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2009年6月26日 (金)

他人の言葉に色々考えさせられて

本日は休日である。

私の場合、どこかに勤めている訳でもないので、「仕事の日」というのはイコール「仕事がある日」であるし、「休みの日」というのはイコール「仕事が無い日」である。仕事はあるけれど今日は休み、そんな日は無い。

まあそれでもそこそこやっているのだから、感謝しなくてはならない。こんな風に音楽で飯が食えるなんて、東京に戻ってきたばかりの頃はそれほどリアルには想像していなかった。目の前の事で精一杯だったから、自らの将来像をリアルに想像する事なんて出来なかった。それでも何とかなっている。不思議なものだ。ここからどうなるのかもわからない。

先日、音楽家としては大先輩にあたる、とあるクラシックの声楽家の方と酒の席を共にする機会に恵まれた。色々と仕事の打ち合わせもあったのだが、そんなものはそこそこにしてしまい、音楽談義に花が咲いた。

音楽家として重要な性格的要素って何ですか、と私が尋ねると、彼女は二つの条件を教えてくれた。

しつこくあると同時に楽天的である事。

すごくその意見が私の腑に落ちた。何だか、漠然としたイメージとして頭の中にあった事を、簡潔な短いフレーズで纏めてもらったような、そんな爽快感があった。

つまりこういう事だ。

練習という行為は、そもそも地味で孤独な作業である。わからない事を少しずつわかるようにしていく作業だ。そこには絶対的な「しつこさ」が必要となる。諦めてはならない。様々な可能性を試してみて、「本当の考え」と「うその考え」を分けていく。それが練習という作業の本質である。

それと同時に、そのしつこさ、言い換えればある種のネガティブさを人前に持ち込まないという楽天的な感覚が求められる。そういった話だ。

練習の発表の場が本番なのではない。本番はあくまで本番としてある。そこで、練習の場でしつこくしつこくやり続けた事をそのままに出そうとすれば、聴衆はやはりネガティブなイメージをそこから受け取ってしまう、そういう話だった。

そこまでの練習、それはそれ。ここから先の本番はまた別の話。そういった意味での開き直りとしての「楽天的感覚」である。

どちらも共になくてはならないものだ、と、その人はそう言った。どちらが欠けてもいけない、と。

そうして二人してごぶごぶとどぶろくを呑んだ。アレはクるな、大分。ジュースのようにがぶがぶイってしまった。

私はその日から随分と、「しつこくあると同時に楽天的である事」について考えている。考えれば考えるほどになかなか面白い問題だ。

昨夜、日付も変わった深夜、友人からメールが来た。

失くしていた携帯電話が見つかった、とかいう話だったのだが、その後メールのやり取り。眠れない深夜の暇潰しに付き合ってもらう。

友人から来たメールの中で印象的だったのは、「今やっている事の大半は、学生の時に経験した、当時は無駄っぽかった(と思っていた)事がベースになっているかもしれない」という事だった。

確かにそうかも知れない。今やっている事は、それがどこまでの充実感を伴っているかどうかは別にして、良かれ悪かれ何年後かの自分を形造る。

私は、いつか、「とても非常識な音楽」をしたいなという気持ちがどこかにある。そしてその為には、まずは徹底して「常識」を学ばなくてはいけない事もわかっている。それを学ぶのが、恐らく「今」なんだろう。

ここ最近、色々と考えさせられた他人からの言葉を二つ紹介した。

ちなみに言ってくれたお二方は、どちらもなかなかに美人である。

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