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2009年6月 4日 (木)

煙か土か食い物

舞城王太郎『煙か土か食い物』、読了。

多少荒唐無稽な所もあるが、力づくで読ませる文章のテンションの高さにやられる。面白かった。

「サーガ(Saga)」と呼ばれる小説の形態に、私は或る一時期から非常に強い興味を持っている。「サーガ」とは、そもそも12〜14世紀ごろに最盛期を迎えた叙事文学を指す。神話・伝説・歴史などの口承記録との事だが、現代では転じて「一族の歴史を描いた叙情的小説」を指す。

ウィリアム・フォークナーという作家は、「ヨクナパトーファ」という架空の地を作り上げ、そこを舞台に幾つもの物語を紡ぎ上げた。場所という容器は、登場人物を強固に縛り付ける。逸脱は許されない。そして、そこに幾つもの「逸脱した物語」が生まれ出す。彼の作品群が「ヨクナパトーファ・サーガ」などと呼ばれるのもそのせいだ。

日本人作家に目を向ければ、中上健次という作家は紀州熊野を舞台に、一種の「サーガ」を描ききった。それはフォークナーと同様に、濃密であり重厚で、そしてどこかしら陰鬱でもある。

人間の意識の底に巣喰う劣悪な差別意識や自意識を、一捻りも二捻りもした表現で描き出す。重層的かつ多面的なその文章達は、何かどこかで「理解される事」を拒んでいるかのようにも見えて、私はいつも途方に暮れる。幾つもの「不連続的な断片」に見えた物語達が、幾重にも重なり合っていく様を描くのは、やはり作家の底力を要求される。そういった意味では、フォークナーや中上はこれ以上ない程の力量を持った作家達であった。

『煙か土か食い物』、この作品は言ってしまえばそこまで重厚な作品ではない。もっとライトでポップだ。ミステリとしての一面もあり、娯楽作品としても読める。

「サーガ」という言葉を当てはめられるように、奈津川という一族の「血の呪縛」が作品を覆う。大袈裟な言い方になるが、それは生まれながらに背負った原罪のようなものと、各登場人物が向き合う過程を描いた作品だとも言える。悪魔的な丸雄と二郎。それに翻弄される奈津川の人間達。復讐が復讐を呼び、血が血を汚す。皆がそこから目を背ける事を許されない。福井県の西暁という片田舎の街を「容器」として、不連続な断片達が連続性を持ち始める。終わらない奈津川サーガ。なかなかに読み応えはあった。

久しぶりに中上健次が読みたくなった。読んでると、その「重さ」にゲロ吐きそうになるんだけど。

ちなみにフォークナーは難しすぎて眠くなる。勘弁してほしい。

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