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2009年6月

2009年6月30日 (火)

ファントム

私はオペラ座の怪人。

思いの外醜いだろう?

この禍々しき化け物は

地獄の業火に焼かれながら

それでも天国に憧れる。

(ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』)

という台詞がふと頭に浮かんだ。もうすぐ朝の7時だ。俺、頭大丈夫か?

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もうとっくに終わっている

まずいね、昼に寝過ぎたせいで全く眠くない。只今朝の五時。目は爛々と冴えている。

暇つぶしに日記を一つ書いたけれど、あまりにドロドロし過ぎていたのでボツにした。「俺という人間は大層な屑人間で、どうやらそれは死ぬまで直らないっぽいから、せめて人前ではきちんと振る舞えるようにしたい」という内容だったのだが、表現の仕方として不必要にシリアスになりすぎて、自己憐憫の香りがプンプン匂いやがったので問答無用でボツにした。もう少し普通に書いて良いはずだ。

色々と失敗を重ねて、深い沈思にあるように見せた所で、頭の片隅では「ラーメン食いてえな、何となく」と全く無関係な事を考えられるぐらいに私は無神経で思慮に欠ける人間である。あまり深刻ぶっても仕方がない。ハムレットには、決してなれない。

「自業自得」という事を考えると、人から嫌われたり好かれなかったりする事には慣れていたつもりだが、やはりあまり気分の良いものではない。なるべくならば人からは好かれたいもの。大変難しい事なのだけれど。

とりあえず、色んな事がしっかりと終わったのは良かった事だ。

少しずつ私の周りから人が離れていって、段々惨めに孤独になるのかなと思ったのだけれど、案外そうでもなさそうだ。

大丈夫だ。何とかなる。

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2009年6月29日 (月)

一回休み

体調を崩して布団の中で一日を過ごす。

双六で言えば「一回休み」。

ウチの双六は残念な事に「一回休み」と「振り出しに戻る」のマスしかない。今は振り出しに戻った状態で一回休み。どうにもならんよ。

「あがり」の所には「永遠に休み」って書いてある。

さて、もっかい寝るかな。

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劇場

劇場が開幕したみたいだ。

早く幕が下りてほしい。

朗々と台詞を読み上げて、一体何なのだろう。

舞台も随分大袈裟だけれど。

役者と脚本が最低だ。

そんな舞台は燃えて無くなれば良い。

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2009年6月27日 (土)

新宿駅ホームから

新宿駅ホームから
ショートカットにはショートカットの正しさがある。

異論は認めない。

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燃えよ東洋カープ

土日は野球はデーゲームが多いので、仕事の教室移動の合間に携帯電話から広島カープのサイトにアクセスして試合経過を見ているのだけれど。

大竹寛君!君は少しホームランを打たれすぎと違うか!?

そもそも打線もさあ、もうちょい点取ってやろうぜ。

昨日はテレビで見ていたけれど、守護神永川の悪夢の炎上も見てしまいました。

♪一番ソヨギが塁に出て

♪二番ヒガシデヒットエンドラン

♪三番アカマツタイムリー

♪四番クリハラホームラン

とはいかないもんかねえ。これ、元ネタは『燃えよドラゴンズ』だけどさ。

ドラゴンズつええな、やっぱり。

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2009年6月26日 (金)

真空と無音

真空と無音
暇で暇でしょうがなかったので、独りで近所の立ち呑み屋へ。冷や奴と肉豆腐をつまみにレモンハイをやる。今気付いたが、どれだけ豆腐が好きなのだ。豆腐祭りではないか。いやまあ好きだけどさ。添付写真のような独り宴会(HE)でございやす。

独りで寂しいのはわかりきっていたので、寂しさを紛らわす小道具の持参は忘れない。そういうところは抜かりない。本日は文庫本だ。

以前ざっと読んだ本なのだが、タイトルは『ゼロからわかるアインシュタインの発見』。つまり、私のようなアンポンタンの為に、わかりやすく物理学を説明した本だ。帯には「数式なしの超入門」とある。当たり前じゃねえか、数式がある時点で読まねえよ。

今現在は「慣性質量と重力質量は等しい」という話と、「重力効果と加速効果は区別できない」という話について、無い頭を振り絞って必死に理解しようとしている最中であるが、その際に、真空状態についての記述を見ながら、或る当たり前の事実に愕然とした。

「真空状態は無音である」

この事実である。

つまり、月面には完全な静寂と沈黙が存在しうるのだ。

そもそも音という現象は空気の振動である。空気を媒介として伝わるものである。

その媒介たる空気が存在しない宇宙空間や月面上においては、音というものがそもそも存在しない。

以上の話は当たり前の話であるのだが、それでも私の心を強く震えさせる。

完全なる静寂、それはある意味では「完全な音楽」と言い換える事も出来る。私は未だに完全なる静寂を聴いた事はないが、それは恐らく私を強く揺さぶる「音楽」であろう事は容易に想像はつく。

もう一つ、聴いてみたい音が「完全なる静寂」だとすれば、見てみたい光景は「完全なる闇」である。

恐らくそれは、「死後の世界」である。

そういう事を考えているせいか、最近は以前に比べて「死ぬ事」への恐怖が薄い。あんなに怖かった「死」は、今現在、穏やかに私の傍らに在る。勿論、積極的にそこへ行こうとは思わないのだが。

自我が少しずつ私から剥がれ落ちていき、私の世界を静寂と暗闇とが包んでいく。それはある意味では至高の癒しかも知れない。まだ一度も死んだ事が無いので全ては想像の域を超えないが、仮に幸運にもそこに「実際的な痛み」が伴わないのであれば、それはまさしく「天にも昇るような」感覚なのではないだろうか。

つまり、仮に「完全なる静寂」を聴けた場合には、「死の世界」を垣間見るような経験になるのではないだろうか、と私は今、考えている。

経験してみたい。

これは「死への希求」ではない。単純な知的好奇心であるが、その世界を、私は見てみたい。

「完全なる静寂」、そんなものを、実際的な「音」を用いて音楽として具現化してみたいという欲求もある。

立ち呑み屋でレモンハイを舐めながら、そんな事を思った。

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他人の言葉に色々考えさせられて

本日は休日である。

私の場合、どこかに勤めている訳でもないので、「仕事の日」というのはイコール「仕事がある日」であるし、「休みの日」というのはイコール「仕事が無い日」である。仕事はあるけれど今日は休み、そんな日は無い。

まあそれでもそこそこやっているのだから、感謝しなくてはならない。こんな風に音楽で飯が食えるなんて、東京に戻ってきたばかりの頃はそれほどリアルには想像していなかった。目の前の事で精一杯だったから、自らの将来像をリアルに想像する事なんて出来なかった。それでも何とかなっている。不思議なものだ。ここからどうなるのかもわからない。

先日、音楽家としては大先輩にあたる、とあるクラシックの声楽家の方と酒の席を共にする機会に恵まれた。色々と仕事の打ち合わせもあったのだが、そんなものはそこそこにしてしまい、音楽談義に花が咲いた。

音楽家として重要な性格的要素って何ですか、と私が尋ねると、彼女は二つの条件を教えてくれた。

しつこくあると同時に楽天的である事。

すごくその意見が私の腑に落ちた。何だか、漠然としたイメージとして頭の中にあった事を、簡潔な短いフレーズで纏めてもらったような、そんな爽快感があった。

つまりこういう事だ。

練習という行為は、そもそも地味で孤独な作業である。わからない事を少しずつわかるようにしていく作業だ。そこには絶対的な「しつこさ」が必要となる。諦めてはならない。様々な可能性を試してみて、「本当の考え」と「うその考え」を分けていく。それが練習という作業の本質である。

それと同時に、そのしつこさ、言い換えればある種のネガティブさを人前に持ち込まないという楽天的な感覚が求められる。そういった話だ。

練習の発表の場が本番なのではない。本番はあくまで本番としてある。そこで、練習の場でしつこくしつこくやり続けた事をそのままに出そうとすれば、聴衆はやはりネガティブなイメージをそこから受け取ってしまう、そういう話だった。

そこまでの練習、それはそれ。ここから先の本番はまた別の話。そういった意味での開き直りとしての「楽天的感覚」である。

どちらも共になくてはならないものだ、と、その人はそう言った。どちらが欠けてもいけない、と。

そうして二人してごぶごぶとどぶろくを呑んだ。アレはクるな、大分。ジュースのようにがぶがぶイってしまった。

私はその日から随分と、「しつこくあると同時に楽天的である事」について考えている。考えれば考えるほどになかなか面白い問題だ。

昨夜、日付も変わった深夜、友人からメールが来た。

失くしていた携帯電話が見つかった、とかいう話だったのだが、その後メールのやり取り。眠れない深夜の暇潰しに付き合ってもらう。

友人から来たメールの中で印象的だったのは、「今やっている事の大半は、学生の時に経験した、当時は無駄っぽかった(と思っていた)事がベースになっているかもしれない」という事だった。

確かにそうかも知れない。今やっている事は、それがどこまでの充実感を伴っているかどうかは別にして、良かれ悪かれ何年後かの自分を形造る。

私は、いつか、「とても非常識な音楽」をしたいなという気持ちがどこかにある。そしてその為には、まずは徹底して「常識」を学ばなくてはいけない事もわかっている。それを学ぶのが、恐らく「今」なんだろう。

ここ最近、色々と考えさせられた他人からの言葉を二つ紹介した。

ちなみに言ってくれたお二方は、どちらもなかなかに美人である。

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サッカーの結果

サッカー、アメリカがスペインに勝った!アメリカすげえ!

アメリカ合衆国は大嫌いだけど、サッカーのアメリカ代表は今日はすごかった。よく守ってた。

あ、でもアメリカよりも嫌いなのはアメリカにかぶれた日本人だな。結構たくさんいるけどさ。

まあ、アジアかぶれのぼくも似たようなもんか。

何でも良いや。

サッカーのアメリカ代表が、すげかった。

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スペインのサッカー

ラジオ聞きながら、テレビでサッカー見てます、音声消して。

スペインとアメリカの試合を見てるんだけれど、スペインのサッカー、スゴいな。日本代表と比べて見た時に、全然違う。

この場面では日本代表だったらスペインが今採ったような選択肢は絶対採らない(ていうか採れない)、っていうシーンがたくさんあります。

やっぱり世界との差はまだまだあるんだな。スペインすげえな。

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2009年6月25日 (木)

ケーサーをミーノーしてツンパ姿になると・・・

本日の日記はズージャ用語(業界用語)を駆使して書きます。

業界人ぶりたい訳ではありません。普通に書くとあまりにも下品で汚すぎるからです。

ゴイスーなリーゲーに悩まされている。昨晩、部屋でテッペンあたりから独りでケーサー(キーウイッス)をミーノーし過ぎた事と、キープーセンをつけっぱなしにしてツンパ一丁で寝てしまった事が原因かと考えられる。

昼過ぎに、ナラオーの気配を感じ、いっちょ元気良く!と意気込んだが、私のナルアーが「バイヤーだよ、イレトに行ってしなよ」と言ったような気がしたので、イレトに駆け込み一息つけば、ナルアーの予感は的中。ナルアーからターウォーに次ぐターウォー。「これ何ていう腸内洗浄?」と自分でも思うほどだ。

そこから先は大変だ。ナラオーの気配を感じれば、それは確実にナラオーではなくリーゲーの予兆なのだ。私は一時間に大体G(ゲー)回~A(アー)回、イレトに駆け込みターウォーを噴出するハメとなった。

もはや私はリーゲーに関してはトーシロではなく、完全にロープーの域である。

リーゲーに関して何かわからない事があれば、迷わず私に聞けば良い。

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テレ東のVシネ

夜中にテレ東でやっていた「恨み屋本舗」というVシネ全開の映画を見ていたら、こないだ読んだ村上春樹の『1Q84』とかなりかぶる部分があった。

まさか、Vシネからパクった?

んなわきゃねえか。

佐野史郎が教祖役をやってた。良い役者だなあ。

みんな狂っちゃえば良いんだ。

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2009年6月24日 (水)

品川から

仕方がないからとぼとぼ歩き始めた。

品川から。

多分小岩までは鬼ほど遠い。

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山手線マジック

ぎゃー、起きたら品川だー。

どうしよう、って始発まで待つしかない。

もう一度自分に対して声高に言って良いかな…?

「お願い!死んでええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!」

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2009年6月23日 (火)

迷惑の代償

私は大変思慮深く、様々な物事に造詣が深いので、皆様に世の理(ことわり)を一つ教授させて頂こう。

「迷惑メール」について、である。

「迷惑メール」とは何故に「迷惑メール」と呼ばれるか、である。

以下のようなケースを考えてみよう。あくまでサンプルケースであり、実際に起きたケースではない。

もう一度強く言っておく。想像上のケースだ。

例えば。

深夜の二時、伊集院光のラジオを何となく鳴らしながら、『ゼロからわかるアインシュタイン』なんて本を読みつつ、「下町のナポレオン」こと焼酎「いいちこ」の水割りを呑んでいるという光景。日本全国民の内の38%の方々が経験した事のある光景であろう。極めて凡庸な場面である。

そこに散りばめられた3つのファクター。つまり、「アインシュタイン」、「伊集院光」、「いいちこ」。これら3つは「暇」というキーワードによって一箇所に束ねられて共にある。

何故アインシュタインの本を読んでいたのか?−暇だから。

何故伊集院光のラジオを聴いていたのか?−暇だから。

何故いいちこを舐めていたのか?−暇だから。

という事である。人生がそもそも暇つぶしであるという無慈悲な事実からは全力で目を背けた上で以下の論を進めていきたい。

そんな「暇で暇を煮染めたような瞬間」に、私の携帯電話(私は叶姉妹と比肩するほどのスーパーセレブなので、携帯電話を持っている)がブイーンと震えたら。それを想像して頂きたい。

陳腐を承知で言えば、携帯電話以上に私の心が震えるというものだ!

誰であろうか!?

こんな時間に私に何の用事であろうか!?

「象徴と記号の違い」について尋ねられるのであろうか!?

「クラムボンって何だと思う?」などと尋ねられるのであろうか!?

そこまで期待しているのに、「ヌレヌレの人妻が云々」である。

「不労所得が云々」である。

これを「迷惑」と呼ばずして何と呼ぼうか。怒りを覚えずにいられようか。

声を大にして言わせて頂きたい。

「糞業者、死ね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

私をガッカリさせた罪は重い。死をもって詫びよ。

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2009年6月22日 (月)

『1Q84』

村上春樹『1Q84』、読了。

上下巻併せて凡そ1000ページ弱の量を4~5日で読んだのだから、それなりに夢中になって読んでいた事は自分でもわかる。私は元来そんなに読むのは速い方ではないから。

それなりに夢中になって読んでいたにも関わらず、釈然としない読後感が残った。

「つまらなかった」という訳ではない。けれど、私はこの作品を手放しに「傑作だ」とは言えないような気がしている。

村上春樹。翻訳作品などを別にすれば、私は彼の作品を殆ど読んでいる。作品の大部分を読もうと思う作家は(現役の作家で、という意味だが)、さほど多くない。つまり、新刊が出た時に「あ、買おうかな」という気になる作家は。今ざっと思い出してみても、それは片手で足りた。そういう意味では私は村上春樹の作品群を「好き」なのだろう、きっと。

絶対的に受け入れられない点もいくつかある。彼の小道具の使い方だ。

「とびきりドライなマティーニ」だとか、「アルデンテに茹で上げられたスパゲティ」だとか、「皺一つ無いアルマーニのスーツ」だとか、そういったものは私の日常には含まれていない。勿論、バーに行って酒を呑んだ事が無い訳ではないので、「とびきりドライなマティーニ」を完全に知らない訳ではないが、それは日常生活の中に出てくる小道具ではない。そういった小道具を見るにつけ、「けっ」と言う自分がいる。何故、焼酎の「ビッグマン」や「大五郎」がハルキ小説に登場しないのか、いささか不思議だ。

しかし、そういった細部の問題に拘らなければ、私は恐らく村上春樹の小説を愛している。いや、いた。

ストーリーテラーとしての彼は、やはり稀有な才能を持っていると賞賛せざるをえない。

彼が得意とする物語の形式の一つに、「パラレルストーリー」という形式がある。二つの物語を並行的に、交互に進行させていく。そして、全く無関係の所にあったように見えた二つの物語が、次第に密接に繋がっていくという形式だ。

代表作である『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は完全にこの形を採っているし、もう一つの長編、『ねじまき鳥クロニクル』もこの形式に含まれると呼んで差し支えないだろう。

「二つの世界」と書いたが、これに関して村上春樹はしばしば「こちら側とあちら側」という表現を用いる。私の解釈としては、これは「現実世界と死後の世界(あるいは非現実の世界)」に関する隠喩の一つなのではないだろうか、と考えている。

嘗て『ノルウェイの森』という作品の中で、村上春樹は登場人物に「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」と語らせた事があるが、この姿勢はある意味では今なお以って一貫して描き続けられている一つのモチーフであるかも知れない、私はそれを感じた。

「死と生」というのもまた、一つの「パラレルワールド」である。そしてそれらを区別して論じるのではなく、並行して、そして同時進行させて描く事で、物語はある特殊なリアリティを増していく、彼はどこかでそう考えているのかも知れない。

しかし、そうなった時に幾つかの疑問点が私の中に残った。

非現実の世界(彼の言葉を借りるならば「あちら側の世界」)を描写する際に、徹底してリアリスティックな描写になるのであれば、それはそれで納得もいくが、ここ最近の彼は、いささかながらオカルティックになり過ぎているのではないか、という批判的疑問だ。

今作『1Q84』においては、「こちら側」の世界を「1984年」とし、「あちら側」の世界を「1Q84年」とした。その違いを表す一つの要素は「月が一つしか出ていない世界」と「月が二つ出ている世界」である。

例えばそれをフランツ・カフカ的に「そこにただあるもの」として描写する、つまりはアレゴリカルな形を採って描いていくのであれば、「それはそれ」として読める。(余談だが、私はフランツ・カフカの熱心なファンなのだ)オカルティックになる訳ではなく、あくまで「表層化した現実の一形態」という描き方であれば、非常に腑に落ちる。パブロ・ピカソの「キュビズム(あらゆる対象を曲線だけではなく直線で捉える見方、一点透視図法の否定)」のように、「そう見える事もある」と納得する事が出来る。

しかし、今作においては、そこに必要以上の付帯状況的説明があり過ぎた、と私は感じている。

『ねじまき鳥クロニクル』以降、村上春樹は現実世界で起きた象徴的な事件を作品の中に取り込む事に意欲的だ。

『ねじまき鳥クロニクル』においては、1939年の「ノモンハン事件」を作品の中の重要な要素として取り入れた。これに関しては、現代文学の一つの極致として、私は最大の賛辞を送りたい。非常に野心的な試みであったと思うし、それはかなり洗練されたレベルで作品の中で結実している、と思う。

その後の『神の子供たちはみな踊る』では阪神大震災をモチーフとしたし、今回の『1Q84』ではオウム真理教の一連の事件や、宗教団体としての「ヤマギシ会」、「エホバの証人」、そして恐らくは「連合赤軍」も一つのモチーフとなっている。

モチーフの対象が「宗教」となった事にも関わりはあるのかも知れないが、作品の中で「超現実的な力」が描かれる事が少なくない。

正直に言ってしまえば、そこに少々うんざりとした。読者である私は。

上下巻、Book1とBook2という形で現在刊行されている。そこから更に続刊が刊行される可能性も少しはあるであろうが、現在の所はBook2で物語は混沌とした中でではあるが、ひとまずの幕を閉じている。

Book1における一連の「問題提起」、ここにおいては私も随分と夢中になって読み進めた。個人的には主人公の一人である「青豆」という人物の人物描写に心を惹かれた。登場人物の内の何人かが魅力的に生き生きと描かれるというのは、やはり優れた小説の特徴の一つだと思う。

しかしBook2における「問題解決(実際、作者には問題を解決させようとする意図はなかったのかも知れない。ここでの便宜的な呼び方だ)」において、前述したようにオカルティックな要素が多分に介在した為に、私は少々読んでいてしんどかった。

あなたは「こちら側」と「あちら側」をそんなに明確に区別する作家だったっけか?

私は読みながらそんな事を考えた。そして、区別する際にオカルト的な要素を用いてそんなに簡単に解決させていたっけか?と。

何もハッピーエンドやクローズエンド(物語がきちんと幕を閉じて終わる事)ばかりを望んでいる訳ではない。寧ろ個人的な趣味としては、物語は混沌の中で何の解決も無く終わるような作品の方が好きだ。(それは例えばベケットの『Waiting for Godot』であったり)

だからこそ、様々な現象を無理やり関連付けて収束へ向かわせなくても良かったのではないか、私はそんな事を考える。

嘗て中上健次という作家がいた。彼は彼で一貫して紀州の「路地」を舞台とした「サーガ」を描き続けた。作家としての一生を、ある一つのテーマに捧げた作家であった。私が個人的に彼の作品が好きな贔屓を別にしても、それは大変なる偉業であったと思う。

村上春樹という作家も、どうやらここ10年ほどの作品を読むにつけ、彼は自らの作家人生を「こちら側とあちら側の世界」を描き続ける事に照準を定めたのかな、という印象がある。

ならば、だからこそ、日本を代表する実力を有する彼だからこそ、容易なオカルト小説家などに堕してはほしくない。

彼がやろうとしている事は、恐らく選ばれた人間にしか出来ない事なのだから。

随分批判的な言辞を偉そうに並べ立ててしまったけれど、彼の作品はやはり好きだ。今回の『1Q84』はたまたましっくり来なかった点もいくつかあった、というだけで。

もう一度読んでみれば印象も変わるかも知れない。時間を空けて、もう一度読み返してみようと思う。

そして、出来ればこの作品を読んだ方の、他の感想も聞いてみたいと思う。

読んだ方、良かったらコメント下さい。

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2009年6月21日 (日)

梅雨とインド

梅雨とインド
小雨が降ってじめっとして、何とも言えない倦怠感が街の空気を包む時、私は殆ど反射的にインドの街の夕暮れを思い出した。

明日はどこへ行くのだろう。

毎日、そんな事を考えていたら、知らない内に今日は昨日になっていた。

バラ売りの煙草。

新聞紙に包まれたビール瓶。

ガンジャの煙の甘い匂い。

牛が歩いて、私は糞を踏む。

まとわりつく汗がべとついていたけれど、そんな事は全く気にならなかった。

千駄ヶ谷駅から見える新宿御苑は、デリーの街の金持ちの家を連想させた。

梅雨が好きだ。

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2009年6月20日 (土)

煙草の空き箱墓場

太宰治の墓参りに行ってみた。大変面白かったのだが(墓参りが「面白い」というのも可笑しな話だが、実際面白いのだから仕方が無い)、これについて書くと、恐らく不謹慎発言のオンパレードになるので書かない。極めて大人な私である。

代わりに、帰りに見た不思議な光景を。

何故か、煙草の空き箱だけが積まれている所があった。

何故だかはわからない。

誰かが最初にそこに何の気なしに煙草の空き箱を置き、それに連鎖するような形で違う誰かが続いたのだろうか。わからない。兎に角、煙草の空き箱だけが五つばかり、重ねてあった。それは例えば煙草の空き箱の墓場みたいに。

私がポケットを探ると、煙草の空き箱が、あった。普段ならば直ぐに捨てるのに、その日に限っては、あった。まるで、その墓場に葬られる事を待ち望んでいたみたいだった。

だから私は躊躇うこと無しに、そこに煙草の空き箱を積んだ。

私が空き箱を一つ増やしたお陰で、そこは更に異様な様相を呈した。私はとても愉快になった。

暫く、その事ばかりを考えていた。

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2009年6月19日 (金)

THE 二日酔い

ちょっと二日酔い、ではなくて、強烈に二日酔い。二日酔いというものの見本なんじゃないかと思うくらい。

ぎゃー、頭が痛いよー、気持ちが悪いよー、胃がおかしいよー。

はっきり言うと、「ウコンの力」はもう効かない。このレベルになると。

人生において、最も「あー死にてー」って思うのは恐らく二日酔いの時だ。

迎え酒にビールを呑むが、身体がなかなか受け付けようとしたがらない。あーもう。

当然だけれど、携帯のメール送受信ボックス並びに発信履歴の欄も、酷い状態に。

酔っ払って女子に支離滅裂メールを送りつける癖は治っていない。死んでほしい。ホントに死んでほしい。

「ザ・ぱんち」というお笑いコンビのツッコミに「お願い死んで〜」というのがあったが、私にも浴びせてもらいたい。

恥の多い生涯を送ってきました。

今日は太宰の「桜桃忌」です。

ちょっくら三鷹に行ってこようと思います。

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2009年6月18日 (木)

6.18 上野アリエス

本日ですが、上野アリエスでライブです。

天気はあまりよくないですが、宜しければ是非ご来場下さい!

6月18日(木)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:長谷川明弘 pf:福島剛
回を重ねる毎に音のコミュニケーションが増してきたこのバンド、上野の名店でハーモニカトリオです。
19:30~start  music charge:2000円

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2009年6月17日 (水)

普段はビールか焼酎だよ

今日から村上春樹の「話題の」新作を読んでいます。

確かに面白いのだけれど、相変わらずディティールにはイラっとさせられる。

ジントニックなんて普段から呑まねえっつうの。お前が考えてるほどみんなオサレさんじゃない。

ケチをつけてみたかっただけです。

面白いです。

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2009年6月16日 (火)

先祖

先祖
やっと買いました、Abdullah Ibrahim の新しいアルバム、「SENZO(先祖)」。

帰りの電車の中でついつい封を開けてしまうほどわくわくして、家に帰ったらすぐに聴いて。

素晴らしい。最高。

細かくはまたいずれ。

今はゆっくり聴きます。

あー、もうすぐレッスンだー。

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ブルームズ・デイ

6月16日。ブルームズ・デイである。

何のこっちゃわからない人の為に。

ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』という小説がある。世界文学史に燦然と輝く超問題作にして超電波本、はっきり言って正気の沙汰とは思えない作品であるが、6月16日はその作品の記念日である。

主人公のレオポルド・ブルームとスティーブン・ディーダラスは、1904年の6月16日、アイルランドのダブリンの街をフラフラと彷徨った。

織り成される荒唐無稽な「日常」。何ということは無い、「普通の一日」。

モリーは誰だ?ボイランは誰だ?

メテンプサイコーシス。過去になんてもう戻れないよ。構うものか。戻りたくもない。

今日は男二人で焼き肉を食べてきた。

美味かった。

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2009年6月15日 (月)

6月後半

今月後半に入りました。

という事で、今月後半の目標をさっき思い付きだけで立てました。

今月後半の目標は…

「卑屈にならない」

あれ?普通じゃん?と思った方、そうです、普通です。あんまり面白くないかも知れませんが、「卑屈にならない事」をテーマに6月後半やっていきます。

同時に、生意気になりすぎないようにもします!

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2009年6月14日 (日)

全員一致

総武線の中に、常識外れな程にやかましい女子高生三人組と、恥知らずな程に五月蝿いババア五人組と、キチガイじみてマナーの悪い男子高校生二人組と、ホームレスのように汚い私がいた。全員が同じ車両の中にいた。

何山動物園だよ、と心中で毒づいていた。

全員が小岩駅で降りた。

小岩は低カーストの街である。

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何も無いのだけれど

レッスン、練習、リハーサル、と、ほんの少しだけ忙しい週末。相変わらず仕事以外の愉しみと言えば、夜、寝る前の独り飲酒ぐらいのものである。変わり映えのしない毎日を浪費しながら生きている。

いじけても仕方がないし、嘘をついても仕方がない。

今日は良い天気だ。

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2009年6月13日 (土)

雑誌日和

久しぶりに雑誌「ダヴィンチ」を購入。漫画家西原理恵子の特集が組まれていたので。

中高生ぐらいの時期には毎月買っていたな、「ダヴィンチ」。「週刊少年マガジン」と「ダヴィンチ」はいつも買っていた。今は「SPA!」を買うぐらいだ。サラリーマンかよ。

「ダヴィンチ」は本の雑誌だ。今月はこんな本が出ましたよ。新作を書いたこの作家にインタビューしてみましょう。明治の文豪にもう一度スポットを当てて紹介してみましょう。そんな企画をいつも載せている。

そうやって考えると、当時は今よりも「売れ筋の小説」に興味があったという事か。情けない事に今や全く興味がないもの。困った困った。

西原理恵子の特集以外にも、太宰治生誕100年記念で、「4つのタイプの読者別、オススメ太宰作品」なんてのもあった。その4つのタイプがなかなかに笑う。「生きづらいあなたに」「嘘をついてしまうあなたに」「自意識過剰なあなたに」「淋しがりのあなたに」。全部当てはまるんですがどうしたら良いのでしょうか。少しは遊びの部分を作っておいて下さい!

西原理恵子特集はそれなりに読み応えがあった。文字が多いだけで変に情報量が少なくなる訳でもなく。しかしデビュー当時からずっとファンだけど、見事にブレイクしたなぁ、サイバラ。昔は本屋に行って「すみません、サイバラリエコの何々ありますか」なんて聞いても「あーウチにはちょっとないですねえ」なんて言われてばかりだったものな。スゴいと思う。

スゴいと思うと同時に、価値観というレベルで見た時に私は随分とこの西原理恵子に影響を受けて来たな、とも思う。

「きれいでかっこよくてみたいなのって信じてないもん。いないから、周りにそんな人。みんな、かっこ悪かったもん」(p26)

「人間ってそんなに立派じゃないし、博打するし、浮気するし、お母ちゃんに怒られるし。そういう人ばっかマンガに描いてきたんです。」(p31)

こういう価値観が、すごく好きなのだ。好きだから随分と影響を受けた。

家に帰ってもう一度じっくり読もう。

ついでに「メトロポリターナ」という女性向けの無料雑誌もゲットした。何故か。

「指輪と約束」についての文章を熟読する。我ながら変なの。

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2009年6月12日 (金)

2009年6月7月ケジュール

6月と7月は随分ライブが少ないのですが、紹介しておきます。是非聴きに来て下さいね。

6月18日(木)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:長谷川明弘 pf:福島剛
回を重ねる毎に音のコミュニケーションが増してきたこのバンド、上野の名店でハーモニカトリオです。
19:30~start  music charge:2000円

7月25日(土)東京金町 Jazz inn Blue
tel 080-1263-0955
http://www.jazz-inn-blue.net/
b:長谷川明弘 ds:松永博行 pf:福島剛
これも久しぶりのピアノトリオ。真っ直ぐに音楽を見つめていきます。本領発揮です。
19:30~start  music charge:1500円

7月28日(火)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:長谷川明弘 pf:福島剛
7月もアリエスでハーモニカトリオ。創意工夫を凝らして。でも決してマニアックにはなりませんからね。
19:30~start  music charge:2000円

7月31日(金)東京高円寺After Hours 
tel 03-3330-1556
http://www.afterhours-1975.com/index.html
vocal:おおたりこ piano:福島剛
7月ラストは「若きブルーズの女王」おおたりこさんとのデュオ。力強さと繊細さの同居する抜群のボーカルをどうぞ。
20:00~start  music charge:1800円

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歴史的大敗

悩みに悩んで参戦を断念した6月11日の千葉マリンスタジアムにおける広島カープ対千葉ロッテ戦。結果は23対2という歴史的スコアにより大敗。心の底から思う。「行かなくて良かった」と。

良い時ばかりでなく悪い時にこそ傍にいて支えてやる事で、例えば夫婦が絆を強めていくように、本来のカープファンであれば、こういう時にこそ声を枯らして声援を送るべきだっただろう。実際に21点差がついた最終回ですら、大きな声を上げて応援するカープファンが多数テレビの向こう側に見えた。尊敬に値する。素晴らしい。

しかし今の私にはそれは無理だ。精神的に今はそこまで打たれ強い時期ではない。タイミングが悪い。恐らく三回裏に大竹が満塁ホームランを打たれた辺りで早々に心が折れていただろう。

「諦めたらそこで試合終了ですよ」だって?

安西先生、それはわかっている。わかっているけど今は打たれ弱いんだ。許してくれ。

いつでも強くて正しい行動だけを取ることが出来るなら、私はこんなに罪深い人間にはなっていなかった筈だ。

今日はカープを応援しに行けなかった負い目からか、家で現実逃避のようにピアノを弾き続けた。普段の練習だけでなく、数曲の楽曲を書いた。誰かに弾いて聴かせたかったけれど、誰にも聴かせてはいない。誰にも聴かせずにお蔵入りになる可能性もあるから近い内に誰かに無理やり聴かせておこう。

さて、そろそろ聞いていたナインティナインのオールナイトニッポンも終わってしまう。深夜ラジオが終わる瞬間ってすごく寂しいんだよな。

ただ、目を瞑れば良い。

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2009年6月11日 (木)

出会い

本日6月11日、広島カープは幕張は千葉マリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズと対戦する。予てより懸念されていた天候もどうやらそこまで酷くはならない模様で、恐らく試合は決行される。

千葉マリンスタジアムは、私の家からさして遠くない。私の家は東京の中でも最も千葉寄りの位置にあるからだ。というか、色々な意味で多分三割くらいは既に千葉県だ。

なのでここは是非とも真っ赤になった外野席から参戦したかった所であるが、今私は完全に日和って(日和見主義に走って)いる。

真のカープファンならば、何も考えずに脊髄反射で千葉マリンスタジアムへゴーである。そこに疑いの余地は無い。けれど私はそうしていない。二の足を踏んで、躊躇っている。

何故か。

そこには、非常に多大なるリスクが存するからだ。

考えてもみてほしい。独りで野球の応援に行く。なかなかに寂しいものである。これが仮に私が「釣りバカ日誌」の浜崎伝助のように社交的な人物であったならば話は簡単なのだ。近くにいる同胞に気軽に話しかけ、「東出も開幕から見るとちょっと調子落ちてるよねー」などと談笑し、得点の際には軽やかにハイタッチ、『宮島さん』を大声で共に歌ってくれば良いだけの話なのだ。極めてシンプルな社交の図であるが、問題は私がToo shy shy boy だという点にある。この瞬間にも二人のルールが変わる事などありえないのだよ!

Too shy shy boy である私は、そんなに気軽に周囲に話しかける事は出来ない。独りで球場にいると、いつもの六割ほどの力でメガホンを叩いてしまうし、応援歌を歌う時にもやはり音量は六割程度に堕す。歌詞の忘れた箇所なんかは適当にハミングして誤魔化してしまう。これでは選手がヒットを打てる筈がないではないか。

「鍛えたパワーで嵐を起こせー、男の意地見せろよー、ふーふーふふんんんー」みたいな感じで。すまない!嶋重宣!最後の「この空にー」の部分をたまにど忘れしたりしている!

なお、本日私が独りで観戦した上に、万が一カープが負けたとしよう。その時の落ち込み具合たるや凄まじいものである。これが大いなるリスクなのである。

最近の私は本当に「お一人様」レベルが著しく低下している。焼肉屋に独りで行くのも躊躇われている。大好きな野球観戦も、独りだと億劫になる。

どうすれば良いのか。

私なりに解決策を考慮してみた。

「食パン」、「メガホン」、幾つかのキーワードが頭に散りばめられたので、整理しつつ考えてみたい。

基本的な解決策としては二択であり
1.一緒に応援に行く広島カープファンを見つければ良い
2.孤独に負けぬように、まずは自分が強くなれば良い

という事である。この2の選択肢は、選ばない。私は強くならないと決めたから。という事で1の選択肢である。つまりどこかで「出会わなければならない」のである。ではどう出会えば良いのか。以下にシュミレートしてみた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は傘の中に閉じ篭って雨の音を聴きながら歩みを進めていた。何か鬱屈とした塊が私の中に在って、それが精神をぼんやりと混乱させていた。一定方向にしか進まない筈の「時」ですら、それは今や遡りながら私と共に在るのか?そう思ってしまうほどの混乱だった。私はどこにいるのだか、そして私が誰なのかすら、それらを断言する事に自信を持てなかった。

原因はわかっていた。明らかな客体の不足だった。私は客体を通して、主体である私をいつも見ていた。客観と主観とは分け隔てられた二つではなく、お互いがお互いを補い合いながら存在する一個であった。その客体が極端に不足した今、私は自我の存在すら不安定になる程に混乱していた。

つまる所、私は孤独であった。

脳裏で反芻する。「私は孤独だ」と。すると途端に全てが馬鹿々々しくなって苦笑が漏れる。何が「孤独」か。誰もが孤独だ、莫迦者が。

雨は降りしきる。私の傘を淡々と撃つ。不規則なそのリズムは、アフリカのポリリズム(複合リズム)を連想させる。

目の前に曲がり角がある。そこを私は間もなく曲がる。右に曲がる。一心不乱に右へと曲がる。そこを曲がると何処に行くのだろう。何が在るのだろう。何も無い。何も無くて良い。何もかも、全てが無くなれ。

私が曲がり角を曲がろうとしたその数秒前、その曲がり角の奥から何かの音が聞こえた。それは微かに、しかし確かにこう発していた。

「いっけなーい、遅刻しちゃう!」

そしてその僅か数秒後、私は明確な衝撃を自覚した。私は、女性と、曲がり角でぶつかった。

女性は、口に食パンのトーストの切れ端を咥えていたが、それは衝撃で路傍へ落ちた。

私は一瞬の事に面食らったが、すぐに体勢を整えて彼女の元へ歩み寄った。

「大丈夫ですか」私は聞いた。

「うーん・・・」彼女はまだ何が起こったか把握できないでいるようだった。

私は彼女が落とした荷物を拾い上げる。残念ながらもうトーストは諦めるしかあるまい。

彼女はぶつかった瞬間に鞄を落としていたので、中のものが地面に少々散乱した。私はそれを一つ一つ拾い上げる。

彼女の携帯電話を拾い上げた。その時。

その携帯電話のストラップは、前田智徳のマスコットであった。携帯電話の裏面には、大きく広島東洋カープのステッカーが。私はそれを見逃さなかった。

そして、鞄の中からちらりと覘くのは、カープのメガホンバットである。

私は荷物を整えて彼女に渡しながら聞いた。

「カープ、ですか」

平静を取り戻しつつあった彼女は、それに対して答えた。

「拾ってくれてありがとう。いかにも、カープよ」

私はにっこりと笑顔を返した。すると彼女は続けてこう聞いてきた。

「あなたも、カープなの?」

ゆっくりと、しかししっかりと深く頷いた。

私は自分の携帯電話をポケットから取り出し、折りたたみ式のそれを開いて彼女に見せた。待ち受け画面のそこには、前田智徳の姿があった。背番号1の姿が。

「何なら君が鳴らしてくれれば、『宮島さん』が鳴り響く」私はそう言った。

「私は『それ行けカープ』よ」彼女は言った。そして私たちはお互いに、途端に吹き出して笑った。

彼女が落ち着き直って言った。

「ねえ、今日のマリンスタジアムでのロッテ戦、独りで観に行く予定だったんだけど、良かったらあなた、一緒に行かない?」そう、訊いてきた。

私は、もう一度、深く頷いた。

(了)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という事で、出会うならやっぱり曲がり角で口にはトーストだよな、と思い立ってこうやってシュミレートしてみた。

私ぐらい賢い人間がシュミレートすると、大体96%の高確率でそれは実現される。

実現されない時はよっぽど何かが悪かったのだろう。

何が悪いのだろうか。

全て「医者と軍隊が悪い」という事にしよう。

全て医者と軍隊が悪い。

永遠にさようなら。

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2009年6月10日 (水)

昨日の料理

昨日の料理
昨日の料理
昨日の料理
こんなんでした。

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釣行記

昨夜、疲れ果てて夜10時に入眠。ねえムーミン。途中で起きる事もなく、ひたすらに寝続けて起きれば朝6時30分。これが世間で言うところのの「早寝早起き」というやつか、と苦笑。

昨日のブログにも写真を載せたが、昨日は海へ。

何のために海か、と問われればそれは、愛する人を守るためであり大切なものを築くため、海に出たのである。

ウソである。

↑はCoccoの歌の歌詞の一部だ。ふと脳内をよぎったので書いた。

嵐の中で戦って、突風の中を生き延びて初めてポイントについた訳ではない。

単純に釣りに行っていただけだ。

結果は大満足の釣果。一緒に行った友人ヤマと共に、100匹を超える良型の白鱚を持って帰る。

帰りの船中で二人して、獲物の頭を首から切り落とし、腸(はらわた)を引きずり出して海へ投げ捨て、人間にとって皮膚とも言うべき鱗をガリガリと無慈悲に剥いだ。

↑戯れにホラー小説風に書いたが、つまるところ下拵えをしていただけである。家に帰り着いてからの調理の手間をはぶく為に、船中でオートメーション工場のような「作業」に取り掛かった。

まさしく流れ作業である。ヤマがナイフで鱚の首筋に切れ目を入れる、私がそこから首をもぎ、はらわたを出して海に捨てる、この繰り返しである。

頭やはらわたを海に捨てる。この事に関しては罪悪感はゼロだ。元々海の中の生き物であるし、そういったキスの生首や臓物など、食物連鎖の輪の中にいとも簡単に溶けていく。極めて自然な事なのだ。輪廻の一端に自分がいる、と考えるとほんのり愉快にもなる。

実際、この下拵えがかなり効いた。家に帰り着いてからの調理は随分楽であった。ヤマは魚を次から次へと背開きにし、私は刺身を作った。丁度帰って来た私の母親を交えて、その後三人で天ぷらを揚げた。椎茸やエシャロットなども揚げた。下拵えのせいで、ゴミは殆ど出なかった。

私の両親に出来上がった料理を少々お裾分けして、ヤマと二人で宴。ムダ毛。絶品料理に舌鼓を連打。暴れ太鼓の乱れ打ち。釣り立ての魚って何であんなに美味いのだろう。

私もヤマも余りにも疲れ果てていたので、宴は夜9時には閉幕。その後、サクッと風呂に入って気が付けば就寝。起きてみたらば朝6時30分という状態であった。

さて、今日からはまた普通の日常が始まる。音楽にまみれた日常が。

やりたい事も、やらなくてはいけない事も、たくさんあり過ぎて。何から手をつけていいのかも分からないが、取り敢えずは眼前の事から。

最近、1ヶ月が経つのが速く感じる。

あれ、もう6月か。といった具合に。

グズグズしてると来年の正月がすぐにやってくる。

来年の正月はどうなっているのだろう。誰の為にピアノを弾いているのだろう。ドラえもんのタイムマシンがあれば、そこまで行って、見てみたい。

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2009年6月 9日 (火)

今日も今日とて

今日も今日とて
海に出ております。

おはようございます。

魚が大好きです。

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2009年6月 8日 (月)

ベテランの底力

おがたー

おーがーた

おがたー

♪この一打に

闘志燃やして

勝利の地へ駆け抜けろ!

という事で。

緒方孝市、背番号9、ついにやりました!1500本安打!しかも今日のそのヒットは決勝点となる2点タイムリー!

ぼかあねえ、「ベテラン」というのが大好きなんですよ。体力の衰えと若手の台頭、色んなものに脅かされながら、それでも前を向くその姿勢。なかなか出来る事じゃない。

スポーツ選手の引退に関して言うと、例えば中田英寿や新庄剛志のように、人気実力共にピークの時に辞める、そういうのは格好いいなと思う一方で、衰えながらも必死にやってる人を見ると、すごく胸が熱くなる。カープで言えば、前田、緒方、それから今年から仲間になった石井琢朗とか。他の競技で言えばやっぱり辰吉丈一郎なんかも最高だね。みんな凄まじい覚悟をもってやっていると思う。ちっぽけな見栄やプライドを捨てて、本当に「一生懸命」やっているのが伝わってくる。とても心を打たれる。

緒方さんは、今年は全然打てなくてねえ。打率はある時までずっと0割だった。

凡退すると、客席から「もう引退しろー!」なんて野次が飛ぶ。俯きながらベンチに戻る緒方さんが寂しく見えたな。やっぱり歳には勝てねえのかな、そんな事思っていたけれど。

でも、まだまだいけるね。

今日は交流戦首位のソフトバンクが勝ってしまったけれど、まだまだ交流戦優勝は狙える位置だ。若手が元気なカープだけれど、まだまだベテランの力は必要だ。

緒方孝市と、石井琢朗。

それともう一人はあなたですよ!

前田智徳さん!

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2009年6月 7日 (日)

東京には多分いない

ホタル見に行きたい。

超行きたい。

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深夜のお答え先生

昨夜、深夜3時30分ぐらいに友人からメールが来る。

曰わく「クラムボンって何だと思う?」との事。クラムボンとは、宮澤賢治の童話『やまなし』に登場する意味不明の単語だ。

「妖精とか物の怪の類なんじゃないの?」と適当に返してお茶を濁す。何せ友人ヤマと二人で泥酔してバカ騒ぎをしていた最中だったから。

そんな時間にそんなメールが来たので、村上春樹の『スプートニクの恋人』という小説を思い出した。確か「すみれ」という女の子が深夜に公衆電話から主人公の男に電話をかけてきて「象徴と記号の違いって何?」と聞くシーンがあったはずだ。村上春樹の小説というのは、たまにイラっとくるようなオシャレ描写があるので手放しに「好き」だとは言えないのだけれど(でもほぼ全ての彼の作品を読んでいるって事はやっぱり好きなのかな)、このシーンはすごく可愛らしく思えたのを覚えている。結構M気質な私は、そういった事で夜中に叩き起こされたりするのは存外に嫌いではないのだ。

今日は、夜中に部屋で独りでサッカーを観た。日本代表とウズベキスタン戦。結果は日本が1対0で勝利。南アフリカで開催されるW杯の出場権を得た。良かった良かった。開始早々、以前当ブログで紹介した岡崎慎司がゴールを決める。彼らしい泥臭いゴール。良いゴールだった。結局ゴールシーンはこの一回だけ、それが文字通りの決勝点となった。

カープは今日は負けたけどさっ!

クソ!

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2009年6月 6日 (土)

たけさんぽ(千駄ヶ谷〜信濃町)

たけさんぽ(千駄ヶ谷〜信濃町)
千駄ヶ谷ホープ軒でかなりストロングスタイルなラーメン(添付写真参照)を食した後、神宮外苑を信濃町駅まで散歩。昔からこの神宮外苑の雰囲気はとても好きだ。

作られた緑、作られた自然である事は無論わかっている。その人工的で無機的な感じの自然が好きなのだ。剥き出しの野性のような自然も好きだが、嘘臭い自然もまた、これはこれで私を癒やす。

聖徳絵画館が夕焼けでうっすらピンクに染まっていた。

近くにビアガーデンがオープンしていた。超行きたい。

信濃町は創価学会の本部がある事でも有名だが、私は創価学会員ではないのでそれは関係ない。

慶応大学病院がある。昨年そこで手術をした。

神宮球場もあって、カープ対ヤクルト戦を何回か見に来た事もあるが、私が見に来るといつもカープが負ける。

千駄ヶ谷〜信濃町。私にとって縁の薄かったこの街に、次第に惹かれている。

こういうのも悪くはない。

さて、本日は最後に、超有識者で見識者である私が、皆様に世の真理を一つお教えしよう。つい昨日、正確には本日の話であるが、この真理に辿り着いた時、私はその真理の余りの苛烈さに打ち震えた。戦慄し、驚愕した。何故このような真理にもっと早く辿り着けなかったのか、といささかの自戒も覚えたが、何にせよ私は真理に辿り着いた。私は選ばれた特別な人間なのだ。覚者としての悟りを開いたのだから、あまり不満を言ってもバチがあたる。

さて、勿体ぶっても仕方がない。皆様にその真理をお届けしよう。

その真理とは

「酒は超コワい」

以上である。

誰か信濃町でデートしよう。

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2009年6月 5日 (金)

ブーム再燃

幾つかのブーム再燃が、私の中でやって来た。

嘗て夢中になった幾つかの事、それらは時間と共に少しずつ熱が引いていった。単純に「飽き」が来たものもあるのだろう。私の中で、少しずつ情熱が色褪せていったのだ。そういった事は、幾つもあった。

しかし、暫らくの時を経て、それらの愉悦や情熱が私の元へと戻ってくる事もある。戻ってきた際、私は何か昔の恋人と久しぶりに会った時のような若干の気まずさと、そして途方も無い懐かしさに包まれる。ああ、そう言えば君はこんな感じだったね。やあ、久しぶりだね。元気だったかい。そんな風に。

1.さて、私の中で再燃しているブーム、その一つは、「読書」である。

高校生から大学生の頃まで、周囲に比べればあまり量としては大した事はなかったが、それでもそれなりに本を読んだ。内容が難解すぎて全く理解出来ないながらも、取り敢えず最後まで頑張って読んだ、というものも多い。それはそれで良かったのかな、とも思う。若い内に闇雲にでも読まなければ、今となっては読む気の全くしない本だってあるのだから。例えば、二葉亭四迷の「浮雲」とか。今だったら絶対読まない。理由は「つまらないから」ではない。「面倒くさいから」だ。若い内ならば多少面倒くさい事でも出来てしまうものだ。

大学を出て、東京に戻ってきてから、パタッと本を読まなくなった。たまに雑誌や漫画を読んだりするくらいで、読書をする習慣というものがすっかり私の中から失われてしまったようであった。「さあ、これまで未踏のプルースト、『失われた時を求めて』、読みにかかっちゃうよ」なんて鼻息が荒くなった時もあったが、あっさり一巻の途中で挫折した。もう、文学や文芸には私は興味はないのだろうか。そう思うと、何となく寂しかったのだが。

それがここの所、再び愉しいのだ。文字を追い、頭の中で情景を想像する事が、愉しいのだ。

なので、最近は比較的頻繁に本のページを捲る。一昨日までは、当ブログでも紹介した舞城王太郎の『煙か土か食いもの』を読んでいたが、昨日からは『ビリー・ホリデイ自伝』を読んでいる。この自伝も壮絶だ。ビリー・ホリデイの人生は、もう笑えてしまうほどに不幸だ。こんなに不幸で不幸を煮しめたような人生も珍しいのではないか、と思う。今は、ビリーの少女時代が終わり、やっとジャズクラブで歌を歌い始めた辺りまで話はきた。続きが待ち遠しい。

このようにして、読書ブームが再燃している事は、私の中では喜ばしい事の一つだ。やはり本を読んで「愉しい」と感じるというのは、一つの幸せだ。これで良いのだ。

2.もう一つのブームの再燃。それは、このブログである。

お読みの諸兄で気付いている方も多いかもしれないが、ここの所の私のブログの更新頻度が我ながらすごい。こんな頻度で更新出来るのは、しょこたんかニートか私くらいのものである。結構な更新頻度だ。

理由は明快で、ブログを書くのが、今、とても愉しいからだ。

ブログを書き始めた時、読んでくれている人の数は今の半分どころか四分の一もいなかっただろう。けれど、書くのが愉しかった。一生懸命エッセイを書いて、それを誰かが読んでくれている、そう思うと心が躍った。下らない下ネタを書いて、そして誰かがそのネタを見つつパソコンのモニターの前でぷっと吹き出してしまっている事を想像すると、とても愉快だった。昔からずっとレポートや作文は好きだったから、その延長だ。一銭の得にもなりやしないが、それはひどく私を慰めた。

少しずつ、その情熱が薄れていった。飽きていった。

エンターテイメントも意識はしていたが、やはり基本的には書きたい事を正直に書いていた。正直に書くと、結構怒られる。出る杭は打たれる。非難を浴びるのだな。

特に、顔の見えないこのインターネットという世界では、容赦の無い罵詈雑言が容易に跋扈しうる。うんざりするような人間のうんざりするような中傷というのは、私が想像していた以上に数多く存在した。それは、昔も、今も。

そういうのが鬱陶しくなると、今度は私があまり本音で書かなくなる。「こういう事を書くとまた怒られちゃうんだろうな、メンドくせ」。そんな事を考えると、書くのもつまらなくなったが、最近は随分開き直ってきた。ある天啓が私の元へやって来たからである。

「怒られたら怒られたでいーや」

これである。

今後怒られた際には、杓子定規に「マジすんませんでした。チョー反省しまくってます」と謝る事に決めた。勿論、反省なんて1ナノもしないけれども。

そう思うと気が楽になって書きたい事を書ける。やはり人の顔色を窺うというのは基本的には苦手だ。そういう事を第一に考えると億劫になるが、開き直った今はブログを書くのも愉しい。

という事で、良識のある大人な方々は今後一切、当ブログを開かない事を推奨いたします。万が一間違って開いてしまわれた場合には、光の速さで画面上左上の「←戻る」を鬼クリックです。マウスが壊れるのではないか、というほどに左クリックです。

多少慇懃無礼な言い方になりましたが、要約すれば「ムカつくぐらいなら初めから見るな」という事です。シクヨロ。

3.最後のブーム再燃、それはCoccoである。こっこである。あっちゃんである。

昔、Coccoという歌手が好きだったのだけれど、あまり聴かなくなってしまった。何故だったのだろうと今も思うけれど、まだわからないよ。

過日、いつものように深夜に独りで飲酒をしていた折、急にCoccoが聴きたくて聴きたくて仕方がなくなった。それは、無性に、である。

深夜の飲酒中に聴きたくなる音楽というのは、私の中では定番が幾つかある。少し挙げてみよう。
・セロニアスモンクのソロピアノ
・バドパウエルの最晩年のトリオ演奏
・ビリーホリデイ
・バディガイのアホ臭い2音半チョーキング
・サンハウスのドブロギター
・ボブディランの屁のような声
・中島みゆきの死にたくなるような歌
・ブルーハーツの青臭い歌
・矢野顕子のピアノ弾き語り
等々

不思議な事に、同じセロニアス・モンクでもトリオものは酔っ払っていない時に聴きたい。大好きなエロール・ガーナーやオーティス・スパンにしても同様である。ロバート・ジョンソンもそうかな。ランディ・ウェストンやアブドゥラー・イブラヒムにしても、比較的クリアな頭の状態で聴きたい。この違いは何なのであろうか。自分でもわからないけれど。

そして、上記の酔っ払っている時に聴きたい音楽リストに突如Coccoが乱入して来た。

私は自分の部屋の押入れの中にある大量のMDをがさごそと探し出し、Coccoの『クムイウタ』というアルバムを録音したMDを発見し、おもむろにそれを聴いてみた。

もう掛け値なしに素晴らしかった。

~きっと飛び魚のアーチをくぐって宝島に着いた頃あなたのお姫様は誰かと腰を振ってるわ。人は強いものよ。そして儚いもの。

~それはとても晴れた日で、未来なんていらないと思ってた。私は無力で言葉を選べずに、帰り道のにおいだけ。優しかった。生きていける。そんな気がしていた。

良いねえ、Cocco。どこからどう見ても間違いなく病んでいるね。すうっと私の酔っ払った頭と心に染み込んでいった。

酔いの醒めた今、それを聴きたいとは思わない。けれど、その時は不思議なほどに無性に聴きたかった。それはとても晴れた日で。

という事で、ここ最近の私の3つのブーム再燃でした。

ピアノの練習ブームが再燃するとすごく助かるんだけどなあ。

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法螺吹きな男とスマートな男

昨夜立ち飲み屋で横の客が言っていた暴れたくなるような会話。

「いやあ、山下達郎だってね、売れる時には俺が随分世話してやったんだよ、ホントに?」

「○○さん、スゴいっすね!!」

黙れ、貴様ら。そんな大物プロデューサーが今やレモンハイ一杯200円の呑み屋で過去の自慢話などしている筈がないだろうが。

しかし何故立ち飲み屋にいるオヤジ達は無茶なスケールの自慢話をするのだろう。「俺も昔は甲子園出た事あったんだよ?」。せめてそれぐらいにしておけよ。

さて、本日帰りの総武線内で聞いた、それに勝るムカつきワード。大きな声を出しつつ暴れたくなるような会話。

会社の同僚らしき男女。私と同世代か、多分それよりも少し若い。恐らく二十代半ば。女は少し頬が赤い。ほろ酔いだろうか。男はそうでもない。シラフだろうか。

女が男に言う。

「××さん、今日全然呑んでなかったですよねー。お酒苦手なんですかー?」

それに対する男の言葉。

いわく「苦手じゃないよ。飲もうと思えばいつでも飲めるし、酔えって言われればいつでも酔えるけどね。でもいつでもどこでも酔っ払うのってあんまりスマートじゃないじゃん?」

(まっすぐいって右ストレートでぶっ飛ばすまっすぐいって右ストレートでぶっ飛ばすまっすぐいって…)

すまない、今のはノイズだ。何でもない。

「スマート」と来ましたか。

私は、私だけが知っている、ニカラグアの奥地の少数民族に伝承される「怒りの歌」を大声で絶唱したくなったが、やめておいた。何故ならば私はその男の八万倍スマートだから。

声高に自らの正当性を主張しつつ他者を非難する人間がひどく惨めで滑稽なのは昔からの習いだ。自らのスマートさを主張する人間もまた同様だ。惨めとか滑稽とかではなく、単純にムカつくな。絶対に友達になれない。

立ち飲み屋でスケールのデカすぎる自慢話をするオヤジと、そんな風にスマートを気取る男。

私の中でどちらがマシだろうと比べてみた。

答えは、もはや言うまでもあるまい。

さあ、理不尽に酔っ払ってやる。

もうみんな死ね。

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2009年6月 4日 (木)

幸せに死ぬ

深夜、というか早朝。

身体は疲れているのにまるで眠れない。大丈夫、不眠で死んだヤツはいない、と自分に言い聞かせつつ、義務と権利のように飲酒。

程良く酔っ払った所で、酒の肴に漫画なぞ開いてしまう。

しくじった。

西原理恵子『毎日かあさん4』。

酔っ払っているものだから、読みながら涙が止まらない。

「君にあえてしあわせな人生だった。もう悔いはないよ。」

「神さま。私に子供をありがとう。」

そんな言葉を読む度に、次から次に溢れてくる。

ひょっとしたら、人間は幸せに死ねるのかも知れないな。

私にはまだ随分と無理のある話なのだけれど。

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煙か土か食い物

舞城王太郎『煙か土か食い物』、読了。

多少荒唐無稽な所もあるが、力づくで読ませる文章のテンションの高さにやられる。面白かった。

「サーガ(Saga)」と呼ばれる小説の形態に、私は或る一時期から非常に強い興味を持っている。「サーガ」とは、そもそも12〜14世紀ごろに最盛期を迎えた叙事文学を指す。神話・伝説・歴史などの口承記録との事だが、現代では転じて「一族の歴史を描いた叙情的小説」を指す。

ウィリアム・フォークナーという作家は、「ヨクナパトーファ」という架空の地を作り上げ、そこを舞台に幾つもの物語を紡ぎ上げた。場所という容器は、登場人物を強固に縛り付ける。逸脱は許されない。そして、そこに幾つもの「逸脱した物語」が生まれ出す。彼の作品群が「ヨクナパトーファ・サーガ」などと呼ばれるのもそのせいだ。

日本人作家に目を向ければ、中上健次という作家は紀州熊野を舞台に、一種の「サーガ」を描ききった。それはフォークナーと同様に、濃密であり重厚で、そしてどこかしら陰鬱でもある。

人間の意識の底に巣喰う劣悪な差別意識や自意識を、一捻りも二捻りもした表現で描き出す。重層的かつ多面的なその文章達は、何かどこかで「理解される事」を拒んでいるかのようにも見えて、私はいつも途方に暮れる。幾つもの「不連続的な断片」に見えた物語達が、幾重にも重なり合っていく様を描くのは、やはり作家の底力を要求される。そういった意味では、フォークナーや中上はこれ以上ない程の力量を持った作家達であった。

『煙か土か食い物』、この作品は言ってしまえばそこまで重厚な作品ではない。もっとライトでポップだ。ミステリとしての一面もあり、娯楽作品としても読める。

「サーガ」という言葉を当てはめられるように、奈津川という一族の「血の呪縛」が作品を覆う。大袈裟な言い方になるが、それは生まれながらに背負った原罪のようなものと、各登場人物が向き合う過程を描いた作品だとも言える。悪魔的な丸雄と二郎。それに翻弄される奈津川の人間達。復讐が復讐を呼び、血が血を汚す。皆がそこから目を背ける事を許されない。福井県の西暁という片田舎の街を「容器」として、不連続な断片達が連続性を持ち始める。終わらない奈津川サーガ。なかなかに読み応えはあった。

久しぶりに中上健次が読みたくなった。読んでると、その「重さ」にゲロ吐きそうになるんだけど。

ちなみにフォークナーは難しすぎて眠くなる。勘弁してほしい。

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2009年6月 3日 (水)

クソッタレ

クソッタレな街のクソッタレな公園でクソッタレな私が独りで小説を読んでいる。

池袋。こんな街に私は微塵の愛着も持っていない。ここに暮らす人がいて、中にはこの街を愛する人がいるのだろうが、それは他人ごとだ。知った話ではない。

さっきホームレスの親父に絡まれて、私は何となくホッとした。煙草を一本遣ったらどこかへ行った。

全ての物事が思い通りにいかない。

だからこそ、カープぐらい勝ってくれ。

クソッタレ。

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正論に先立つ爽やかさ

とても憧れる芸能人の一人に、「ザ・ウルフルズ」のトータス松本がいる。彼みたいな格好良さを身に付けられたら人生は幾らか違うだろうなとは思うが、それはまず間違いなく叶わない事であるので、どうでも良いのだが。

彼のように、青臭い台詞を何の衒いもなく言える人間、そういう人間は、そもそも嫌いだ。嫌いというか、いささか苦手なのだな。

トータス松本がブラウン管越しに言う台詞は、基本的に青臭い「正論」である。

「正論」を吐く人間というのは、大抵の場合自らの吐く台詞に酔っている場合が多い。「正論」という武器を持つ事で「自分はこんなにも正しい人間なのだ」とこれ見よがしに主張する事でしか自己主張の出来ないサムイ連中である。そんな人間達の言葉は決して届かない。少なくとも私には。だってそういうヤツに限って「お前の為を思って言ってる」とか言うんだもの。超嘘臭い。ホントは自分が言いたいだけなのに。

では「正論」を吐く人間は、皆総じてシャラ臭い連中なのか。そう考えた時に、「否」と答える根拠になる有名人を私は三人知る。一人はMr.ジャイアンツこと長嶋茂雄、少々過去に目を向ければ、もう一人は坂本龍馬。そして最後の一人がトータス松本である。

彼らは、極めて自然に「正論」を吐く。そこには打算的な何かは無い。少なくとも私には見て取れない。いくら「正論吐き」が嫌いな私と言えども、彼らはどうしたって嫌いになれない。どこまでも憧れの対象である。

例えば。

「希望を持って、夢に向かって頑張りましょう!」という台詞。

こんな台詞を吐く人間は、キチガイかシャブ中ぐらいだと思っていたが、上記の三人などはこんな台詞でも似合ってしまう。

坂本龍馬は現代を生きる人間ではないから取り敢えずは置いておくとして。

想像してみよう。

ミスターが、「いつかはキミもベースボールのスターになれる!頑張れ!」というシーン。

トータス松本が「まあ色々あるけど頑張らなしゃーないやん。元気出してこ!」というシーン。

そんな所謂「前向きシーン」が大嫌いな私でさえ、そこに反感は抱かない。いや、抱けない。「ほぼ」抱かないのではなく、「完全に」抱かない。

それはあまりにも先行し過ぎる彼らの「爽やかさ」所以である。彼らは、どこまでも爽やかだ。中途半端ではなく、極端に爽やかな人間を見ると、「カッコイイ…」と無条件に思ってしまう。広島カープの熱狂的なファンで、アンチ巨人阪神な私がどうしたって嫌いになれない、いや、むしろ大好きな長嶋茂雄、その原因は恐らくそんな所にある。

テレビのCMで久しぶりにトータス松本を見た。惚れ惚れするような匂い立つ男振りに、半ばうっとりとした。

遥か遠くの星の、途轍もなくカッコイイ有名人。そう思う。ああいう格好良さを携えている人間はあまり見ない。

彼のようになりたいなどとは思わない。

尚且つ、彼のような男に惹かれる女性の心理もわかる。

道理で私みたいなのはモテない訳だ。

モテないながら、先週の日曜日はデートに行った。午前中でちゃっちゃと別れたけれど。でも久しぶりに超愉しかったからそれで良いのだ。

思い出した。

ある偉人の言葉を。

「これで良いのだ」。

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最近ハマっている飲み物

最近ハマっている飲み物
焼酎のブラックコーヒー割り。この間呑み屋で呑んだ時に美味かったので、真似してみた。

美味い。

さっぱりしてるね。

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2009年6月 2日 (火)

無敵状態

カープが未曾有の七連勝を遂げた。

私は心地良く本日の仕事を全て終了させてから、夕飯を平らげ、風呂に入り身体を丁寧に洗い流す。

そして風呂上がりに缶チューハイである。

完璧過ぎる。どこからどう見ても一分の隙も見えないほどに完璧過ぎる。

今、私にある多幸感、そして万能感。恐らくそれはシャブがお好きな人が頻繁に感じると言われる多幸感や万能感に匹敵するだろう。無敵過ぎる私、である。

普段酒を呑む時は、「シラフでいるのが面白くないからちゃっちゃと酔っ払おう」という理由の時が多いのだが、今日の私は酒を愛でている。

薬物としてのアルコールとの付き合いではなく、朋友としての酒との付き合いである。飲酒とはかくあるべきである。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。(坂口安吾)

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2009年6月 1日 (月)

初夏の珍事

おらっ!六連勝!

どうしちゃったんだ、カープ。初夏の珍事か?

交流戦って、良いねえ。見ていて愉しいねえ。やっぱり勝つと嬉しいねえ。

6月は球場行けるかな。行けるとすれば11日の千葉マリン。行けると良いナ。

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