離れて下達する
こんにちは、福島剛です。秘書日記シリーズ、思いつきのみの企画でしたが、早々に飽きが来てしまいましたので、秘書二人は涅槃に旅立ったという事にしておきます。という事で以下、通常の日記を。
昨日、京都深草「ざぶざぶ」でのライブの前に、出町柳のジャズ喫茶「ラッシュライフ」に寄った。一息入れて、落ち着いてからライブに向かおうかな、という魂胆で。
「ラッシュライフ」は、私が京都に住んでいた際に、ほとんど毎日のように足繁く通っていたジャズ喫茶だ。かかっている音楽に申し分のない事は言うまでもないが、それだけではなく、非常に「居心地が良かっ」た。こうして言葉に表すと陳腐に堕す。アットホームな、であるとか、暖かい空間、であるとか。私の言葉では表層しかなぞれない。見当違いな言葉ではないのだが、核心はつけない。難しい所だ。仕方なく、「とても良い店だ」などと小学生のような語彙で説明するより外なくなる。言葉は難しい。
その「ラッシュライフ」で、「お前英語読めるやろ」といって渡されたのは、ある英文の文庫本であった。
私が折に触れて当ブログでも紹介するピアニスト、ランディ・ウェストン。彼の思想や理念を紹介した箇所が数ページにわたってある、との事で、読ませて頂いた。
結論から先に言ってしまえば、それは大変に興味深い記述であり、より一層ランディの音楽観や宇宙観を把握する為の手掛かりとなった。音楽と宇宙の繋がり、そして生命から自然発生的に湧き出る音楽、という哲学。ものの弾みで哲学、という言葉を用いたが、そういった音楽と宇宙との関連性について語る時のランディ・ウェストンは、どこか哲学者然としていた。宗教家というよりは、哲学者。私はそう感じた。無論、素晴らしい音楽家であるというのは大前提であるが。
さて、その記述の中身に関しては、ここではこれ以上は触れない。もう少し私が自分の中で昇華させる必要があるからだ。またの機会に。
先ほど、その本に関して「英文の」、と書いた。そうである、それは英文の本だったのである。そして私は英語が読める、そんな勘違いをしていた。
当然日本語を読む時のようにスラスラと読める訳がない。それでも大半は読めるであろうと高を括っていた。己の英語力を過信していた。
生まれてすぐによちよちと歩き出し、天と地とを指差して「天上天下唯我独尊」と言った、など、その種の伝説には事欠かない私である。信じるか信じないかはこれを読んでいる方の勝手だ。私は信じていない。そんな私の伝説の一つに、「大学を卒業するのに異例の九年を要した」というものがある。通常の人間ならば四年で修了するコースに九年をかけるという、念には念の入れっぷりたるや、まさに異形にして豪胆。九年の殆どを飲酒と博打に費やしたという事実からは全力で目を背けたい。そして九年もの歳月をかけて学んでいたのは、他ならぬ英米文学であった。つまり、中学校の教科的に考えれば、音楽は別に置いておくとして、私の専門分野は英語という事になる。中学高校の六年間をプラスすれば、都合15年間、英語を学んできたのだ。英語に関していささかの自信を抱いてしまうのは、さほど不自然な事ではないだろう。
それが。
読めない。さして難しい英文だったとは思わないが、読めない。単語が、わからない。
咄嗟に、マスター夫婦に「辞書を貸してほしい」と嘆願した。しかしそこには辞書はない。困った。
助け舟は意外な所に転がっていた。傍らにいた別の客が、「今時の携帯電話には辞書機能がついている」と私に教えてくれた。「成程」、合点した私は自らの携帯電話(別名:ヌンコマレ蔵)をピチュピチュといじると、花弁の奥、核心部分にその辞書機能は潜んでいた。
辞書さえあれば怖いものはない。多少時間はかかるが本は読める。それは誰だってそうだろう。
私が驚愕したのは、私自身のその英語力の衰えである。まず間違いなく、数年前の私にとってはさほど難しくない英文であった筈なのに。
日々英文に触れていた過去と触れていない現在。その隔たりは確かに存在した。
英語に限った事ではないと思うのだが、日々触れる事、これに勝る上達はないのではないだろうか。逆に言えば、遠ざかる事、これに勝る下達の道もない。少なくとも技術的な部分では。
久し振りに読んだ英語で、そんな事を考えた。
また少し、英語読み始めようかなあ。
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