ライブスケジュール更新
あ、あと、プロフィール欄のライブ情報更新しました。
ライブに来て下さいね。
深夜の一人宴会。
どうしても一品だけツマミがほしかったので、自作する。
ネギをざくざく切って、そいつをごま油で炒める。最後に醤油をさっとかける。
↑マズい訳がないよね。
事実、死ぬほど美味い。
チューハイ呑んでたんだけど、焼酎にしーよーっと。
北海道より友人ツネキが出張の仕事により来京。当然のように酒を呑みに繰り出す。舞台は我が街、小岩。小岩在住の友人ヤマも合流し、29歳男子三人の珍道中がスタートする。
先に言っておこう。今は酷い二日酔いだ。
まず初めに向かったのは、小岩では最高級の居酒屋、「源八船頭」。あしたばの天ぷら、鰈の唐揚げ、カンパチの刺身に浅蜊の酒蒸しなどの絶品料理をつまみに、ビールと日本酒をくいっといく。劇的に美味いが、お会計は9000円。つまり一人3000円。安い。
呑みながら、本日はこの後どういったコンセプトで呑むか、という事に話題が及ぶ。出された結論は、「小岩のB面で呑む」という事であった。
B面。それは闇の部分。
B面。それは月の部分。
ハキダメのような呑み屋で、チンカスのような会話をつまみに、目が潰れそうな安い酒を呑む。これがB面の正しい愉しみ方なのである。
ここから先は、店名などは直接は出せないが、どれも個性派揃いの店ばかりである。どうしても店名が知りたい方は、私に直接「Bメンデノミタイ」という文面のメールを送ると良い。連れて行ってやるぜ。
まずは、チューハイが100円という激安プライスの某店へと向かう。何故これほどまでに安いのか。勿論理由は「マズいから」である。もう感動するほどにそのチューハイはマズい。レモンハイもマズい。これを「マズいマズい」と言いながら呑むのがオツなのである。かつて中島らも氏は「全マズ連」なるものを結成し、マズいものを探求し続けるという独自の活動を展開していたが、その「全マズ連」も納得のマズさである。そしてそのマズさに見合った価格設定。素晴らしい。
集まる客の品性も、すこぶる低い。初対面の酔っ払いオヤジから訳の分からない説教を食らうことも少なくない。海外に赴いて女を安く買っているだけのオヤジが世界を語る(俺はワールドワイドな視点を持っている、的な)光景、神取忍をブサイクにしたような面白フェイスの女と酔っ払ったオヤジとのディープキスという目を背けたくなるような光景。そういったネタには事欠かない。ちなみに冒頭に添付した写真は、その店のトイレだ。誰が乗るんだそんな所に。
そこから先はイマイチ記憶があやふやだ。スナックに行った。バーにも行ったっけか。
そうだ、「ものすごく汚い店」にも行った。
その店の特徴は「ものすごく汚い」という一点である。何を呑んだのか、幾らだったのか、そういった事は覚えていない。けれど、ものすごく店内が汚かったのは覚えている。そこで汚らしく酔っ払った私は、私達よりも先に店にいた汚い酔っ払いオヤジとケンカをしていた。多分問題ない。
その後は、朝起きるところまでは記憶がない。私の部屋で寝ていた筈のツネキがいなかったが、きちんと飛行機には乗れたのであろうか。
B面呑みは、面白いなあ。
そうそう、WBC、日本の優勝で幕を閉じたた。ここまで当ブログにもちょこちょこWBC関連の記事を書いて来たので、それの総括を。
〈総括〉
・バックネット裏に伊良部がいたのが面白かった
・解説の佐々木の顔のデカさがハンパなかった
以上
仕事が13:00からだったのに、何故か間違えて11:30に千駄ヶ谷に来てしまう。そろそろ若年性アルツも重症なんだろうかと苦笑い。仕方がない。喫茶店で暇をつぶす。コーヒーをこぼす。眠い。厄日。
たまには普通のエッセイでも。
エコを標榜する方々が生理的に苦手だ。その事について。
エコが嫌いな訳ではなく、それに過剰な正義を見いだす人々が苦手、という話だ。
温暖化、生態系の破壊、地球環境の汚染。そういったものに私も微小ながら危惧感を抱かない訳ではない。例えば私は魚釣りが好きだけれども、江戸前の鯊などは私の少年期に比べれば魚影も明らかに薄くなっていると感じる。環境破壊の影響は、日常的な部分で感じている。そういったものにどこかで歯止めを効かせなくては、とも思っている。
ただし、傲慢で身勝手な「人間」である私は、さほど大きなアクションを起こす事は出来ない。出来る事は些細な事だ。なるべく割り箸を使わないとか、エアコンは必要以上に使わないとか、そういった些細なレベル。でもそういう事でもしないよりはマシだろう、ぐらいにしか思っていない。
極論を言ってしまえば、人間が絶滅するのが地球環境にとっては最良なのではないか、どこかでそう思っている節のある私は、結局の所全部その場しのぎの妥協案だろ、と思ってしまっている。先に書いたように、それでも「しないよりはマシ」とは思っているのだけれど。
エコに纏わる種々のアクションというのは、善悪などではなく脊髄反射的に出来れば良いな、と思う。食事の前後に「いただきます」と「ごちそうさま」を言うように、それが「良い悪い」という判断を下すよりも先に、一種の習慣として「体が勝手に動いている」というように。
例えば、これがエコなのかそうでないのかも判然としないのだが、「食べ物を捨てる事」が私は非常に嫌いだ。故に、昨今の食品偽装問題などに対しても、「賞味期限なんて少しぐらい過ぎたって問題ねえよ、産地がどこだって大して変わらねえよ、黙って捨てずに食えよ」と、乱暴な言い方になってしまうが、そういうような気持ちがどこかで強くある。それは当初、「そうした方が良いから、捨てるのは良くない事だから」という善悪判断に基づいていたのかも知れない。が、少なくとも今現在は善悪判断などではなく、単純に好き嫌いみたいな問題として、「食べ物を捨てるのは何となく気分が悪い」というレベルでそれを感じている。日本人が北枕で寝るのを嫌がるのと大差はない。
私のその認識には、当然細部への配慮などが綺麗に欠けている。つまり、そういった食品関係の仕事に従事する個々人の視点が欠け、ほぼ独善的な視点に堕している。それは承知しているが、独善ついでに言えば、「それで良いではないか」と開き直っている。「何が悪いの?」と。
閑話休題。
エコを標榜する方々に対して、私が名状し難い違和感を抱く原因の一つに、そうやってエコを標榜する事によって自らが正義の立場に立っている、というような自尊をどこかに感じるという事がある。
「私(私達)は、地球環境の為に、つまりは他者の為に思慮深く考えを巡らしています。そしてそこから導き出された結論、これが正しくない筈がない。何故我々の提案に従えないのか」という自尊。これが何とも言えず鼻についてしまう。
挙げ句の果てに「エコに反するものは悪である」という視点に立脚する者まで出る始末。そうなった時には「ちょっと待てよ、それっておかしくねえか」と心中毒づいてしまうのだ。
地球環境が良くなる事を私も祈っている。けれどそれは未来の私達の子孫の為に、などという立派な動機ではなく、夏には江戸川で鯊がたくさん釣れますように、とか、東京湾の鰈が秋から冬にかけての風物詩であり続けますように、などといった矮小で俗物的な動機からだ。
でもそんなもんじゃいけないのかなあ。
全く纏まらないけれど、お終い。
レッスンの時間です。
そうそう、全然関係ないのだけれど、先日家のレコードとCDを整理していたら、以外なほどオスカー・ピーターソンとレッド・ガーランドのCDが多くて驚きました。各30枚ぐらいずつあった。レコードではエロール・ガーナーとジョン・コルトレーンが多かった。たまに整理すると愉しいですな。
何回かに渡ってWBCの観戦記を綴って来たが、本日ほぼ大勢が決した。
日本の優勝がほぼ確実なものとなった。
その要因とは、本日の韓国戦において負傷退場した横浜ベイスターズの村田修一内野手である。
次戦以降の出場が微妙となった村田内野手に代わり、急遽広島カープから栗原健太内野手が日本代表に召集される事となった。これにより、日本の優勝がほぼ確実なものとなった。
決して村田内野手が悪い、と言っている訳ではない。栗原健太があまりにも「良過ぎる」のである。「KONG」のニックネームで我々広島カープファンに親しまれる栗原健太(背番号5)は、現在日本球界において最も勝負強く、そして最も信頼のおける右の大砲である。彼を呼んだからには、優勝は既に手中に在ると考えて問題ない。
残り、勝ちが見えているが為にいささか興に欠ける試合とはなるが、観戦における心構えを私がこの場を借りてレクチャーさせていただきたい。
まず、栗原健太選手の打席についてであるが、基本的な観戦の姿勢としては
「打っても打たなくてもどちらでも良い」
というスタンスを貫いて頂きたい。栗原が日本代表のユニフォームを着て打席に立つ、その姿を愛で、うっとりと恍惚に浸って頂きたい。仮にチャンスに凡退などした所でも、「それもまた一興」と悠然と構えていなくてはならない。栗原が加入する事でほぼ勝敗の決してしまったゲームに興を添えているだけなのだ。
また、応援の際には、赤いメガホンを力の限り殴打しながら
♪鍛え上げたパワーで敵を一瞬に撃破
今日も明日も頼むぞそぅ!我らの栗原ー!
という応援歌を声の限りにシャウトして頂きたい。その辺のヘヴィメタルバンドのヴォーカルなぞに負けないほどの大声でシャウト、これが必須である。無論、お約束のスクワットも忘れてはいけない。
守備の際、恐らくは一塁での守備となると思うが、彼が華麗なプレーを披露した際には(栗原は結構守備も巧い)、男性諸君は股間のマグナムをいきり立たせるほどに興奮しなくてはならぬし、女性諸氏はヌンコをマれさせつつそのプレーの余韻に浸らなくてはならない。「ああっ、これ何てダイビングキャッチ!?(ジュン・・・!)」といった塩梅である。万が一エラーを犯した時にも、菩薩の如き柔らかな視線を絶やしてはならない。何せ、我らの栗原なのだから。
私は冒頭に「ほぼ」優勝が決定した、と書いた。そうなのだ、まだ「ほぼ」、なのだ。「ボボ」、ではない。「ほぼ」、である。確実ではない。
もし仮に今回の追加召集の際に、抑えの守護神である永川勝浩(背番号20)と、鉄壁の二塁手の東出輝裕(背番号2)を同時に召集していれば優勝確率は95%から120%に上がっていたであろうし(ちなみに栗原が呼ばれない際の優勝確率は2%。福島野球研究所調べ)、更にそれに加えて神様前田智徳(背番号1)を召集などしてしまえば、優勝確率は未曾有の5億%となっていたが、それではやはり大会も盛り上がりに欠ける。彼らが呼ばれなかったのは、そういう意味で仕方が無い。同様に石原慶幸(背番号31)を控えに甘んじさせているのは、原監督のそういった裁量であろう。
栗原の緊急招集により大勢の決してしまったWBCであるが、今暫らく戦況を見守る事にするとしよう。
やあ、もう楽勝だなあ。
500年もの昔、桶狭間の戦いと呼ばれる合戦があった。
二万五千もの大軍を誇る駿河の戦国大名今川義元を、尾張の織田信長率いる三千弱の軍勢が撃破した、歴史上最も華々しく奇跡的な合戦だと言われる戦いである。
本日私はWBC(ワールドベースボールクラシック)日本対韓国戦を観戦しつつ、その合戦の事を思った。
結果は4対1により韓国の勝利、スコアだけを見れば完敗という事になる。
私見も随分とあるが、事前の戦力のみを総合的に判断すれば、日本代表の方が幾分も上である、と私は思っている。つまり、軍勢としては日本の方が優勢である訳だ。桶狭間を再び持ち出すならば、日本代表は今川義元軍である。無論、今川−織田ほどの戦力差は日本−韓国にはないが。
織田信長が桶狭間の戦いにおいて勝利を収めた一番の要因は、「負け戦の自覚」であったのではないだろうか、と私は考えている。「そもそも負け戦なのだ、何でもしてやろう」という気概だ。創意工夫を凝らし、敵の本陣に奇襲を掛ける。これが見事に当たった。天候が味方したとの記述も文献にはあるが、作戦のみで勝利出来るほどの微小な戦力差ではない。明暗を分けたのは、その作戦を実行する兵士の士気が大きく関与しているというのが見方としては妥当だろう。
兵士の士気、そして心情。それらは全て想像の域を超える事はないが、敢えて想像するに、「所詮は死んだようなものだ、やれる事は全てやってやろう」という心境だったのではないだろうか。
死を覚悟した人間の強さ、それは我々の想像を絶する。躊躇や困惑、そういったものは一切ない。所詮は死ぬのであるから。所詮死ぬのであれば、敗走して背後を斬られるよりは、敵と向き合って正面から斬られよう、斬られるまでは何でもしよう、恐らくはそういった心持ちであろう。
それに近いような気概を、私は本日のWBCにおける韓国代表に見たし、そういった面では日本代表は圧倒されていた。そもそもは勝ち戦だった筈が、負けるべくして負けたのではないだろうか。
初回、韓国代表の攻撃。ノーアウトからヒットで塁に出たランナーは早々に二盗。キャッチャー城島の送球が多少高めに浮いた事にも助けられて盗塁成功。ノーアウト二塁の好機を作り出した。
この結果自体はさしたる問題ではない。問題は、少しでも先の塁を狙おうという姿勢そのものにある。本日の韓国代表にはその姿勢が顕著にあり、日本代表はそれに比してあまりにも足りなかったという事だ。
結果として韓国代表は初回のその好機を拡大させ、三点を入れる事に成功した。それはあくまでも結果でしかない。
勿論、その盗塁が失敗に終わっていれば結果は異なるものとなっていたかも知れない。しかし、そこには「正面から斬られよう、何でもしてやろう」という心意気が見て取れた。まさしく、武士(もののふ)の心意気である。
今回のWBC、日本代表には「侍JAPAN」などというニックネームが冠されている。このニックネームを解説者が連呼する度に私はいつも苦笑を禁じ得ない。これは何かの揶揄なのだろうか、と。
武士道とは、死ぬる事と見つけたり。
誰の言葉だかは知らないが、読者諸氏も聞き馴染みのある言葉だろう。
決死の覚悟を有する事を武士道とするならば、その意味においては韓国代表の方が多分に武士道を体現しているではないか。私はそう感じた。日本代表にその覚悟が微塵もない、とまでは言わないが、どちらが多分に、と問われれば、それは韓国代表だと答えざるを得ない。
もし仮に、ファッションとして「侍」という言葉を使っているのであれば、荒唐無稽、笑止千万の沙汰である。侍とはファッションなどではなく、心意気ではないだろうか。桶狭間における織田軍が有した決死の覚悟、それに卑近なものを有していた韓国代表には負けるべくして負けた。
個人的には九回表の攻撃時、稲葉が先頭打者として塁に出た後に、バッター石原の場面での代打阿部、これが解さない。仮に阿部が打ち同点もしくは逆転まで漕ぎ着けた所で、その裏の回に誰にマスクを被らせるつもりであったのだろうか。肩を負傷し送球のままならない阿部が守っていたならば、それは万全とは言い難い。石原をそのままバッターボックスに送り出すべきだったろう。石原慶幸のバッティングは、決して悪くはない。長打力では若干阿部に引けを取るが、確実性だけを見れば良い勝負だ。何と言っても石原慶幸は我らが広島東洋カープの正捕手なのだ。赤ヘル魂を舐めるな。クソボールに向かって飛びつきながら打つ「忍者バント」なる得意技もある。そもそも、カープの不動の四番打者である栗原健太を代表落ちさせた事からもわかるように、原監督はカープを舐めきっている。ペナントで痛い目を見るが良い。昨今のオープン戦における栗原健太は、「確変モード」とも思えるほどに打ちまくっている。恐らくは巨人との開幕戦でも打ちまくるに違いない。背番号5番、今日も明日も頼むぞ、そう我らの栗原。
カープに対する身贔屓を基にした原批判がしたかった訳ではないから、この話題はここまでにしよう。
韓国代表が決死の覚悟を有するきっかけになったのは、やはり第一次予選でのコールドゲームだったのではないだろうか。あの屈辱を噛み締め、敗因を徹底的に分析したからこそ、前回と今回の好ゲームを作り出す事が出来た。
本日の敗戦から何も変わらないようでは、日本代表の今後は暗い。
カープファンである前に一野球ファンとして、今後の日本代表の奮起を心より期待したい。
でもなあ、栗原と永川がいれば勝ってたんじゃねえの?なんて思うんだけど(笑)
関西での仕事も一段落つく。東京へ帰る道すがら、暇を持て余してブログの更新。
関西にいるのは楽しい。気心知れた友人も多いし、気分的にも楽なのだけれど、やはりどうしても一つ、長居が出来ない理由もある。
ピアノの練習が、出来ない。
ライブの本番前などに、一時間程度早く店に入って練習する事は出来るが、それは量と質双方の面で練習としては不満足なものになる。それは仕方がない。では、日中などに集中してまとまった時間練習しようと思えば、どこかの音楽スタジオでも借りるより外ないのだ。ピアノという楽器はこういった部分で不便だ。河原で練習出来る管楽器にこういう時は憧れてしまう。東京にいる時ならば、自宅でいくらでも練習出来る。しかし、出先の関西ではそうはいかない。
こういった状況に直面した時に、私はいつもある一つの事を思う。今の私にとって、極めて重要な問題だ。それは、
「私が練習をしなかった所で、誰も困らなければ、誰からも怒られない」
という事である。
私は、身分を訊ねられれば「音楽家だ」と答えるより外ない。しかし、この音楽家という身分は、良く言えば「自由」であるし、悪く言えば「不安定」である。
ピアノ講師としての私は、現在音楽教室にも「所属」しているが、音楽家としての私は原則としてどこにも所属していない。つまり、音楽事務所のようなものには所属していない。事務所に所属する事は、良いことだとも悪いことだとも思わない。実際の所、よくわからない。良いのかも知れないし、悪いのかも知れない。何とも言えない。
どこにも所属していないということは、どこかからサラリーを貰う立場にない、という事を意味している。労働の対価を貰う立場ではなく、商品を売る立場、私は自分の立場をそう認識している。商品とは、音楽であり、それに纏わる知識や技術だ。私という音楽家の立場は、商店に似ている。
仮に商店が仕入れを怠り、品質管理を怠った場合、その後にはすぐに倒産というシビアな結果が待っている。不景気のこのご時世、少しでも気を抜けば、個人商店など中学生男子のニキビより簡単に潰れる。それと私も同じ事なのだ。
仮に私が日々の練習を怠った所で、誰も困らない。私の換えはいくらでもいる。私が怠けていて下手になったら、他のピアニストを連れてくれば良いのだ。はっきりとした自覚がある。私は到底「only one」などではなく、ありふれた「one of them」なのだ。
これまでにも数回、私の実力不足、努力不足の為にバンドを降ろされた事はある。それは冷静に考えて、どこまでも賢明な判断である。確かに賢明な判断ではあるが、当の私の悔しさたるや、決して尋常なものではない。悔しさと情けなさにまみれながら、それでも私はその度に、這い上がってきた自覚はある。私の一番の長所かも知れない。抜群に打たれ強いこの一面は。
そして、そうやって這い上がる為の根拠となり、今の私の生活を支えている生命線は、何はなくともまず「練習」なのである。練習をしてきたからこそ今の私があり、そこを疎かにした時点で未来は全て絶望へと帰す。そういった自覚が常にある。
無論、練習の方法とは多様である。私は現在三つの方法論で練習メニューを構築している。詳細を書く事は出来ないが、その三つのキーワードは「身体」「耳」「脳」である。これら三ヶ所は、別々に鍛えた方が良いというのが私の現時点での結論なのだ。どこを欠いてもならない。まさしく音楽における三位一体の要素だと私は考えている。
具体的な方法論はここでは置いておくとするが、闇雲にやらずに常に「考えながら」の練習というのが私の思う練習だ。少なくとも「考える癖」をつけるだけで随分と変わる。これは嘘ではない。
練習方法を自ら考えるだけでも随分と愉しい。時には誰かの話や本で読んだ知識からヒントを得たりもする。実験台は自分だ。
練習を怠けても誰からも怒られない。ただ単に、死ぬだけだ。
そうやって考えると、とても痛快だ。
また、明日から新しい音楽生活が待っている。
ちなみに今気になっているのは「クールサウンドの発音構造」。これをちょっと探ってみたい。最後がマニアックで申し訳ない。
こんにちは、福島剛です。秘書日記シリーズ、思いつきのみの企画でしたが、早々に飽きが来てしまいましたので、秘書二人は涅槃に旅立ったという事にしておきます。という事で以下、通常の日記を。
昨日、京都深草「ざぶざぶ」でのライブの前に、出町柳のジャズ喫茶「ラッシュライフ」に寄った。一息入れて、落ち着いてからライブに向かおうかな、という魂胆で。
「ラッシュライフ」は、私が京都に住んでいた際に、ほとんど毎日のように足繁く通っていたジャズ喫茶だ。かかっている音楽に申し分のない事は言うまでもないが、それだけではなく、非常に「居心地が良かっ」た。こうして言葉に表すと陳腐に堕す。アットホームな、であるとか、暖かい空間、であるとか。私の言葉では表層しかなぞれない。見当違いな言葉ではないのだが、核心はつけない。難しい所だ。仕方なく、「とても良い店だ」などと小学生のような語彙で説明するより外なくなる。言葉は難しい。
その「ラッシュライフ」で、「お前英語読めるやろ」といって渡されたのは、ある英文の文庫本であった。
私が折に触れて当ブログでも紹介するピアニスト、ランディ・ウェストン。彼の思想や理念を紹介した箇所が数ページにわたってある、との事で、読ませて頂いた。
結論から先に言ってしまえば、それは大変に興味深い記述であり、より一層ランディの音楽観や宇宙観を把握する為の手掛かりとなった。音楽と宇宙の繋がり、そして生命から自然発生的に湧き出る音楽、という哲学。ものの弾みで哲学、という言葉を用いたが、そういった音楽と宇宙との関連性について語る時のランディ・ウェストンは、どこか哲学者然としていた。宗教家というよりは、哲学者。私はそう感じた。無論、素晴らしい音楽家であるというのは大前提であるが。
さて、その記述の中身に関しては、ここではこれ以上は触れない。もう少し私が自分の中で昇華させる必要があるからだ。またの機会に。
先ほど、その本に関して「英文の」、と書いた。そうである、それは英文の本だったのである。そして私は英語が読める、そんな勘違いをしていた。
当然日本語を読む時のようにスラスラと読める訳がない。それでも大半は読めるであろうと高を括っていた。己の英語力を過信していた。
生まれてすぐによちよちと歩き出し、天と地とを指差して「天上天下唯我独尊」と言った、など、その種の伝説には事欠かない私である。信じるか信じないかはこれを読んでいる方の勝手だ。私は信じていない。そんな私の伝説の一つに、「大学を卒業するのに異例の九年を要した」というものがある。通常の人間ならば四年で修了するコースに九年をかけるという、念には念の入れっぷりたるや、まさに異形にして豪胆。九年の殆どを飲酒と博打に費やしたという事実からは全力で目を背けたい。そして九年もの歳月をかけて学んでいたのは、他ならぬ英米文学であった。つまり、中学校の教科的に考えれば、音楽は別に置いておくとして、私の専門分野は英語という事になる。中学高校の六年間をプラスすれば、都合15年間、英語を学んできたのだ。英語に関していささかの自信を抱いてしまうのは、さほど不自然な事ではないだろう。
それが。
読めない。さして難しい英文だったとは思わないが、読めない。単語が、わからない。
咄嗟に、マスター夫婦に「辞書を貸してほしい」と嘆願した。しかしそこには辞書はない。困った。
助け舟は意外な所に転がっていた。傍らにいた別の客が、「今時の携帯電話には辞書機能がついている」と私に教えてくれた。「成程」、合点した私は自らの携帯電話(別名:ヌンコマレ蔵)をピチュピチュといじると、花弁の奥、核心部分にその辞書機能は潜んでいた。
辞書さえあれば怖いものはない。多少時間はかかるが本は読める。それは誰だってそうだろう。
私が驚愕したのは、私自身のその英語力の衰えである。まず間違いなく、数年前の私にとってはさほど難しくない英文であった筈なのに。
日々英文に触れていた過去と触れていない現在。その隔たりは確かに存在した。
英語に限った事ではないと思うのだが、日々触れる事、これに勝る上達はないのではないだろうか。逆に言えば、遠ざかる事、これに勝る下達の道もない。少なくとも技術的な部分では。
久し振りに読んだ英語で、そんな事を考えた。
また少し、英語読み始めようかなあ。
こんにちは、極左ピアニスト福島剛先生の第一秘書を務めております羽目山羽目太郎(はめやまはめたろう)と申します。前回の記事で私と第二秘書の蜜壺濡子(みつつぼぬれこ)の事が軽く触れられておりましたが、こうして先生に代わって執筆させて頂くのは初めての事です。以後お見知りおきを。
只今朝の7:00前。先生は部屋で未だにレモンハイを呑んでいらっしゃいます。石田ゆり子の写真を見ては、股間に手をやったりやらなかったり。私としましてもいささかうんざりです。
痛いほど飲むと書いて痛飲、泥のように酔うと書いて泥酔。
先生には早く人の痛みのわかる大人になっていただきたいです。
さて、先生は本日から京都です。
私がブログ更新にあたって最初に命じられた事は、先生の今回の京都滞在におけるスケジュールをアップせよ、との事でした。そうです、ライブ等のスケジュールです。他人任せにした上で、本人は泥酔とは誠に片腹痛いです。人の命の価値というものが、普遍的に如何なる価値を持つのか、私にはわかりかねる部分もあるのですが、少なくとも目の前のこの男には、価値という言葉はあまり似合いません。お父上の精子時代からやり直して頂きたく思います。
元々は、明日14日(土)に京都深草は「ざぶざぶ」にてカルテットでのライブが一つと、日曜日に結婚式の仕事があるだけだったとの事ですが、急遽一件、セッションホストを依頼されたようです。本日3月13日(金)の深夜0:00より、京都祇園ピックアップにて、セッションホストをやっているそうです。詳細を先生に聞きたかったのですが、私が「先生、本日のセッションのチャージは幾らですか?」と聞くと、濁った目をしながら「二兆円」と呟くばかり。「お店の電話番号は?」と聞くと、股間辺りをまさぐりながら「1、1、0」とのたまいます。流石の私も音の速さで鈍器のようなものをしっかと握りましたが、その後、譫言のように「バンゲリング・ベイがやりたい…バンゲリング・ベイ…」と往年のクソゲーの名前をぶつぶつ言っている様を見るにつけ、私も可哀想になってまいりまして、仕方なく2コンのマイクに向かって「雨の新開地」を熱唱した次第です。
そうそう、本日のセッションのチャージは凡そ2000円前後だとは思いますが、不安な方は「京都祇園ピックアップ」というキーワードでヤフーでググれば完璧です。各自、頑張って調べてみて下さい。
先生は現在、少々元気を取り戻したようで、先程から第二秘書の蜜壺濡子(みつつぼぬれこ)に向かって元気良く「おぅ、しゃぶれぃ!」を連呼しておられますが、完全に無視されています。
「お気の毒な方」という言葉が私の頭から離れません。
本日の私の更新は以上です。京都への道中、第二秘書の蜜壺濡子(みつつぼぬれこ)が更新をするやも知れませんが。
それでは皆様、また来世で。
羽目山拝
ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったテレビゲームのジャンルを、RPGと呼ぶ。ロールプレイングゲーム。つまり役割を演じるゲームという事だ。
街から街へ、そして次の村へ。主人公達は旅を続け、様々な出会いと別れを繰り返していく。
各街には、必ず入り口付近で街の名前を紹介する町人というのがいる。
「ガバマンの村へようこそ」
「こんにちは、ここはクリトリスの街だよ」
「ようこそ旅の人、ここは珍羽目の村です」
等々。私はあの人達のようになりたい。
昼夜を問わず、街の入り口付近を無意味かつ不条理に徘徊し、喋る内容は街の名前の紹介のみ。そんな風にして生きていきたい。
そうそう、近々こちらのブログの執筆を、数人で分担させる事になると思いますので他の執筆陣を次回更新時にでも挨拶させますね。羽目山羽目太郎という男性と蜜壺濡子という女性の二人です。二人とも当ブログの執筆をとても楽しみにしているとの事です。
あー早く我が家にテポドン落ちてこい。
絶賛体育座り中の福島剛がお届け致しました。
昨日は、夜間のレッスンが急遽キャンセルだった為、再び落ち着いて野球の国際大会、WBCをテレビでじっくりと観戦する。再び日本−韓国戦。結果としては、0−1で日本の敗戦。
今回は野球について長々と書くのは控えよう。しかし、あくまでも素人目線からではあるが、原監督の采配に関しては拭えぬ違和感が。
・何故絶不調の岩村に代打すら出さない?
・リリーフの藤川の前にワンポイントで山口を挟む必要性は?
・一点ビハインドの8回裏、中島で送りバント?
他にもいくつかあるのだが、とりあえずはこんな所。全体的に、チーム内において、日本人メジャーリーガーを過度に特別視しているという印象。メンツにこだわるのではなく、勝ちにこだわれというのが私個人の意見なのだが。
ただ、昨日はいかんせん韓国投手陣が素晴らしかった。半ば仕方がないという気もしている。
さて、本日は初めてのお店、大塚all in fun というお店でハーモニカとのデュオ演奏。お暇な方は是非いらして下さいね。詳細は、数回前の日記をご参照下さい。
野球の国際大会、ワールドベースボールクラシック(WBC)が開幕した。
我らが広島カープからは、候補選手の時点で栗原、永川、石原の三選手がエントリーしたが、結局最終メンバーには捕手である石原のみが残留。私自身はいささか不満の残る人選であったが、様々な要素を勘案するに、不満ながらも納得する。
栗原健太という男は、近い将来日本の四番を背負って立つ打者であると断言出来る。今回の選考結果は、将来の事を考えて妥当だと思う。
さて、初戦の中国戦こそ私もライブをしていた為に観戦する事は能わなかったが、昨日の韓国戦はのんびりと自宅テレビにて観戦。14対2の7回コールドゲームという予想外の決着に驚愕した。
相手の左投手を想定して先発出場した横浜の村田と内川が文句ないほどの結果を残し、原監督の采配がズバリ的中した結果となった。
上記二人に関してもそうだが、一番ライトで先発出場したイチローの技術、またその駆け引きの妙に私は随分と関心させられた。
初回、先頭バッターとして打席に立ったイチロー。いきなりのライト前ヒットで攻撃の口火を切ったが、この打席には感嘆の息を洩らさずにはいられなかった。
第何球目かは失念したが、ファーストストライクである内角のストレートボールをイチローは見逃した。結果論になってしまうかも知れないが、この見逃しが後の大量得点を導く大きな要因だったのではないだろうかと私は考えている。
イチローのバッティングを総合的に見れば、あの内角ストレートは手を出しても問題なかったと私は思う。しかし、そこを「敢えて」見逃した。狙うは相手ピッチャーのウィニングショットであるスライダーであった。直後に投じられたスライダーを綺麗にライト前に弾き返し、出塁となったが、内角ストレートを安易にヒットにするのと、ウィニングショットであるスライダーを弾き返すのでは、後の展開に大きな差が生まれる。
相手ピッチャーの心理としては、失投を打たれるのと、ウィニングショットを打たれるのでは心理的なダメージは全く違う。気持ちの切り替えが出来ない内に、二番中島、三番青木が続き、初回の三点という結果に繋がった。見事な攻撃であった。
それは一種のギャンブルであった。ウィニングショットというのは、極めて打ちづらいからこそウィニングショットたりえるのだ。実際、縦に割れるそのスライダーは、かなりの切れ味であった。それを打たれれば、当然投手に混乱が生じる。そこに付け込んだのだ。
初回のもう一つの見せ場であった六番内川の三塁線を破る二点タイムリー二塁打も非常に素晴らしかったが、その裏にはそういった相手ピッチャーの混乱が原因としてあったのではないだろうか。そんな勝手な想像を膨らませながら観戦すれば、とても面白い序盤戦であった。
正直に言えば、その後の大量得点により、私自身からは試合を観戦する上での緊張感は失われてしまい、後半はうつらうつらと眠りながらであった。ゲームとしては、ワンサイドゲームはつまらない。自分勝手な野球ファンの、自分勝手な理屈だ。
いずれにしても、昨日のような楽な試合展開は今後は到底望めないであろうし、今後の二次リーグも引き続き楽しみではある。日本代表の更なる活躍を心より楽しみにしたい。
さて、以下は全く別の話題。
珍しく自分のライブについての後日感想を。
数日前、高円寺のアフターアワーズという店でライブをした。共演はヴォーカルの「おおたりこ」さんという方。
おおたさんとは全く面識もなく、急遽ピアノの伴奏者を探していた彼女から人伝いに演奏を依頼され、当日本番となった。
正直に言えば、さほど期待もしていなかった。彼女の歌は聴いた事がなかったし、過度の期待をしていって裏切られる事を恐れていたのか、「今日は大人しく歌の伴奏かな」という、それぐらいの気持ちで臨んでいた。
蓋を開けてみて驚いた。
あまり期待もせずにその日に臨んだ自分を心から恥じたくなるほどに、素晴らしい歌い手であった。
本番前に軽くリハーサルをした時点で、「あれ、この人ひょっとしてめちゃくちゃ良くないか」と思ったが、本番の一曲目、「Love is here to stay」を1コーラスも歌い終わらない内に、その思いは確信に変わった。「油断は厳禁だ、ボヤボヤしてると持ってかれちまう」と。私の中の危険察知装置が歓喜の警報をけたたましく鳴らしたのがわかった。
声質や音程、リズム感という表現力もさることながら、そこに内包される抜群の歌心、それは本当に素晴らしかった。
その歌を前に置いてピアノを弾かせていただく事は、何とも言えない至福であり、愉悦であった。これまでに歌と共演して、そういった思いを抱いたのは本当に数える程度だった。勿論嬉しくなった私は、演奏の面では完全に暴走した。なので、総合的な結果として、つまり音楽的に総括して良かったのか悪かったのかはわからない。仮に後悔した所で後の祭だ。アフターフェスティバルだ。が、途徹も無く愉しかった。それ以上でもそれ以下でもない。
ステージ後に話を聞けば、私とさして年齢も変わらないとの事。世の中は広い。素晴らしい音楽家がいるものだ、と感嘆せざるを得なかった。
彼女に関しては、普段どういった所で歌っているのかは知らない。けれど、このブログを読んでいる方で、ジャズヴォーカルのライブに興味をお持ちの方がいれば、インターネットなり雑誌なりを調べて彼女のステージを観に行くと良いと思う。素晴らしい歌手だ。
私も気を取り直して、日々の練習に取り組まなくてはならない。またいつ何時、そういった素晴らしい音楽家と共演するやもわからない。
その時の為にも。
ふと明日のスケジュールを手帳にて確認したら。
あー!明日はライブじゃないか!誰にも言ってなかった!
まさかのシークレットライブにしてしまう所だった!
これはやばい。という事で焦ってスケジュールの更新。小岩の漫画喫茶から。
ついでに3月、他のスケジュールも。
3月5日(木)東京大塚Espeto Brasil
tel 03-5979-4433
http://espetobrasil.hp.infoseek.co.jp/index.html
harp:皆川和義 electric piano:福島剛
ブラジル料理とブラジル音楽のお店で、空気も読まずにブルーズとジャズを。空気っていうのは読むためにあるんじゃなくて、吸ったり吐いたりの為にあるんだぜ。この日はエレピです。
19:30~start music charge:1500円
3月6日(金)東京高円寺After Hours
tel 03-3330-1556
http://www.afterhours-1975.com/index.html
vocal:おおたりこ piano:福島剛
初めてのお店で、初めてのヴォーカリストさんと。どんな風になるのだか、ぼくも正直わかっていません。愉しくなればいいなあ。
20:00~start music charge:1800円
3月10日(火)東京大塚All in fun
tel 03-3987-6242
http://allinfun.jp/
harp:皆川和義 piano:福島剛
昨年出来たばかりの新しい綺麗なお店で、ハーモニカデュオ。グランドピアノなので、嬉しいです。弾き倒します。
19:30~start music charge:2000円
3月14日(土)京都深草ざぶざぶ
tel 075-642-6348
sax:黒田雅之 b:椿原栄弘 ds:副島正一郎 pf:福島剛
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zabuzabu/
伝説のドラマー、村上健三郎氏の経営する京都の名店「ざぶざぶ」にて、男臭いカルテットを。関西方面の方は是非。
19:30~start music charge:1800円
またこれ以外のスケジュールは追って掲載いたします。どうぞご来場ください。
あと、これだけの更新だと読み物としては寂しいので、来期の広島カープのスタメンオーダー予想(希望)を以下に。
1.(中) 赤松
2.(二) 東出
3.(右) 天谷
4.(一) 栗原
5.(左) 前田智
6.(三) シーボル
7.(遊) 梵
8.(捕) 石原
9.(投) ルイス
うーん、負ける気がしない。迷ったのは天谷と梵。天谷→嶋、また梵→石井琢、でも良かったのだけれど、やはり天谷と梵という二人の若手に覚醒してもらわない事には上位進出は難しいから、との理由でね。
あ、ライブ来て下さい、マジに。
4月1日より首都圏の駅は全面禁煙になるらしい。
何だかなあ。
喫煙者である私だけれども、この喫煙者と嫌煙者との軋轢というか、上手く共存出来ていない現状に対しては、比較的ニュートラルな立場を守っている、と自覚している。
軋轢の構造としては、双方の権利主張というシンプルな構造だ。喫煙者は喫煙の権利を主張し、嫌煙者は嫌煙権を主張する。お互いに折れる所がないから、結果として双方に疎んじ合い、憎み合うような事になっている。非常にナンセンスだ、と私は感じている。
こういった際に権利を主張する人間は、いつも思う事なのだが、自らの醜さという事は考えないのだろうか。
ヒステリックに権利を主張する人間を、軽蔑するとは言わないまでも、「カッコ悪い」と私は思っている。無粋であり、野暮だ。私には私なりの美学がある。その美学の見地から彼らを俯瞰した時に、ついつい「ダセえなあ」と思ってしまうのだ。
今回の喫煙問題のケース、具体的な権利主張とは以下のような事例となる。
・喫煙者による喫煙権主張
煙草はそもそも日本国家が認めた嗜好品だ。含まれる税金は重要な財源の一つに違いない。それが何故今更になってこうも喫煙を制限されなくてはならないのか。ふざけるな、不当だ!
(↑これに対する私の感想)
「良いじゃん、よそで吸えよ」
・非喫煙者による嫌煙権の主張
煙草なんてものを吸っている人間は害悪以外の何物でもない。その煙で他人の健康を害し、寿命を縮め、本人達はのうのうと臭い息を吐いている。社会から排除していくべきだ!
(↑これに対する私の感想)
てめえみたいのは長生きしても意味がないから早く樹海に行け。多分空気とかマジ綺麗だから。
いやいや、しかし。
何とも不毛な言い争いだな。
つまらん。
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