練習について
関西での仕事も一段落つく。東京へ帰る道すがら、暇を持て余してブログの更新。
関西にいるのは楽しい。気心知れた友人も多いし、気分的にも楽なのだけれど、やはりどうしても一つ、長居が出来ない理由もある。
ピアノの練習が、出来ない。
ライブの本番前などに、一時間程度早く店に入って練習する事は出来るが、それは量と質双方の面で練習としては不満足なものになる。それは仕方がない。では、日中などに集中してまとまった時間練習しようと思えば、どこかの音楽スタジオでも借りるより外ないのだ。ピアノという楽器はこういった部分で不便だ。河原で練習出来る管楽器にこういう時は憧れてしまう。東京にいる時ならば、自宅でいくらでも練習出来る。しかし、出先の関西ではそうはいかない。
こういった状況に直面した時に、私はいつもある一つの事を思う。今の私にとって、極めて重要な問題だ。それは、
「私が練習をしなかった所で、誰も困らなければ、誰からも怒られない」
という事である。
私は、身分を訊ねられれば「音楽家だ」と答えるより外ない。しかし、この音楽家という身分は、良く言えば「自由」であるし、悪く言えば「不安定」である。
ピアノ講師としての私は、現在音楽教室にも「所属」しているが、音楽家としての私は原則としてどこにも所属していない。つまり、音楽事務所のようなものには所属していない。事務所に所属する事は、良いことだとも悪いことだとも思わない。実際の所、よくわからない。良いのかも知れないし、悪いのかも知れない。何とも言えない。
どこにも所属していないということは、どこかからサラリーを貰う立場にない、という事を意味している。労働の対価を貰う立場ではなく、商品を売る立場、私は自分の立場をそう認識している。商品とは、音楽であり、それに纏わる知識や技術だ。私という音楽家の立場は、商店に似ている。
仮に商店が仕入れを怠り、品質管理を怠った場合、その後にはすぐに倒産というシビアな結果が待っている。不景気のこのご時世、少しでも気を抜けば、個人商店など中学生男子のニキビより簡単に潰れる。それと私も同じ事なのだ。
仮に私が日々の練習を怠った所で、誰も困らない。私の換えはいくらでもいる。私が怠けていて下手になったら、他のピアニストを連れてくれば良いのだ。はっきりとした自覚がある。私は到底「only one」などではなく、ありふれた「one of them」なのだ。
これまでにも数回、私の実力不足、努力不足の為にバンドを降ろされた事はある。それは冷静に考えて、どこまでも賢明な判断である。確かに賢明な判断ではあるが、当の私の悔しさたるや、決して尋常なものではない。悔しさと情けなさにまみれながら、それでも私はその度に、這い上がってきた自覚はある。私の一番の長所かも知れない。抜群に打たれ強いこの一面は。
そして、そうやって這い上がる為の根拠となり、今の私の生活を支えている生命線は、何はなくともまず「練習」なのである。練習をしてきたからこそ今の私があり、そこを疎かにした時点で未来は全て絶望へと帰す。そういった自覚が常にある。
無論、練習の方法とは多様である。私は現在三つの方法論で練習メニューを構築している。詳細を書く事は出来ないが、その三つのキーワードは「身体」「耳」「脳」である。これら三ヶ所は、別々に鍛えた方が良いというのが私の現時点での結論なのだ。どこを欠いてもならない。まさしく音楽における三位一体の要素だと私は考えている。
具体的な方法論はここでは置いておくとするが、闇雲にやらずに常に「考えながら」の練習というのが私の思う練習だ。少なくとも「考える癖」をつけるだけで随分と変わる。これは嘘ではない。
練習方法を自ら考えるだけでも随分と愉しい。時には誰かの話や本で読んだ知識からヒントを得たりもする。実験台は自分だ。
練習を怠けても誰からも怒られない。ただ単に、死ぬだけだ。
そうやって考えると、とても痛快だ。
また、明日から新しい音楽生活が待っている。
ちなみに今気になっているのは「クールサウンドの発音構造」。これをちょっと探ってみたい。最後がマニアックで申し訳ない。
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