書きなぐりのエコ論
仕事が13:00からだったのに、何故か間違えて11:30に千駄ヶ谷に来てしまう。そろそろ若年性アルツも重症なんだろうかと苦笑い。仕方がない。喫茶店で暇をつぶす。コーヒーをこぼす。眠い。厄日。
たまには普通のエッセイでも。
エコを標榜する方々が生理的に苦手だ。その事について。
エコが嫌いな訳ではなく、それに過剰な正義を見いだす人々が苦手、という話だ。
温暖化、生態系の破壊、地球環境の汚染。そういったものに私も微小ながら危惧感を抱かない訳ではない。例えば私は魚釣りが好きだけれども、江戸前の鯊などは私の少年期に比べれば魚影も明らかに薄くなっていると感じる。環境破壊の影響は、日常的な部分で感じている。そういったものにどこかで歯止めを効かせなくては、とも思っている。
ただし、傲慢で身勝手な「人間」である私は、さほど大きなアクションを起こす事は出来ない。出来る事は些細な事だ。なるべく割り箸を使わないとか、エアコンは必要以上に使わないとか、そういった些細なレベル。でもそういう事でもしないよりはマシだろう、ぐらいにしか思っていない。
極論を言ってしまえば、人間が絶滅するのが地球環境にとっては最良なのではないか、どこかでそう思っている節のある私は、結局の所全部その場しのぎの妥協案だろ、と思ってしまっている。先に書いたように、それでも「しないよりはマシ」とは思っているのだけれど。
エコに纏わる種々のアクションというのは、善悪などではなく脊髄反射的に出来れば良いな、と思う。食事の前後に「いただきます」と「ごちそうさま」を言うように、それが「良い悪い」という判断を下すよりも先に、一種の習慣として「体が勝手に動いている」というように。
例えば、これがエコなのかそうでないのかも判然としないのだが、「食べ物を捨てる事」が私は非常に嫌いだ。故に、昨今の食品偽装問題などに対しても、「賞味期限なんて少しぐらい過ぎたって問題ねえよ、産地がどこだって大して変わらねえよ、黙って捨てずに食えよ」と、乱暴な言い方になってしまうが、そういうような気持ちがどこかで強くある。それは当初、「そうした方が良いから、捨てるのは良くない事だから」という善悪判断に基づいていたのかも知れない。が、少なくとも今現在は善悪判断などではなく、単純に好き嫌いみたいな問題として、「食べ物を捨てるのは何となく気分が悪い」というレベルでそれを感じている。日本人が北枕で寝るのを嫌がるのと大差はない。
私のその認識には、当然細部への配慮などが綺麗に欠けている。つまり、そういった食品関係の仕事に従事する個々人の視点が欠け、ほぼ独善的な視点に堕している。それは承知しているが、独善ついでに言えば、「それで良いではないか」と開き直っている。「何が悪いの?」と。
閑話休題。
エコを標榜する方々に対して、私が名状し難い違和感を抱く原因の一つに、そうやってエコを標榜する事によって自らが正義の立場に立っている、というような自尊をどこかに感じるという事がある。
「私(私達)は、地球環境の為に、つまりは他者の為に思慮深く考えを巡らしています。そしてそこから導き出された結論、これが正しくない筈がない。何故我々の提案に従えないのか」という自尊。これが何とも言えず鼻についてしまう。
挙げ句の果てに「エコに反するものは悪である」という視点に立脚する者まで出る始末。そうなった時には「ちょっと待てよ、それっておかしくねえか」と心中毒づいてしまうのだ。
地球環境が良くなる事を私も祈っている。けれどそれは未来の私達の子孫の為に、などという立派な動機ではなく、夏には江戸川で鯊がたくさん釣れますように、とか、東京湾の鰈が秋から冬にかけての風物詩であり続けますように、などといった矮小で俗物的な動機からだ。
でもそんなもんじゃいけないのかなあ。
全く纏まらないけれど、お終い。
レッスンの時間です。
そうそう、全然関係ないのだけれど、先日家のレコードとCDを整理していたら、以外なほどオスカー・ピーターソンとレッド・ガーランドのCDが多くて驚きました。各30枚ぐらいずつあった。レコードではエロール・ガーナーとジョン・コルトレーンが多かった。たまに整理すると愉しいですな。
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