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2009年2月15日 (日)

わからないもの

自分の基準で(もしくは価値観で)物事を全て判断出来れば、或る意味で人生は極めて楽になるだろうし、また逆に言えばひどく退屈になる。私はどこかでそう考えている。

「わからないもの」に対して正直に「わからない」と白状する事は、決して悪い事ではない。自らの不勉強と無知を認める前向きな姿勢だ。

自然界に存在する全ての「音」を、我々人間には聞き取る事は出来ない。例えば犬笛のように。特定の動物にしか聞き取る事の出来ない音域や音色という物はおそらく確かに存在する。ある種の色彩や光に関しても同様の事が言える。それらは「聞こえない」し、「見えない」。我々人間の持つ、余りにも脆弱な各器官に判断を委ねてしまうのは、ひどく退屈だ。

「目に見えるものしか信じない」。そういった態度は、茫漠たる人生という原野を歩み進めていく上で一つの心強い指針になるやも知れない。一見して徹底したリアリストの如き態度である。しかし、それは前述のように、「聞こえざるもの」、「見えざるもの」に対する単なる無視の態度と言い換える事も可能だ。

私自身は、何かしらの特定の宗教を持たないが、見えざる神を「見えざるから」という理由のみで否定する宗教批判に対しては懐疑的にならざるを得ない。「わからないもの」、「見えざるもの」に対しても、寛容な態度を持ち続けたい、とどこかでいつも思っている。

千駄ヶ谷の音楽教室への出勤途中、電車の中で傍らに私の理解の範疇を超えた人間を見た。

一瞥して異国の血が入っている人間である事は容易に判断が出来た。白人であった。彼の出自は正確には判断しかねるので、仮にベルリン生まれのヨゼフとしておこう。嘗て悲しい歴史の為に東西に分断された祖国を出て、日本に美味いソーセージの作り方を伝えに来たドイツ人だ(と思う)。私のドイツ人に対する心証は、比較的良い。先の大戦において我々は共に敗北した。イタリア人に対しても同様だが、負けた人間の痛みを理解出来る人種は、概して優しいのではないか、そう思っている節があるからだ。

私は「ヨゼフ、君も異国の地で大変なのだろう、ゲルマン魂をいつまでも忘れる事なく、生きづらいこの日本の大地で、そのソーセージに関する知識と技術をもって一旗上げて、是非とも故郷に錦を飾ってくれ。アラバマのお袋さんもきっと喜ぶ筈だ」そう思っていた。

読みながら、お袋さんはベルリンではないのか?と思った人、そういった事は「枝葉末節」と言うのだ。細かい事は気にしてはいけない。私は「アラバマのお袋」という言葉が書きたかっただけなのだ。

さて、そのヨゼフ、鞄の中から携帯型音楽プレイヤーと二冊の本を取り出した。電車内での時間潰しでもするのだな。それはよくわかる。私もよく同様の事をする。私は最近では携帯電話のパズルゲームに興じるか、もしくはプロ野球カードを眺めながら、「へえ、広島カープの新進気鋭の外野手、天谷宗一郎は私と同じ誕生日なのか、今年は三番打者として一軍に定着してもらいたいものだな」などと感慨に耽りながら時間を潰す事もよくあるのだ。

ヨゼフは携帯型音楽プレイヤーのイヤフォンを耳に挿し、本を読み始めた。

どれどれ、何を読んでいるのかな?ドイツ人だから(多分)、フランツ・カフカでも読んでいるのかな?『城』、『審判』、『変身』、カフカの小説はいつでも私をあっさりと異世界へといざなった。素晴らしい読書体験であった。そんな事を考えながら、傍らのヨゼフの手元に据えられた本に一瞥をやった。

一冊は、辞書であった。

ん?何かを翻訳しつつ読むのか?流石に日本というこの異国の地にやってくるだけあって、異文化への貪欲な興味を抱いているのだな。大したものだ。私は感心しながらもう一冊の本に一瞥をくれた。

驚愕。

ヨゼフが読んでいたのは日本語で書かれた日本の漫画であった。

私も知っている『幽遊白書』、嘗て週刊少年ジャンプの全盛期を支えた漫画の一つである。彼は、それを独和辞典と共に、単語の意味を一々確認しつつ精読していた。

霊丸(れいがん)や、炎殺黒竜波(えんさつこくりゅうは)は、どう翻訳するのだろうか。大学で九年間もドイツ語を学んだくせに、「ダンケシェーン(ありがとう)」と「イッヒリーベディッヒ(私はあなたを愛しています)」しか覚えていない私は当惑した。

ヨゼフは、『幽遊白書』の単行本に書き込みを始めた。恐らくは、彼にとって読解困難な日本語に、訳をつけていたのだろう。勝手な推測だが、それは「マジ(本気、真剣、の意)」や「まっすぐいってぶっ飛ばす右ストレートでぶっ飛ばすまっすぐいって(以下略)」といった類の台詞だとは思うが、書き込みつつ精読をする彼の熱心な姿勢に、私はいささか心を打たれた。

その刹那、彼が耳に挿したイヤフォンから、音楽が漏れた。電車内は公共の場だ。もう少し慎まなければならぬぞ、ヨゼフ、などと私は心中でたしなめた。君が故郷ベルリンを遠く離れたこの日本の地でドイツ語の歌が恋しくなるのはわかる。大方、ミハエル・ヴェルトゲンシュタインの歌う「ソーセージ数え歌」や、ヨハン・シュタルクツィッヒの歌う「ドイツ人にはデブが多い」でも聴いているのだろう、と私が耳を傾けると…

……

こくな…

ーゼ……

私は耳を疑った。日本語が、聴こえる。

ヨゼフは手元のリモコンで、ボリュームを若干上げた。

はっきりとわかった。ヨゼフが聴いていたのは、高橋洋子の歌う『残酷な天使のテーゼ』であった。新世紀エヴァンゲリオン、であった。

少年が神話になった後、続けて流れ出したのは、「歌舞伎の人の嫁」でお馴染み、篠原涼子の歌う『愛しさと切なさと心強さと』であった。勿論、withTである。

ははあ、そうか、と私は合点がいった。

ヨゼフ、お前はソーセージの伝道師の仮面を被ってはいるが、さては「ヲ」の付く人種だな。「オタク」ではなく、「ヲタク」だな。

その時点で、ヨゼフは私の理解の範疇を超えた。そういった人間と相対した時に対処するべきサンプルケースは、私のストックの中にはなかったのだ。

しかし、先ほども述べたように、理解出来ないものを排除するのは、私は好きではない。私の理解を超えた所にこそ、私にとって有益な感性が潜んでいる、その可能性は極めて高いのだ。

私はヨゼフを受け入れる事にした。分断された祖国が、冷戦の終了と共に統一され、そして培ったソーセージの知識と技術を元に異国の地へと訪れた。日々の慰めにも向上心を決して失わないヨゼフは、翻訳された漫画ではなく、辞書を片手に原文の妙味を味わう。故郷の歌ではなく、日本のアニメソングを熱心に聞き8ビートに躯を揺らす。

誰も君を責めない。誰にも君を非難させない。安心してその道を歩めば良い。

私は、強くそう思い、彼を励ます意味を込めて、彼の傍らで「アインス、ツヴァイ、ドライ……」とドイツ語で数字を数え始めた。ちなみに10までしか覚えていない。勿論、ドライの倍数とドライが付く数字の時にはアホになっておいた。

私と彼は、千駄ヶ谷駅で別れた。

車内では一言たりとも言葉を交わしてはいないが、心と心とで多くの会話を交わした。そこには、言語を超越したコミュニケーションがあった。

私は心の中で山崎努もしくは高倉健よろしくニヒルに「ニーチェ」と呟いた。

彼は「アルバイテン」と返した(ような気がした)。

私達は、別れた。

補足であるが、私は腹を下しており、千駄ヶ谷駅のホームからトイレに駆け込むと、疾風怒濤の勢いで我が菊門(英名:アナル)から「炎殺黒竜波」を放った事を追記しておく。

理解の範疇を超えたものにも、かくの如く接するべきである。

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