたい。「Abdullah Ibrahimの音楽は本当に美しい」と。

それは、決して表面的な美しさにのみならないからだ。だからこそ、本当に美しいと感じる。

実際に彼の音楽は「美しい」。各楽曲のメロディライン、ピアノの音色、音と音との間隔(間合い)、残響。様々な要素があるが、それらの全てが完璧なほどに「美しい」のである。

それは何故にかくも「美しい」のかを考えた時に、私は一つの結論を導く。いささか逆説的な結論ではあるのだけれど。

「そこには美しくないものもきちんと存在するからだ」

この結論である。

彼は、美しいものと穢いものとをあまり分けて考えてはいないのではないだろうか、私はそんな事をふと思った。

漫画家西原理恵子が言った「笑う事と泣く事は同じ事だ」と言っていた事も似たような例の一つとして思い出すが、本当に美しいものを創り上げて表現する人々は皆、穢いものの存在を決して隠したりしない。

私が嫌いなタイプの連中というのは、そこを隠したり、御為ごかしで表面的な「キレイなもの」で誤魔化そうとする人々だ。

そういう連中の生き方(もっと言えば「在り方」のようなもの)と、Abdullah Ibrahimの音楽は対極にある。

彼の音楽の有する、ある種の絶対的な美しさみたいなものの陰には、そういった穢いものが時折見える。

以前当ブログの中でも書いた事があるのだが、彼の若い頃の大傑作に『African piano』というレコードがある。私はそこに記録されたものは「血気盛んな若いアフリカ人の怒り」であると書いた。そしてそれに関しては未だに大筋において印象を異にしていない。「怒り」という感情を、完全なまでに音楽に昇華させた比類無き作品である。

『African piano』を聴けば端的に分かることだが、彼は陳腐で甘ったるいロマンチストなどでは決してない。センチメンタリストでもない。無論それは今回の『SENZO』からもわかる事だが。端的に、という意味では『African piano』がわかりやすい。

彼は、怒りの感情と正面から向かい合った、真摯な人間であり、表現者である。

そしてそういった経緯が現在の彼の音楽に何とも言えない滋味と奥深さとを与え、より一層美しくたらしめているのではないだろうか、私はそんな事を考えてしまうのである。

彼の怒りはどこからやってきたのだろうか。

それを考えた時に、南アフリカ共和国という国の歴史を無視して考える事はほぼ不可能に近い。彼の怒りは、日常的なレベルの怒りとは事情を明らかに異にしている。つまり、「普通の怒り」ではないのだ。

そこには民族的な誇りがある。国境という境界線を越えた、大地(それは恐らくアフリカの大地である)というレベルでのナショナリズムがある。

そこに根ざした怒りである。敢えて言えば、崇高な怒りである。

1994年に、南アフリカ共和国では全人種による大統領選挙が行われ、結果としてネルソン・マンデラが大統領として就任した。これは歴史上大変な「事件」であった。勿論、素晴らしい「事件」である。

南アフリカ共和国に巣喰っていた極端な人種差別、それは「アパルトヘイト」の名で私達の耳にも馴染みが深い。

以前当ブログにて紹介した『アマンドラ!』という映画にもその当時の南アフリカの状況は詳しく描かれているが、それは悲惨極まりない光景の連続である。

余りの悲惨さに、現実感が少々稀薄に感じられるほどだ。横行する暴力、様々な剥奪。映画の中では妊婦がトイレで殺された。路上で歌を歌う男性が頭部を銃で撃たれた。全て黒人だ。

何か遠い星で起きた出来事のようにも思える。

目を逸らすな。それは「本当に起きた事」だ。実際に人は無惨に死に、大量の血が流れた。動かし難い事実なのである。

マンデラ就任以降、制度としての人種差別は否定されたが、道徳的な意味、観念的な意味合いにおいてはそれは今も確かに存在する。

無論それは南アフリカに限った事ではない。有色人種であるバラク・オバマが合衆国の大統領に就任した事が「事件」として扱われた事を見てもそれはわかる。

優れたリーダーシップを持ち、知性と誇りと想像力を持った人間が大統領に選ばれ、それが「たまたま」有色人種であった、のではない。オバマが大統領に就任した事には、それ以上の意味が含まれていた。狂信的で排他的な前大統領に打って変わって、幾分マシな(おそらく)人間がアメリカ合衆国の大統領に就任した。それだけの話なのだが、含まれなくても良かった筈の意味が、そこには含まれていた。人種差別の問題は現在進行形の問題なのである。

理不尽で謂われ無き人種差別、その他諸々に対して怒りを露わにした若き日のAbdullah Ibrahim(当時はDollar Brandと名乗っていた)が発表した『African Piano』は、紛れも無い大傑作である。

しかし、御歳70歳を越えた今発表された今作『SENZO』、そして前作の『African Magic』。これらもまた、それに勝るとも劣らない傑作だと私は声を大にして言いたい。

そこでピアノを弾いている彼の魂は、穏やかに笑みを湛えているように、私には見える。

それは全てを諦めたような苦笑いなのだろうか。

いや、そうは思わない。それは全てを受け入れた時に現れる、どこまでもたおやかな微笑みだ。

深い愛が幾多の疵を庇うように、彼の奏でるピアノの音色は、我々の疵を庇い、過ちを赦す。

癒し、などという流行りの言葉で括られるのは毛頭御免蒙る。それは癒しなどを遥かに越えた高みにある、紛れもなく純粋な「音楽」である。

ピアノという楽器はこんなにも素晴らしい楽器なのか、音楽にはここまでも可能性が秘められているのか。

彼の新作『SENZO』を聴きながら、私はそう思って頭を垂れる。

どこまでも心地の良い圧倒的な敗北感。

全てが崩れ落ちていくような無力感。

こんな体験は、そんじょそこらのドラッグなどでは体験出来ない。

3000円弱で買えてしまう、強力過ぎる合法ドラッグ。それがこの『SENZO』だ。

先に断りを入れておけば、依存性もある。困ってしまうぐらいに。

気をつけて頂きたい。

| | コメント (0)

2009年7月10日 (金)

明日のワークショップ

そうそう、明日はワークショップ。ゲスト講師には前回に引続き、ギターの廣木光一氏が来て下さいます。素晴らしいギタリストであると同時に、素晴らしい指導者でもあります。

まだ参加を申し込んで無い方は、この機会に是非。

詳細は過去のこの記事から。

http://whatdisay.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f5a2.html

笹塚でやります。笹塚ってどこだろう。

| | コメント (0)

映画を観に行こう

形ある物はいずれ壊れる、とは言うが、我が家のピアノが壊れた。

高音のD音がきちんとならない。

蓋を外して中を覗いて見たらば、ちょうどそこはハンマーの継ぎ目になっている所で、ハンマーがあさっての方向を叩いていた。それじゃきちんと鳴らない筈だ。弦が切れた訳ではなかった。

急いで近所の調律師に電話をかけて、修理を依頼。おそらく来週になる、との事。ついでに調律もしなくては。ああ、金が。金がひらひらと飛んでいくよう。

まあそれは良いとして。

意外な事に映画なんぞが好きな私である。映画の話を少し。

昔、「趣味は映画です」なんて言う人間が何となく嫌いだった。オシャレを気取っているような気がして。本当はお前、映画が趣味って言ってる自分が趣味なんだろ、などと意地の悪い事を心の中では考えていたが、よくよく考えたら別にそんなにオシャレな趣味でもない。どうしても私のようなブサイク軍は、少しでもオシャレ臭の漂うものに対して過敏に反応し過ぎる傾向がある。気をつけなくてはいけない。

よくよく考えれば、私もおそらく年間に30本を超えるくらいの本数の映画は観るし(ビデオやDVD、テレビ放送を含む)、多分5~6回は映画館にも行っていると思う。普通に映画が好きなんじゃないか、と自分でも思う。

そんな私であるが、映画に関しては何だか或る一定の好みの傾向がある。自分でもそれは何となく把握している。
・邦画
・静かな作品
・娯楽作品
といった傾向である。娯楽作品とは、要するに「寅さんシリーズ」であったり「釣りバカ日誌シリーズ」であったり、ザ・山田洋次!みたいな感じが好きなのだ。あ、そういえば今日テレビで「釣りバカ」やるな。観よっと。

ここ数年観た映画の中で好きな映画を五本挙げてみる。暇潰しに。

・ぐるりのこと
リリー・フランキーと木村多江が夫婦を演じる。法廷画家の夫と精神を病む妻、という設定。

・トニー滝谷
イッセー尾形と宮沢りえ。これも夫婦もの。原作は村上春樹。『レキシントンの幽霊』に収録。

・実録・連合赤軍
若松孝二監督作品。タイトルの通り、連合赤軍を描いたドキュメント作品。全編通してテンションがすごい。

・いつか、読書する日
岸辺一徳と田中裕子。中年の秘めた恋心を描いている。裸がたくさん出る訳でも何でもないが、ものすごくエロい映画。

・解夏
さだまさしの原作。石田ゆり子が綺麗で綺麗で綺麗過ぎてもう何が何だか。

以上五本。たけしの「ソナチネ」とかも好きなのだけれど、見たのがあまりにも昔過ぎるので挙げなかった。あ、北野映画、好きなんだよな、そう言えば。

とまあ、映画に関してダラダラ書いておりますが。今日の文章、しまりが無いな、欠片も。そういう時だってあるわな。

今観たい映画が二つ。一つはエヴァンゲリオン。アニメの、あれ。友人のヤマと行こうと言っていたのだけれど、まだ行っていない。約束していた日にヤマが寝坊。まだしばらくやってるだろうから大丈夫だけど。

もう一つはサイバラ原作の「いけちゃんとぼく」。一緒に観たい人と観に行く約束をしたまでは良かったが、先程上映期間を調べてみたら、7月17日まで。何と…。約束したのは7月18日だったのに…

映画って、観に行こう行こうと思ってる内に上映が終わってしまう事が多い。

何なのだろう。

| | コメント (0)

2009年7月 9日 (木)

惚れた弱み

夏の悪夢祭にて、朝7時30分という嘘みたいに真っ当な時間に起床。悪夢に次ぐ悪夢。半ば強制的に起床させられる。こんな時間に起きたってピアノ弾いてたら近所迷惑になるしやる事がねえんだよな、と思いつつ、コーヒーを啜り煙草を吸っていたが、幾つか思いついたので、朝から行動的になる事にする。

年に一度か二度、ピアノを教えている生徒達にスタンダードの楽曲を覚えてもらう為に、スタンダード集のCDを気まぐれで製作する事がある。それを朝の作業としてやってみる。合間に書きたかった譜面も書いてみる。

『What is this things called love?』というスタンダードチューンだが、何となく気分でフィニアス・ニューボーンのやっているテイクで収録してしまったが、全くこれは参考にならんな、超絶技巧にも程がある、と苦笑い。もう入れてしまったから仕方が無い。修正は大変面倒なので修正しない。今、出来上がったものを聴きながら、気分転換にブログを書いている。あ、二曲目の『All the things you are』ではミンガスがベース弾いてる。ミンガスのベース、良いなあ、好きだなあ。

昨日、久しぶりに7~8時間という長時間をピアノの練習に充てる事が出来た。長時間よりも「集中して練習に臨む事」を優先させているので、最近ではあまり長時間の練習をする事も少なくなったが、昨日はたまたまその長時間、集中力が持続した。気が付けばそれだけの時間が経っていた、という感覚。これならば何ら問題は無い。

それと同時に何だか寂しくもなった。

自分の大学生時代を思い返した。

ご存知の方もいるかも知れないが、私は京都府立大学という日本一地味で知名度の低い大学を、何と延べ九年間の歳月をかけて卒業している。九年間もの歳月を要した事は何の自慢にもならないが、それでも兎に角卒業した事に関しては多少の自負がある。

最後の一年間から二年間、その期間だけは比較的真面目に授業に出たが、その当時に私は26歳だか27歳である。一年生の18歳から19歳の人達からすれば、明らかに老けたのが一人混じってんな、という感覚だったのだろうか。ま、そこまで見てねえか。

その最後の期間以外は、本当に自分でもびっくりするくらい授業に殆ど出なかった。テストにも碌に行かなかった。何をやっていたのかと言えば、酒を呑んだり、アルバイトをしたり、麻雀やパチンコなどの小さな博打をやったりしていた。

そして、音楽をしていた。

今考えると、当時の練習方法というのは酷い。効率性もへったくれも無い。暗中模索すらせずに、「ただひたすら」練習していた。

我が母校は、今はどうだかは知らないが、その当時は24時間誰でも中に入れるという有り得ないほどに極めて管理体制の杜撰な学校であった。

深夜の二時にアルバイトを終えると、牛丼屋などで軽く腹拵えをした後に大学へ向かい、コンクリート打ちっぱなしのおんぼろな部室に向かい、朝の7時だか8時だかまでひたすらにピアノを弾いた。時には、仲の良いタナカツネキくん(彼はコントラバスを弾いていた)をそんな時間から呼び出して、朝まで延々と二人でセッションをして愉しんだ。

他の学生達が一時間目の授業に合わせて登校してくるのを見て、「そろそろ帰らなきゃ」と帰っていた。逆だろ、普通は。

終われば家に帰って酒を呑んで就寝、起きたら再び大学に向かい、アルバイトの時間までまた練習をした。

恐らくそれは、ほぼ毎日、10時間を超えるような練習時間だったのだと思う。勿論、先に述べたように練習方法はムチャクチャだ。論理性も無ければ、整合性もない。単に「遊んでいただけ」と言っても過言では無いのかも知れない。今の方が遥かに「質の高い練習」をしているという自負がある。しかし、そこにあった訳の分からぬ「熱」のようなものは、今ではやはり薄れてしまっているのかも知れない。それを考えると、何だか無性に寂しくなるのだ。

今では私にとっては音楽は「仕事」でもある。しかしやはり忘れたくないのは、私にとっては音楽はどこまでも「遊び」の面を持っている、いや、持っていてほしい。

練習にしてもそうだ。学生の当時、それだけの長時間練習をした後の気分は、「今日はたくさん練習をして、オレ偉い」という感覚とは全くの真逆。喩えば小学生が面白すぎてファミコンを何時間もやり過ぎてしまった感覚に似ている。「あ、ちょっとやり過ぎてしまったな、まあ愉しかったしな。ボスも倒せたし、まいっか」というような感覚だ。

小学生がファミコンのスイッチを入れる時に抱く筆舌に尽くし難い高揚感、わくわくした感覚、それに卑近なものを私はピアノの蓋を開ける時に感じていた。

私は幼い頃からピアノを弾いていた訳ではない。経験として「弾いた事はある」ぐらいのものはあったが、私の十代は88つの黒白の鍵盤の前でではなく、柔道場の青畳の上で大半を過ごされていたのだから。

そんな人間が、こうして「何故か」(自分でもよく分かっていないのだけれど)音楽を飯の種にしている。そこには、恐らくその学生時代の「無茶苦茶な練習」があったからだと思っている。よくわからないけれど兎に角やる、愉しいからやる、という「アホの論理」によって貫かれた原始人的練習法である。私のバックボーンとしてあるのは、そのアホさなのだ。

最近では変に小悧巧になってしまっている。自分に対する言い訳ばかりが上手くなっている。

喩えば「以前よりも練習方法は格段に質は上がっている」という自覚もその一端を担っている。それは確かに事実だ。五月蠅えよ。そういう事じゃねえだろ。

ストイックに練習する気なんてハナからなかったんだ。その事を再び思い出した。練習(最早この言葉も正しいのかどうだかわからない)が愉しくて愉しくて仕方が無い。新しい事を一つ発見する悦び、技術を身に付ける悦び、知識を得る悦び。挙句、誰かとコミュニケーションが取れるようにもなってしまう。嬉しいじゃないか。そういった快楽的なものに支配されていたい。

最近少々真面目すぎた。

もっと不真面目に行きます。

惚れた弱みだ。

どうにでもなるわい。

| | コメント (2)

2009年7月 8日 (水)

深夜にサイバラ『ぼくんち』を熟読するとどうなるか

号泣する。

俺に一番似てるのは、さおりちゃんの親父、と思った時点で若干うんざり。

ああやって他人に迷惑かけつつ、ああやって死ぬんだろうな、と。

「はよ死んだらええのになあ。死んだら死んだ人のこと、悪うにゆう人はおらんからなあ。」

いや、でも、号泣。

| | コメント (0)

人生訓

『ぼくんち』の中で、こういちくんが言う人生訓。

改めて胸に染みる。

もう一度、自らの人生訓として復唱しておかなくては。

一.人はなるべく殺さない。

一.ゴーカンはできるだけしない。

一.それから大好きな人を一人作っておく。

難しそうだけれど、何とかいけそうな気がする。

| | コメント (0)

完全無欠の酔っ払い

人間は不完全な生き物なのだ。

と言ってみた所で当たり前過ぎて面白みの欠片も無い。

生まれながらの罪を背負って、という宗教的な原罪であったりカルマの話をしても、何だかつまらない。そもそも大前提として「完全だ」などと微塵も思っていないのだから。

そんなあまりにも不完全な人間同士が肩を寄せ合う。

頼りない部分を補い合って、お互いを高め合って。そういう風に出来ればとても良いのかも知れないけれど。

何も補完し合わない関係。それもまた良いじゃないか。

あんたの悪い所は俺の悪い所でもある。そんなとほほな関係だって良いじゃないか。

村上春樹の「やれやれ」は嫌いだが、大槻ケンヂの「とほほ」は好きだ。

正直に白状すれば、夜中に酔っ払いながらサイバラの『ぼくんち』を読んでいたので、少々おセンチになった。

馬鹿みたいだ。

今度あんたと一緒に魚を食おう。

| | コメント (0)

2009年7月 7日 (火)

作曲家、Duke Ellington

何故か「たまたまそういう気分だった」ので、Duke Ellingtonの楽曲群を集中的に練習した。

改めて、エリントンというのは面白い作曲家だ。

所謂ヒットソングもそうなのだが、少々「通好み」の曲にも、エリントンの個性は遺憾なく発揮されている。

バラードを数曲弾いた時に感じた事なのだが、エリントンの描くバラードは、一見して「捉えどころ」が無い。私はそこから非常にぼんやりとした印象を受ける。

「Solitude」、「Sophiscated Lady」、「I got it bad」。

それらは簡単にはその全容を私には教えてくれない。

繰り返し繰り返し何度も弾いていると、朧ろ気にではあるがその「ツボ」のような箇所が見えてくる。

その「ツボ」を突きながら更に繰り返しそれらの楽曲を弾くと、また新たな「ツボ」が見えてくる。

幾重にも張り巡らされた巧妙なトリックのように、それは核心を隠し、楽曲の輪郭を絶妙にぼやかしていく。

エリントンは一筋縄ではいかない。

まだまだ研究の余地あり。

大変、面白い。

| | コメント (0)

2009年7月 6日 (月)

忘れる

最近。と言ってもここ数年の事なのだが、記憶力という意味での脳の力が激しく衰えている実感がある。なかなかに情けない話である。

「人と何を話したかを忘れる。」一つの症状としてはこれなのである。

相手が言った事はまだ覚えている方だが、私が自分で言った事に関する記憶がほぼ壊滅的な状態にある。「これさあ、前にも言った事あるかも知れないけど…」この前置きを随分と頻繁に使っているような気がする。多分、私はいつも同じような話ばかりしている、と考えると漠然とした恐怖にすら襲われる。

もう一つ、これは極めて最近の事なのだが、記憶の中の時系列の歪みが酷い。

例えば事実として、

「三週間前にパチンコに行って、二週間前に山に登って、一週間前に中華料理を食べた」

というものがあったとする。それが実際に起こった事なのだが、「現在の私」は、それぞれが「いつ」起こった事なのかも把握しきれずにいるし、更に言えば「パチンコ→登山→中華料理」という「順序」すらも怪しい状況にある。これまであまりこういう事はなかったのだが。

色々と生活に支障をきたすので、今はなるべくメモをとるようにしている。最近頻繁にブログを更新しているのにもそういう理由が一つはある。

様々な事を、どんどん忘れていく。いつか記憶も何もかもすっかりなくなって、からっぽになってしまうのではないだろうか。その事を考えると、恐怖と愉快とが同時に私を襲う。

忘れて、忘れて、やっと、楽になる。

三カ月も前の事などとうに忘れた。

昨日、本当は市ヶ谷から四谷まで歩きたかった。

歩けば良かったのに。

| | コメント (6)

2009年7月 5日 (日)

健康あればこそ

健康あればこそ
愛飲していたロングピースを、暫く吸わずにいた。

胃が荒れていたからかも知れないが、吸うと思い切りえづきまくっていたから。

すうーっ…おえっ!

といった具合に。

仕方ないから暫く軽い煙草に変えていた。

だけどやっぱり物足りない。煙草は何はなくともきっつくなきゃ、と思いながら悶々としていた。

ここの所少し調子も良いので、久しぶりにロングピースを購入。お久しぶり、黄色いパッケージ。明らかに身体に悪いこの煙草。

吸ってみると、やはり美味い。ああ、あるべき本来の煙草の味。タール21mg。これでこそだ。

尚且つほとんどえづかない。

よし、健康!

身体に悪い事をする為には、健康な身体が必要なのだと再確認。

立川談志師匠は、「禁酒に禁煙、ありゃあ意志の弱い人間がする事です」とおっしゃっていたが、家元、不健康な奴らもそうなりかねませんぜ。

ロングピースを楽しみながら神宮外苑を散歩。

健康に、感謝。

| | コメント (2)

2009年7月 4日 (土)

ニュートン力学と相対性理論

我々の考える「正しさ」というものは、ある一定の(限定された)状況においては、その効力を発揮する。

例えば1+1=2という数式。これが「正しく」ある事を考える際には、非常に煩雑な種々の条件(或いは状況)を設定する事が必要となる。

まず、「足される立場」である1と「足す立場」である1を、完全に同一のものとして仮定しなくてはならない。

更には「1」という概念を極限まで抽象化し、「1」という存在形態を仮定でも何でも構わないから一先ず受け入れる。更に他の条件もあるが、それはこの際割愛するが、そういった「極めて限定的な状況」において、初めて1+1=2という数式は成り立つ。

理論上はこういう事は可能だが、現実的にはこういった現実的な状況というのは大変稀有な状況だ。

嘗てアイザック・ニュートンの発見した力学、一般にニュートン力学と呼ばれるものは、私達の身の回りにある「運動」を、ほぼ完璧に表した理論であるとされた。

確かに我々の生活の中で起こる様々な物理的運動は、このニュートン力学によって「ほぼ」説明可能だ。

そこに疑問を投げかけ、新たな運動理論を構築したのは、かのアルベルト・アインシュタインである。

彼は独自に相対性理論を発表した。重力や加速度を扱わない特殊相対性理論、そしてその重力や加速度(実は重力も加速度も見かけ上は同じらしいのだが)を扱う一般相対性理論において、新たな運動理論を提唱した。

細かな内容については、決して私も多くを知る訳ではないので明記を避けるが、大体においてはこういう事である。

相対性理論において、扱う重力や速度が地球上で日常的に目にするレベルのものであれば、ニュートン力学はほぼ正しい。相対性理論による観測結果とニュートン力学による観測結果は、同一に近い近似値となる。

と。

しかし以下のような但し書きが付く。

それが太陽やブラックホールのような強大な重力場であったり、光速に近いような速度での慣性系を用いて観測された場合、ニュートン力学は通用しなくなる。

この但し書きである。

さて、ここから「ニュートン力学は間違っていた」と判断するのは可能であろうか。私はそうは思わない。

先程の「1+1=2」の状況で述べたように、ある一定の状況下においては、ニュートン力学は「正しい」のである。その理論に沿って現実の物質(或いは時間)は運動し、変化する。更に言えば、我々が「普通に」日常を暮らす限り、ニュートン力学さえあれば殆どの事象は説明に事足りる。時空間が歪むような現象を実感するような機会はほぼ皆無に近いと言って良い。実際にこの時空間が歪んでいるにも関わらず、だ。

相対性理論は、我々の日常からは幾分離れた状況においてこそその真価を発揮する。日常的な状況においては相対性理論もニュートン力学も「ほぼ同じ」なのだから。

私は科学は完全な門外漢であるので、現在の状況を詳しくは知らないが、恐らくはその相対性理論ですらもカバーしきれていない領域(状況)というのは存在するのではないだろうか。そこにはまた別の「正しさ」がある。しかし、それもまた「相対性理論が間違っていた事」の根拠にはならない。「不足であった事」の根拠にはなるとしても。

このようにして、大まかに言えば「正しさ」というのは極めて相対的である、というのが相対性理論の骨子なのではないだろうかと私は解釈している。

私には私の時空間の正しさがあり、ブラックホール内にはブラックホール内の時空間の正しさがある。それはどちらも正しく、どちらも間違っている。言い換えれば、どちらも本当であり、どちらも嘘である。

何がしかの争いが生じる原因には、絶対的な真偽や善悪があるのではなく、互いに「都合」があるからなのではないだろうか。お互いに「自らの正しさ」を否定されては困る「都合」があるのだ。

それを理解した上で不遜に言わせて頂ければ、そこからは決して相対性理論的な革新的な何かなど生まれ得ない。絶対に。

私には私の正しさがあり、私の主張がある。それは皆同じ事なのだ。

天動説が地動説に翻ったような、まさしくコペルニクス的転回などというものは、最早生まれづらい状況にあるのだろう。しかし、ニュートン力学に相対性理論が補足説明を加えたように、「現在ある正しさ」を疑い、そこに補足説明を加えていく事は可能だ。

出来るならば、私は私を疑い続けたい。

私など、何も正しくないのだと。

| | コメント (2)

2009年7月 3日 (金)

来週は珍しくポップスもやるので

休日を過ごす。

とは言っても、それなりにやるべき事はある。来週末に、日比直博君というポップスシンガーの伴奏をやるのだけれど、譜面と音源を見比べて以前ざっと練習しただけなので、今日の内に練習して仕上げておかなくては。

ポップス自体は普段ほとんどやる事がないのだけれど、たまにやると大変勉強になる。

慣れないキー、種々の決め事。

そういった事をきちんと守って「しっかりと」弾く事に数年前まではあまり意味を見出せずにいた。「そんな所には何の即興性もねえじゃねえか」みたいな感じで。

たとえ即興性がなくても必然性があれば良い、と思うようになったのは、ここ数年の事だ。

だから今はそういった事の重要性を少しずつ理解してきている。お陰で譜面も少しは読めるようになったし、それはそれでとても良かった、と思っている。

ただ、彼の事務所から送られてきた譜面、ひどい間違いだらけなんだよなあ(笑)

それと、午後には病院に行かなくては。ずっとここの所体調もおかしかったし、いい加減サボらずに行かなくては。自分の身体だ。少しは自分で管理しないと。

という事で、昼食後に腹が小慣れるまでの戯れの更新でした。

さ、練習しよっと。

| | コメント (4)

2009年7月 2日 (木)

第二回ミュージック・ワークショップ東京

私もホストミュージシャンとして参加しているこのイベント、二回目が来週末に開催されます。

奮ってご参加ください。

特に私の生徒はね。(って、生徒はこのブログあんまり見てねえか。見られてても困るけど)

以下詳細。

第2回
ミュージック・ワークショップ・東京、開催ののお知らせ

当ワークショップはジャズ、ラテンを中心とした様々な音楽を志すミュージシャンが集い、
互いに切磋琢磨して演奏能力の向上に励むため発足しました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【日時場所】

7月11日(土)17:00~21:000

スタジオミュージアム笹塚店 Gスタジオ
http://www.studio-museum.com/sasazuka/

【参加費】

2000円

【概略】

各回毎にゲストインストラクターをお招きし、セッション形式で進行します。
ゲストを交えて演奏したあと、感想や意見を交換して、最後にコメントをいただきます。

今回は廣木光一さん(g)をお迎えしての開催です。
http://www.hirokimusic.com

【参加方法】

お名前、担当楽器、連絡先をそえてご連絡ください。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

年齢や経験の制限はは一切ございません。
初心者の方からプロの方まで、ふるってご参加ください。

※スタジオ開催の為、参加希望者多数の場合は定員を設けさせていただきますので、お早めにお申し込みください。
※参加の際は譜面を数部ご用意下さい。

ご参加、お待ちしております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という事です。

連絡先は

musicworkshop.tokyo@gmail.com

です。それか私の所へ直接ご連絡いただいても構いません。

ワークショップ後には、おそらく「交流会」と称した飲み会があります。これも愉しい。

| | コメント (0)

負け戦こそ面白い

「男」ではなく、「漢(おとこ)」の生き方とはいかなるものか。我々男子たるものや必ずこの命題を一度や二度は考えた事がある。あるはずだ。

これは「必ず」と言い切れる事が出来る。無い人は恐らく、槙原敬何とか氏や平井何とか堅氏に代表されるような、男性の奥さんを欲しがるタイプの人達であろう。

無論、ガチムチで六尺でウホッな感じが悪いと言っている訳では無い。悪い訳が無い。単純に「違う」だけだ。それは単に趣味嗜好の違いなのだ。

ただやはり、菅原文太や梅宮達夫みたいな方々よりも、石田ゆり子や本上まなみに異性としての魅力を感じてしまう極めて多数派で凡庸な私からしてみれば、ゆり子神やまなみ梵天などの「女性らしさ」に対して、「男である私」は「男らしさ」、ひいては「漢(おとこ)らしさ」を意識してしまうものなのである。

生物学的な「性差」(これは英語で言うと超恥ずかしいから言わない。ヒントはSで始まってXで終わる単語。キャー)ではなく、社会的な「性差」というものがある。所謂「ジェンダー」というヤツだ。私は、このジェンダーというものは非常に重要な要素だと思っている。つまり、「ジェンダー万歳」な立場なのだ。

つまらないフェミニスト達はここを曖昧にしようとするが、それに対しては声を大にして異論を唱えたい。「何バカな事してくれてやがるんだ!このスカポンタン!」と。

当たり前の事だが、女性蔑視は良くない。雇用機会も可能な範囲内で(つまり出産などを考慮に入れて)均等に分け与えられるべきだ。

しかし、それとこれとは違うのだ。

女性が女性らしく、男が「漢」らしく振る舞って何が悪い!私はそこを声を大にして唱えたい。

勘違いして欲しくないのは、その「女性らしさ」の部分である。例えば上目遣いに男を見て猫なで声で甘えかける、必要以上のボディタッチ、そして自分を可愛らしく見せようというあざとい仕草の数々。そのような「媚び」を多分に含んだ所作ばかりが「女性らしく」在る訳は無い。いや、寧ろそのような所作は私の基準から言えばまるっきり女性らしくは無い。そういった女性を見かける度に、その女性に対し私は私の脳内で「ズべ・サセ子」、或いは「ヤリ・マン子」という渾名を付ける事にしている。これまで数多の「ズべ」を見て来たし、私自身もそういう女性と付き合った事もあるが、やはりズべはどこまでいってもズべである。ズべの魂百まで。ズべの道は一日にしてならず。なのである。

本当の女性らしさとはそういった部分とは対極にある。少なくとも私はそう思う。

「がはは」と無神経そうに笑う事でなされる照れ隠しであったり、相手に対して思ってもいない憎まれ口を叩いてしまったりであったり、自らの無力さに舌打ちしたいのを必死に堪えている姿であったり、臆病であったり、いい加減であったり。

不完全で難儀な所に「女性らしさ」は存在する。

海風に髪の毛がはためいて、白いうなじがちらりと見える。そんな光景も確かに美しいが、上に挙げたような状況下においても、女性の女性らしい可愛らしさというものは、同等かそれ以上に発揮される。悲しい事や悔しい事があった時に、握り拳の中に爪が刺さりながら、それでも笑顔を作る人をどうやって美しくなく思えようか、いや思えない(反語)。異論は認めない。あーあーあー聞こえない。私は世界で一番正しい。

程良く暴走をカマした所で。

それでは、対して冒頭に挙げた「漢(おとこ)」らしさとは何なのであろうか。

結論から言おう。我々アラサー(三十歳前後)男子の「漢(おとこ)らしさ」の価値観、そしてその基準は、その殆ど、九割近くを「週刊少年ジャンプ」という漫画の影響から形成されている。これまた異論を認めない。サンデーもマガジンも面白かったけれど、当時最も影響力を持っていたのはジャンプであった。

そこには幾多の「漢」がいた。

冴羽リョウ、キン肉スグル、孫悟空、両津勘吉、ケンシロウ、大空翼、桜木花道。まさしく枚挙に暇が無いとはこの事なのだ。つまり色んなタイプの「漢」がいた訳だ。

私が最も惹かれるのは、『花の慶次』に描かれた主人公、前田慶次郎利益である。

私の考える「漢(おとこ)らしさ」は、前田慶次から多分な影響を受けている。勿論それだけではないのだけれど。

「生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う」

「それより一献くれまいか」

「一騎駆けこそ戦の華よ」

「だが、それが良い」

数々の魅力ある台詞が彼にはあるが、その中でも取り分け好きなのは、これである。

「馬鹿だなあ。負け戦こそ面白いのよ」

この台詞にどうして震えずにいられようか、いやいられない(反語)。

勝ち戦に勝っても「つまらない」、負け戦に勝つからこそ「面白い」というこの価値観、これこそが私の考える「漢(おとこ)らしさ」の根本にある。

損得勘定の放棄、という事も出来るだろう。

こちらが勝ちそうだからこちらにつこう。こちらは最早負けに近いからここからは早々に離れよう。

もうね、バカかと。アホかと。

それは私の考える「漢(おとこ)らしさ」ではない。単純に「計算上手な賢い人」ではないか。

そういう「賢い人」がいたって構わない。構わないが、そいつとは美味い酒は呑めそうに無い。向こうも同様に思うのだろうが、つまり恐らくはそういう人間とはあまり友達にはなれそうにない。こればかりは仕方がない。

さて、ここまでが全て枕であり、ここから以下が本題なのだが、私自身が個人的に、今週末に「負け戦」を控えている。勝算は限り無くゼロに近い、ほぼ完全な「負け戦」である。

『カイジ』風に言えば

「恐らくこの勝負、運否天賦じゃない………!」

しかし、幾らそのような状況でも、戦から逃げることはままならない。

負ければ私の精神的損害たるや甚大なものになるであろう。しかし逃げ出してはならぬのだ。

慶次のこんな言葉を借りよう。

「これより我ら、修羅に入る!鬼と会えば鬼を斬り、仏と会えば仏を斬る!」

碇シンジ君のこんな言葉も借りよう。

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…逃げちゃ…ダメだっ!」

決戦の地は、確か神保町である。

あー、今週末までに核戦争とかで地球なくならないかなあ。

最後にもう一つ、碇シンジ君の言葉を借りよう。

「最低だ…オレって…」

| | コメント (6)

2009年7月 1日 (水)

完勝

完勝
タイトルの通り。

声がガラガラ、脚がプルプルですが、大変に良いストレス解消になりました。

いやあ、東出の勝ち越しタイムリー、嬉しかったなあ。

| | コメント (2)

ちょっと贅沢

ちょっと贅沢
一人だし、ちょっと贅沢して良い席取っちゃった。

めちゃ良く見える。

廣瀬スタメンだって。

末永と喜田剛見たかったなあ。

| | コメント (0)

広島伝説

♪始まりのー鐘がー鳴るー

広島伝説!

↑というのは「チャーリー」こと廣瀬純の応援歌なんですけれどもね。

気分が落ち込んで元気の無い時には、広島カープだ!という事で独りで東京ドームでの巨人ー広島戦に向かっております。

幼なじみのヤマもハーモニカの皆川さんも、当日いきなり誘ってみたけど仕事だったみたいだから付き合ってもらえず。あ、剛兄誘えば良かった。もう遅えや。

独りなのにテンションが上がりまくっていて、行きの総武線の中からビール呑んでます。

只今四連敗中の超弱小球団広島カープ。今日はどんな負けっぷりを見せてくれるのでしょうか。

つうか、チケット買えんのかな。

もうすぐ水道橋に着きます。

| | コメント (0)

マハラジャ

マハラジャ
添付写真は日本の「マハラジャ」である。

インドのヴァラナシという街に、見事に何もせずに1ヶ月以上滞在した事がある。旅行者間で言われる、いわゆる「沈没」というヤツである。

それはもう随分と昔の事にはなってしまったのだが、様々な風景は今でも私の脳裏にくっきりと焼き付いている。

メインガートとされるダーシャシュワメートから真っ直ぐ行くと、ゴウドリヤーの交差点がある。

そこにとあるドリンクショップがあって、三日に一度ほどドリンクを呑みに行っていた。

どういうドリンクだかは細かくは書かないが、そのドリンクには三段階の濃さがあった。ライト、ミディアム、ストロング、と。

最初はミディアムを呑んだが、「まだいける」との印象を抱いてストロングを呑んだ。なかなかに大変な事になった。

しかし、更にその上に「マハラジャ」というランクがあった。ネーミングセンスにはげらげらと笑った。ちょっとした勇気を出して「マハラジャ」を呑んでみたならば…

うぎゃー、わー、神様がばんばん降ってくるー。

であった。

マハラジャはスゴいので、それ以来普段愛飲している「氷結ストロング」の事を、私は「マハラジャ」と呼んでいる。

ゴウドリヤーの交差点で呑んだ「マハラジャ」には遠く及ばないのだけれど、それなりに「クる」ので重宝している。

インドに行きたい。

| | コメント (2)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »