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2009年6月22日 (月)

『1Q84』

村上春樹『1Q84』、読了。

上下巻併せて凡そ1000ページ弱の量を4~5日で読んだのだから、それなりに夢中になって読んでいた事は自分でもわかる。私は元来そんなに読むのは速い方ではないから。

それなりに夢中になって読んでいたにも関わらず、釈然としない読後感が残った。

「つまらなかった」という訳ではない。けれど、私はこの作品を手放しに「傑作だ」とは言えないような気がしている。

村上春樹。翻訳作品などを別にすれば、私は彼の作品を殆ど読んでいる。作品の大部分を読もうと思う作家は(現役の作家で、という意味だが)、さほど多くない。つまり、新刊が出た時に「あ、買おうかな」という気になる作家は。今ざっと思い出してみても、それは片手で足りた。そういう意味では私は村上春樹の作品群を「好き」なのだろう、きっと。

絶対的に受け入れられない点もいくつかある。彼の小道具の使い方だ。

「とびきりドライなマティーニ」だとか、「アルデンテに茹で上げられたスパゲティ」だとか、「皺一つ無いアルマーニのスーツ」だとか、そういったものは私の日常には含まれていない。勿論、バーに行って酒を呑んだ事が無い訳ではないので、「とびきりドライなマティーニ」を完全に知らない訳ではないが、それは日常生活の中に出てくる小道具ではない。そういった小道具を見るにつけ、「けっ」と言う自分がいる。何故、焼酎の「ビッグマン」や「大五郎」がハルキ小説に登場しないのか、いささか不思議だ。

しかし、そういった細部の問題に拘らなければ、私は恐らく村上春樹の小説を愛している。いや、いた。

ストーリーテラーとしての彼は、やはり稀有な才能を持っていると賞賛せざるをえない。

彼が得意とする物語の形式の一つに、「パラレルストーリー」という形式がある。二つの物語を並行的に、交互に進行させていく。そして、全く無関係の所にあったように見えた二つの物語が、次第に密接に繋がっていくという形式だ。

代表作である『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は完全にこの形を採っているし、もう一つの長編、『ねじまき鳥クロニクル』もこの形式に含まれると呼んで差し支えないだろう。

「二つの世界」と書いたが、これに関して村上春樹はしばしば「こちら側とあちら側」という表現を用いる。私の解釈としては、これは「現実世界と死後の世界(あるいは非現実の世界)」に関する隠喩の一つなのではないだろうか、と考えている。

嘗て『ノルウェイの森』という作品の中で、村上春樹は登場人物に「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」と語らせた事があるが、この姿勢はある意味では今なお以って一貫して描き続けられている一つのモチーフであるかも知れない、私はそれを感じた。

「死と生」というのもまた、一つの「パラレルワールド」である。そしてそれらを区別して論じるのではなく、並行して、そして同時進行させて描く事で、物語はある特殊なリアリティを増していく、彼はどこかでそう考えているのかも知れない。

しかし、そうなった時に幾つかの疑問点が私の中に残った。

非現実の世界(彼の言葉を借りるならば「あちら側の世界」)を描写する際に、徹底してリアリスティックな描写になるのであれば、それはそれで納得もいくが、ここ最近の彼は、いささかながらオカルティックになり過ぎているのではないか、という批判的疑問だ。

今作『1Q84』においては、「こちら側」の世界を「1984年」とし、「あちら側」の世界を「1Q84年」とした。その違いを表す一つの要素は「月が一つしか出ていない世界」と「月が二つ出ている世界」である。

例えばそれをフランツ・カフカ的に「そこにただあるもの」として描写する、つまりはアレゴリカルな形を採って描いていくのであれば、「それはそれ」として読める。(余談だが、私はフランツ・カフカの熱心なファンなのだ)オカルティックになる訳ではなく、あくまで「表層化した現実の一形態」という描き方であれば、非常に腑に落ちる。パブロ・ピカソの「キュビズム(あらゆる対象を曲線だけではなく直線で捉える見方、一点透視図法の否定)」のように、「そう見える事もある」と納得する事が出来る。

しかし、今作においては、そこに必要以上の付帯状況的説明があり過ぎた、と私は感じている。

『ねじまき鳥クロニクル』以降、村上春樹は現実世界で起きた象徴的な事件を作品の中に取り込む事に意欲的だ。

『ねじまき鳥クロニクル』においては、1939年の「ノモンハン事件」を作品の中の重要な要素として取り入れた。これに関しては、現代文学の一つの極致として、私は最大の賛辞を送りたい。非常に野心的な試みであったと思うし、それはかなり洗練されたレベルで作品の中で結実している、と思う。

その後の『神の子供たちはみな踊る』では阪神大震災をモチーフとしたし、今回の『1Q84』ではオウム真理教の一連の事件や、宗教団体としての「ヤマギシ会」、「エホバの証人」、そして恐らくは「連合赤軍」も一つのモチーフとなっている。

モチーフの対象が「宗教」となった事にも関わりはあるのかも知れないが、作品の中で「超現実的な力」が描かれる事が少なくない。

正直に言ってしまえば、そこに少々うんざりとした。読者である私は。

上下巻、Book1とBook2という形で現在刊行されている。そこから更に続刊が刊行される可能性も少しはあるであろうが、現在の所はBook2で物語は混沌とした中でではあるが、ひとまずの幕を閉じている。

Book1における一連の「問題提起」、ここにおいては私も随分と夢中になって読み進めた。個人的には主人公の一人である「青豆」という人物の人物描写に心を惹かれた。登場人物の内の何人かが魅力的に生き生きと描かれるというのは、やはり優れた小説の特徴の一つだと思う。

しかしBook2における「問題解決(実際、作者には問題を解決させようとする意図はなかったのかも知れない。ここでの便宜的な呼び方だ)」において、前述したようにオカルティックな要素が多分に介在した為に、私は少々読んでいてしんどかった。

あなたは「こちら側」と「あちら側」をそんなに明確に区別する作家だったっけか?

私は読みながらそんな事を考えた。そして、区別する際にオカルト的な要素を用いてそんなに簡単に解決させていたっけか?と。

何もハッピーエンドやクローズエンド(物語がきちんと幕を閉じて終わる事)ばかりを望んでいる訳ではない。寧ろ個人的な趣味としては、物語は混沌の中で何の解決も無く終わるような作品の方が好きだ。(それは例えばベケットの『Waiting for Godot』であったり)

だからこそ、様々な現象を無理やり関連付けて収束へ向かわせなくても良かったのではないか、私はそんな事を考える。

嘗て中上健次という作家がいた。彼は彼で一貫して紀州の「路地」を舞台とした「サーガ」を描き続けた。作家としての一生を、ある一つのテーマに捧げた作家であった。私が個人的に彼の作品が好きな贔屓を別にしても、それは大変なる偉業であったと思う。

村上春樹という作家も、どうやらここ10年ほどの作品を読むにつけ、彼は自らの作家人生を「こちら側とあちら側の世界」を描き続ける事に照準を定めたのかな、という印象がある。

ならば、だからこそ、日本を代表する実力を有する彼だからこそ、容易なオカルト小説家などに堕してはほしくない。

彼がやろうとしている事は、恐らく選ばれた人間にしか出来ない事なのだから。

随分批判的な言辞を偉そうに並べ立ててしまったけれど、彼の作品はやはり好きだ。今回の『1Q84』はたまたましっくり来なかった点もいくつかあった、というだけで。

もう一度読んでみれば印象も変わるかも知れない。時間を空けて、もう一度読み返してみようと思う。

そして、出来ればこの作品を読んだ方の、他の感想も聞いてみたいと思う。

読んだ方、良かったらコメント下さい。

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