師との邂逅
京都からの帰途。
帰りの高速バスを予約していなかったもので、当日で購入可能だろうかといささか心配もしていたが、杞憂に終わる。平日はこんなものだ。
ライブは愉しかったし、それなりに盛況だったので、比較的満足している。自分に対しても、技術面、表現面で具体的な課題がいくつか見える。改善の方法論はそれほど難しくはないので、四の五の言わずに「やれば良い」。
課題を見つけてそれを潰していく過程は、存外に面白い。収集癖の一種なのかとも思うが、まさに「技能を収集している」感覚。それが即ち全て「音楽」に繋がるかと言えば相当の疑問は懐かざるをえないが、少なくとも自分の貯蓄が貯まっていくような感覚は愉しい。とある偉人が嘗て言った言葉を借用して言うならば、「これでいいのだ。」
さて、今回の京都での滞在で、非常に愉快な事があったので、今日は暇潰しにその事でも。先に宣言しておくが、長くなる(笑)。
本当に久方振りとなるが、過日、大学の教授の元をふらっと尋ねてみた。
私は類いまれなる怠惰のセンスを有していたので、京都府立大学という大学の文学部を九年もの歳月をかけて卒業した。まさに絵に書いたような「The親不孝」である。
九年というのはそれなりの歳月で、私は結局18歳から27歳までの、比較的多感であった時代を、京都府立大学という大学の文学部に「所属」しながら過ごした。当然と言えば当然なのであるが、それなりの影響を受けているのだ。
文学部の教授達、あまり好きになれない人も数人はいたが、大半の先生達の事が私は好きだった。非常に「面白い」人達が多かった。授業も面白かった。ま、私はほとんど出席していなかったけれど。
その中でも取り分け好きだったのは、アメリカ文学のK先生だった。
ウィリアム・フォークナーという、重厚な作家の研究をする彼であるが、私は彼から幾つかの影響を受けている。
例えば。
彼が講義の中で言っていた、非常に印象的な言葉。以下に要約する。
「小説という芸術において、その小説の中で何が描かれているか、という事は大変重要な事ではあるが、それと同様に重要なのは、それが如何に描かれているか、という事である」
この言葉、彼は「what」の部分と「how」の部分、というような言い方で補足説明していた。
例えばヘミングウェイという作家が「男性同性愛者に対する嫌悪」というものを作中に描き出そうとする時に、彼はどういった手法を採るか。つまり「いかに(how)書くか」という事であるが、「極めて清く美しい男女の恋愛模様を描く」といった手法を採る事もありうる、と言うのだ。ヘテロセクシャルの恋愛を清く美しく描く事によって、相対的にホモセクシャルを醜く見せようといった意図である。無論、逆に同性愛者である作家がホモセクシャルの恋愛を美しく描きたい時には、全く真逆にヘテロセクシャルの恋愛を醜く描く、というパターンもありうる。こういった事は無数の例の一つである。
花村萬月氏という作家の言っていた言葉で、とても好きな発想の一つにも似たようなものがある。殺人を否定する時に「殺人はいけない」などと正面切って言った処で相手に何が伝わるだろうか、寧ろ徹底して酷たらしい殺人を描写する事の方が伝わる事もあるのではないか。という表現に関する発想である。
これらの事は、私が「表現」というものを考える時の原風景となっている。極めて強い影響を、私は受けている。
悲しみを表現する時に、人間は何故か笑う時がある。
それは音楽の場においても同様である。
例えば一つの楽曲を取り上げた時に、その曲をいかに表現するかという事を、徹底して自分の頭で考えなくてはならない。答えは、簡単に出る問題ではない。私は、そう思っている。この根底にあるのは、前述のwhatとhowの問題意識からである。つまり、K先生からの影響なのだ。
もう一つ。彼からの多大なる影響が私の音楽観を変えた点がある。それは、「とりあえず最後までやる」という事だ。こうやって言うと、すごく当たり前の事みたいだ。
彼は、例えば自らの講義でフォークナーの「アブサロム!アブサロム!」という作品を取り上げた時、私を含めた学生達に、「とりあえず最後まで一回通して読んで来なさい。中身は一割もわからなくても構わない。ざっと読んで来なさい」と課題を命じた。中々に力づくな課題であるし、実際私も「何だよこれ、難しーよ、わかんねーよ」と泣き言を漏らしながら最後まで通読した記憶がある。
実はこれがとても大事な事だったのだ。
「読む力」というものは、そうやって力業で「読みきる事」の連続でついていくという面がある。振り返るな、ひたすら読め。振り返るのは一度最後まで辿り着いてからという事だ。
私の音楽観は、やはりその影響も色濃く受けている。
私はそれは一つの「覚悟」だとも思っているのだが、一度演奏が始まったら、イントロが鳴り始めたら、どんな事があっても必ず最後まで弾き切らなくてはならない、という事だ。止まったり、振り返ったりは全てが終わってからで遅くはない。それは、「何があっても最後までやる」という覚悟なのだ。ミスを犯したから止まる、気に入らなかったからやり直す、そんな中途半端な覚悟で演奏に臨む事は、許されない事であるのだ。チャンスはいつだってたったの一回。それと心中する覚悟だ。
また、結果はどうあれ、諦めずに最後までやりきるという事は一つの大きな自信に繋がる、とも彼は言った。それは確かにその通りだ。間違いを犯しながらも最後まで粘り強くやり遂げる姿勢というのは、音楽や文学だけに留まらず、人生を生き抜く上での一つの強固な姿勢になりうる。後は、繰り返しなのだ。人間の価値を、「どれだけの成功を納めたか」で計る事に対しては、私はいささかの反感を抱く。「どれだけの失敗をしてきたか」という事は、それ以上の貴重な財産になるのではないだろうか、そう思っている。
閑話休題。
そんな彼に、久しぶりに会って、そういった彼から受けた影響について軽く謝辞を述べた。お陰様で東京で何とかやってますよ、感謝してますよ、と。
勿論、私の音楽に関する影響という点で言えば、市川修を抜きに考える事は不可能であるが、K先生、彼にもいくら感謝しても感謝しきれない。私は、すごく師匠に恵まれていると思っている。
オバマ大統領の話や、母校である京都府立大学の学部再編の話などもしてから、30分ほど話をした後、彼の元を後にした。
最近45歳にして早くも教授に昇進したという。
「出世してますねえ、おめでとうございます」と私が冗談ぽく言うと、彼は「実際は雑用係だよ」と言って優しく笑った。
「教える仕事してると、こうやってお前みたいに出来の悪いのがたまに尋ねてきてくれる。やっぱりとても嬉しいよ」と彼は私に言葉をかけてくれた。
「そうだ、これをやる」と言われて、土産に「アメリカの黒人演説集」という文庫本をくれた。
別れ際に彼は「酒ばっかり呑んで、身体、壊すなよ」と言ってくれた。
私は、とても嬉しかった。
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コメント
京都は暑いですか。もう帰り足?…学生時代って良いですよね。来世では私も大学入ります(笑)
☆カープ勝ちましたね!!今日から交流戦。
投稿: のりまき | 2009年5月19日 (火) 21時02分
のりまきさんへ
京都はまだそんなに暑くなかったですよ。ここいらから暑さも本番だとは思いますが。
大学、やっぱり行って良かったです。そこで垣間見た「学問」は、やはり今ぼくの生活にとても影響を及ぼしています。本は全然読まなくなっちゃいましたけどね(笑)
投稿: ふくしまたけし | 2009年5月21日 (木) 14時53分