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2009年7月11日 (土)

Abdullah Ibrahim 『SENZO(先祖)』

以前エントリーした記事で書いた、南アフリカのピアニストAbdullah Ibrahim 『SENZO(先祖)』、とりあえず十回前後じっくりと通して聴いたので簡単な感想を以下に。通勤電車内の暇潰しだ。

兎に角私はこのアルバムを聴く事を大変愉しみにしていた。京都のジャズ喫茶「ラッシュライフ」のマスターが「ダビングしてやろうか?」と、万年金欠病の私に心優しくも持ちかけてくれたが、それも丁重にお断りした。誰かの好意に甘える事無く、自らの金で、そして「然るべき時」を待って私はそれを聴きたかった。単なる我が儘に過ぎないが、それは私にとってとても大事な事だったのだ。

そして、その機会に恵まれた。

結論から言えば、完全に圧倒された。

家のオーディオセットのボリュームの目盛りを、いつもよりほんの少し大きめにして聴いた。ただ無心に、感動した。故に、これ以下の私の感想にはいささか大袈裟な表現も出るかも知れないが、それは仕方のない事だ。

Abdullah Ibrahimの音楽、それ自体は極めて深遠にして複雑なものであるが、簡単に言葉で説明する事は出来る。非常にうってつけな日本語がある。

Abdullah Ibrahimの音楽、それは「とても美しい」音楽である。

こうして単純な言葉にしてしまえば、最初に断りを入れたような彼の音楽の奥深さや複雑さは、印象としては消えてしまいかねない。しかし敢えて言いたい。「Abdullah Ibrahimの音楽は本当に美しい」と。

それは、決して表面的な美しさにのみならないからだ。だからこそ、本当に美しいと感じる。

実際に彼の音楽は「美しい」。各楽曲のメロディライン、ピアノの音色、音と音との間隔(間合い)、残響。様々な要素があるが、それらの全てが完璧なほどに「美しい」のである。

それは何故にかくも「美しい」のかを考えた時に、私は一つの結論を導く。いささか逆説的な結論ではあるのだけれど。

「そこには美しくないものもきちんと存在するからだ」

この結論である。

彼は、美しいものと穢いものとをあまり分けて考えてはいないのではないだろうか、私はそんな事をふと思った。

漫画家西原理恵子が言った「笑う事と泣く事は同じ事だ」と言っていた事も似たような例の一つとして思い出すが、本当に美しいものを創り上げて表現する人々は皆、穢いものの存在を決して隠したりしない。

私が嫌いなタイプの連中というのは、そこを隠したり、御為ごかしで表面的な「キレイなもの」で誤魔化そうとする人々だ。

そういう連中の生き方(もっと言えば「在り方」のようなもの)と、Abdullah Ibrahimの音楽は対極にある。

彼の音楽の有する、ある種の絶対的な美しさみたいなものの陰には、そういった穢いものが時折見える。

以前当ブログの中でも書いた事があるのだが、彼の若い頃の大傑作に『African piano』というレコードがある。私はそこに記録されたものは「血気盛んな若いアフリカ人の怒り」であると書いた。そしてそれに関しては未だに大筋において印象を異にしていない。「怒り」という感情を、完全なまでに音楽に昇華させた比類無き作品である。

『African piano』を聴けば端的に分かることだが、彼は陳腐で甘ったるいロマンチストなどでは決してない。センチメンタリストでもない。無論それは今回の『SENZO』からもわかる事だが。端的に、という意味では『African piano』がわかりやすい。

彼は、怒りの感情と正面から向かい合った、真摯な人間であり、表現者である。

そしてそういった経緯が現在の彼の音楽に何とも言えない滋味と奥深さとを与え、より一層美しくたらしめているのではないだろうか、私はそんな事を考えてしまうのである。

彼の怒りはどこからやってきたのだろうか。

それを考えた時に、南アフリカ共和国という国の歴史を無視して考える事はほぼ不可能に近い。彼の怒りは、日常的なレベルの怒りとは事情を明らかに異にしている。つまり、「普通の怒り」ではないのだ。

そこには民族的な誇りがある。国境という境界線を越えた、大地(それは恐らくアフリカの大地である)というレベルでのナショナリズムがある。

そこに根ざした怒りである。敢えて言えば、崇高な怒りである。

1994年に、南アフリカ共和国では全人種による大統領選挙が行われ、結果としてネルソン・マンデラが大統領として就任した。これは歴史上大変な「事件」であった。勿論、素晴らしい「事件」である。

南アフリカ共和国に巣喰っていた極端な人種差別、それは「アパルトヘイト」の名で私達の耳にも馴染みが深い。

以前当ブログにて紹介した『アマンドラ!』という映画にもその当時の南アフリカの状況は詳しく描かれているが、それは悲惨極まりない光景の連続である。

余りの悲惨さに、現実感が少々稀薄に感じられるほどだ。横行する暴力、様々な剥奪。映画の中では妊婦がトイレで殺された。路上で歌を歌う男性が頭部を銃で撃たれた。全て黒人だ。

何か遠い星で起きた出来事のようにも思える。

目を逸らすな。それは「本当に起きた事」だ。実際に人は無惨に死に、大量の血が流れた。動かし難い事実なのである。

マンデラ就任以降、制度としての人種差別は否定されたが、道徳的な意味、観念的な意味合いにおいてはそれは今も確かに存在する。

無論それは南アフリカに限った事ではない。有色人種であるバラク・オバマが合衆国の大統領に就任した事が「事件」として扱われた事を見てもそれはわかる。

優れたリーダーシップを持ち、知性と誇りと想像力を持った人間が大統領に選ばれ、それが「たまたま」有色人種であった、のではない。オバマが大統領に就任した事には、それ以上の意味が含まれていた。狂信的で排他的な前大統領に打って変わって、幾分マシな(おそらく)人間がアメリカ合衆国の大統領に就任した。それだけの話なのだが、含まれなくても良かった筈の意味が、そこには含まれていた。人種差別の問題は現在進行形の問題なのである。

理不尽で謂われ無き人種差別、その他諸々に対して怒りを露わにした若き日のAbdullah Ibrahim(当時はDollar Brandと名乗っていた)が発表した『African Piano』は、紛れも無い大傑作である。

しかし、御歳70歳を越えた今発表された今作『SENZO』、そして前作の『African Magic』。これらもまた、それに勝るとも劣らない傑作だと私は声を大にして言いたい。

そこでピアノを弾いている彼の魂は、穏やかに笑みを湛えているように、私には見える。

それは全てを諦めたような苦笑いなのだろうか。

いや、そうは思わない。それは全てを受け入れた時に現れる、どこまでもたおやかな微笑みだ。

深い愛が幾多の疵を庇うように、彼の奏でるピアノの音色は、我々の疵を庇い、過ちを赦す。

癒し、などという流行りの言葉で括られるのは毛頭御免蒙る。それは癒しなどを遥かに越えた高みにある、紛れもなく純粋な「音楽」である。

ピアノという楽器はこんなにも素晴らしい楽器なのか、音楽にはここまでも可能性が秘められているのか。

彼の新作『SENZO』を聴きながら、私はそう思って頭を垂れる。

どこまでも心地の良い圧倒的な敗北感。

全てが崩れ落ちていくような無力感。

こんな体験は、そんじょそこらのドラッグなどでは体験出来ない。

3000円弱で買えてしまう、強力過ぎる合法ドラッグ。それがこの『SENZO』だ。

先に断りを入れておけば、依存性もある。困ってしまうぐらいに。

気をつけて頂きたい。

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