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2009年2月

2009年2月28日 (土)

欲望の鬼

RCC中国放送から、広島カープの試合結果がメールで送られてきた。そうかもうそんな季節になったか、いよいよ冬も終わりか、と季節の移ろいに感じ入り、いささかもの寂しくなっていた所で、過日の突然の初雪である。少々面食らってしまったが、どこかで心を弾ませる私も在る。雪の少ない東京で生まれ育った私には、或る意味では当然の事かも知れない。

レッスンの合間の空き時間、ピアノの部屋は使用中で練習も出来ないので、近所のナチュラルローソンで黒烏龍茶を飲みつつ(デブなので)徒然にブログなどを更新する。

先ほど、目の前の通りを、小さな女の子が母親に手を引かれて、スカートをヒラヒラとはためかせながら通り過ぎて行った。その光景を見てやけに平和な気持ちになった。断っておくが、私は決してロリコンではない。年の頃ならば35が女盛り、というのが私の持論なのだから。

ナチュラルローソンに来る前に、ラーメン屋にラーメンを食べに行った。「千駄ヶ谷ホープ軒」である。特徴としては、親の敵のように入れられまくった背油、濃厚なスープ、極太麺、という頭の悪い代物である。おそらく開発した人間の偏差値は高めに見積もっても12が良いところ、というアホ全開の逸品だが、これがたまらなく美味い。胃もたれも肥満も何でもかかってきやがれ、という心持ちになる事が出来る。昔の人は「命短し、ラーメン食せよデブ」などと言ったものだが、やはりラーメンは生きている内に食べるべきだ。墓に着物は着せられぬ。地獄の果てで背油は飲めぬ、である。

ラーメン屋に独りで赴き、独りで一心不乱に油と共に極太麺を啜っていたその刹那、私の脳裏に天啓の様に一つのセンテンスが浮かんだ。

語り手は、お笑いコンビ「チュートリアル」の徳井義実扮する、ヨギータことヨギータ・サワディッカー・ラガシャーマンであった。

曰わく

「エゲツナーイー、食欲ヤデー」

私は我に返った。

確かに。

一心不乱に背油まみれのラーメンを啜る私のその姿は、まさに悪鬼羅刹、魑魅魍魎の如しである。不倶戴天の敵を討たんとする、まさに修羅ではないか。

それを考えると、私は独りでラーメン屋へと赴き、ラーメンをこっそりと食する事にいささかの後ろめたさを感じ始めた。

人間には三つの欲がある。

無論、食欲・性欲・海水浴である。鳥肌実が教えてくれた。多分、ビートルズもそうやって教えてくれた。みんな幸せになって良いんだ、人に迷惑さえかけなければね。

さて、食欲・性欲・海水浴である。先ほど私の中に湧き上がった理不尽なまでの食欲は、時には性欲に代わる事があるのである。勿論、海水浴に取って代わる事もあるが、今回はそれについては割愛する。

私は理不尽な衝動としての食欲を満たす為にラーメン屋へと向かった。それは、性欲を処理する為に風俗店に向かう男といかほどの差があろうか、と煩悶した。

結論としては、いかなる差異も無い。

つまり、私のラーメン屋での心象風景は、以下のように変換可能なのだ。

・「おっ、良いねー、あの背油、濃厚そうだなー、早く食いてえなあ♪」→「げへへへへ、あの娘の美巨乳、たまりませんなあ、うへへへ、むしゃぶりつきてえ」

・「極太麺、良いじゃないですかー、スープが濃厚な時は極太麺に限るよなー」→「さあて、おっちゃんのこの極太極楽棒の暴走を止めてもらいますかな、うへへへへ」

・「おっ、チャーシューもうめえ!」→「ローション素股はマジヤバい」

・「ネギ入れ放題かよ!サービス良いなあ!」→「時間内無制限発射かよ、荒野の早打ちガンマンをナメてんのか!」

・「あー美味かったー、食った食ったー」→「はあ…何だかタマキンが軽くなったような気がする…」

といった塩梅だ。

私はラーメン屋において何と下品な妄想をしていたのだろうか!もう絶望した!がっかりだよ!もううんざりだ!

という事で、今から「フグの中の食べるとアレしちゃう部分」と「ちょっとアレなトリカブト」を同時摂取する事で、涅槃に飛び立ちたいと思います。

皆さんは「ポアされて良かったね」という言葉をノートに五万回書いといて下さい。

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2009年2月21日 (土)

失われた狂熱

少年の頃、私の心をきつく捉えた種々の遊び。それらに心が躍らなくなったのはいつからだったろう。

それを考えると、少しだけ切ない気持ちになる。

例えば嘗ての公園。そこは私達少年にとっては至上の楽園であった。

かくれんぼ、缶蹴り、鬼ごっこ。

そういった遊びに夢中になった。学校が終われば一目散に公園へ向かい、日が暮れるまで脇目も振らずにそれらの遊びに没頭した。すごく愉しかったのだと思う。そんな風にして、日々を過ごしていた。

いつからか私達はそんな遊びをしなくなった。

それは何故なのだろうか。

代替する遊びを見つけたからなのかも知れない。30歳周辺の年代の方々ならばわかるかも知れないが、私達は示し合わせたようにその後ミニ四駆という車の玩具に夢中になり、ファミコンの虜となった。当時は如何にミニ四駆の車体をシャープに軽量化するかに心を砕いていたし、ドラゴンクエストの謎解きについて熱く語り合った。

そしてそれらも、今はもう、しない。

本当に様々な遊びが私の前を通り過ぎていった。通り過ぎ、去っていった。

取り分け何に夢中になったかを考えた時に、幾つか思い浮かぶものがある。

小学校から暫く十年と少しは、柔道という武道に夢中になった。少年達の永遠のバイブル『はしめの一歩』の台詞を引用すれば、「強いってどんな気持ちなんですか」という感情が私を突き動かした。前田慶次郎利益は「虎は何故強いと思う?元から強いからよ」と真理を口にしたが、虎ではない私はその「強さ」に憧れた。

日々トレーニングを積んだお陰で、私はある程度の屈強さを手に入れた。無論、「最強」などとは程遠い。しかし、鍛錬はさほど私を裏切らなかった。それなりの鍛錬にそれなりの結果が付いてきた。極めて妥当な因果関係があった。

大学の柔道部は、全くもって厳しい部ではなかった。週に3回から4回ほど青畳の上で汗を流し、まさしく柔道を「愉しんだ」格好だ。大学三年生の時に柔道部の主将を務め(確か私の代は部員が私一人しかいなかった為)、その任期が終わった辺りで柔道からは自然と離れていった。十年以上の選手生活があったが、誰かに誇れるような立派な成績を残した訳でもなかった。そして誰に惜しまれる訳でもなく、私は自らの選手生活に幕を閉じた。

こんな風に、上述のように書くと、私の柔道体験はいささか惨めなものであったかのような誤解を与えかねないが、実際の所それは違う。私にとってそれはかけがえの無い時間であったし、「暇を潰す」というレベルではなく、極めて有意義な時間としてその時間を過ごした。優秀で屈強な選手ではなかったが、そうではない私にも柔道は十二分に価値あるものとなりえたのだ。オリンピックに出て金メダルを穫るばかりが全てではない。価値観は多様で然るべきだ。当然、金メダリストには途徹もない憧憬の念は抱くのだけれど。

高校生ぐらいの時分には、日課のエロ妄想の傍ら、文学にも没頭した。小さな文庫本の中の大きな世界に想いを馳せるのが、日々の慰めであった。今では随分本を読む量も減った。

博打も好きだった。分不相応な金を理不尽に得たり失ったりする、その行為に熱中した。負けた時は悔しかったし、勝った時は有頂天になった。やはり最近では、その熱も随分と醒めた。

その後私にとって至上の遊びとなったのは、音楽であった。暫くするとそれが意図もしない方向に転がり、いつしか私の飯の種になっていた。不思議なものだが、その話は今回はしない。主題は別にあるのだ。

まるで人との出会いと別れのように、様々な遊びと出会い、そして別れてきた。遊びとは一度たりとも気まずい別れ方をしたことはないので、再会してもそれなりにはやっていける。今、かくれんぼをしても、ドラクエをやっても、いわんや柔道をやってもそれなりに、いや、随分と愉しめるだろう。しかし、そこにあるのは嘗ての熱狂ではない。ノスタルジックな懐かしさと、旧知の友と再会したような安堵感。恐らく私にやって来るのはそんな感覚だ。熱狂とは程遠いのではないだろうか。そんな気がしている。

さて、本題に移ろう。何て長い枕なんだ。

つい先日、私はある一つの遊びと惜別した事を悟った。

脳内の森山直太朗が、独特のコブシを効かせながら「さぁらぁばぁぁ、とぉもよぉぉいま、惜別のぉ時ぃいぃぃ」と歌っていた。その後、母である森山良子が「きょーおの日はー、さようならー、まーたーあーうー日までー」と脳内で歌っていた。親子揃ってぶっ飛ばしてやりたかった。

別れた遊び、それは、「独り宴会」である。

親愛の情と惜別の念を込めて、これ以降「独り宴会」の事は「HE」という愛称で呼ぶ事にしたい。

私とHEの蜜月の時は、私が18歳の頃、東京を出て京都で独り暮らしを始めた頃よりの事だった。

HEはいつでも私を暖めた。それは雪の降る寒い冬の日に優しく首に巻かれたマフラーのように。

HEの事を、私は時にTMと呼ぶ事もあった。それは「たけし祭」の略称だが、今回は割愛し、HEの呼称で統一しよう。

当時大学生だった私は、碌に大学へ通っていなかった。いや、大学には柔道をしに行ったり麻雀をしに行ったりしていたので、比較的足繁く通ってはいたが、授業には全く出ていなかった。大学三年生を終えた時には、授業の単位が20単位となかった所からもそれは想像に難くない。全てはHEとの逢瀬の為であった。

当時の私の生活には、柔道、麻雀、バイトぐらいの選択肢しかなかった。何をしたいのか、何をしていいのかもよくわからず、ただ、日々を消費していた。

家に帰ればHEが私を待っていた。今日は何のツマミでどんな安い酒を呑もうか。それを考えると、陰鬱だった私の心も躍った。

4リットルで二千円のビッグマン、大五郎。一本千円もしないウィスキー。そんなものをひたすらに呑んだ。鯨飲、という言葉はこういう時にこそ使うべき言葉なのだろう。

東京に戻ってからもそれは続いた。近所のモツ焼き屋で、煮込みをツマミに呑むハイボール。立ち呑み屋のレモンハイ。独りで酒場に繰り出せば、途端に静かな祭の開幕だった。

それがどうした事だろう。ここの所、HEがつまらない。独りで家でテレビを見ながら缶チューハイを舐めていても、読みかけの小説を読みながら焼酎のロックを呑んでいても、すぐに飽きてしまう。呑みたくもない酒を呑んでいる、そんな気持ちしか湧いて来ない。混沌と混乱と情熱が、どこかへと去ってしまった。

友人と呑み屋に繰り出せば、それは確かに飽くこと無き愉悦の場である。

しかし、独り。これに私の四肢が悲鳴を上げる。

それは私の成長の証しかも知れぬし、或いは単に私がオッサンになっただけやも知れぬ。兎に角、独り宴会が愉しくなーい!

という事で本日の結論。要旨。骨子。

最近独りで呑むのが頗るつまらないので、誰か呑みに誘って下さい。

一生懸命書いたのに言いたい事はたったの31文字に凝縮出来てしまった。

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2009年2月20日 (金)

ここから一歩も通さない

本日、ライブです。以前から告知していました、金町JazzinnBlueにてピアノトリオのライブです。

すごく期待している部分と、少し不安になっている部分とがあって。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いつでもまっすぐ歩けるか
湖にドボンかも知れないぜ
誰かに相談してみても
ぼくらの行く道は変わらない

手掛かりになるのは
薄い月明かり

(「月の爆撃機」 ザ・ブルーハーツ)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2月20日(金)東京金町 Jazz inn Blue
tel 080-1263-0955
http://www.jazz-inn-blue.net/
b:長谷川明弘 ds:松永博行 pf:福島剛
20:00~start  music charge:1500円

どうぞ、ご来場を。

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2009年2月16日 (月)

オハギャー

友人Yは、少々頭が弱いので、先頃FXなるものに手を出したそうだ。

FXとは、私自身もあまりよくは知らないのだが、要するに外貨のデイトレードだとの事。れっきとした一種の博打である。

Yもあまり知識のないままにFXに参加。結果、13万円もの負けを記録した、と過日の酒の席でうなだれていた。

YからFXに関していくつかの専門用語を教えてもらった。

彼が取り引きの対象にしたイギリスポンドは、その業界では「ポン様」の通称で親しまれているらしい事。通貨が暴落する事を、ナイラガラの滝に例えて「ガラる」という事。などなど。

取り分け私の爆笑を誘ったのは、「オハギャー」という言葉である。「オハギャー」とは、朝起きてみたら通貨が暴落している事を指すそうだ。つまりこういう事だ。

寝起きに「どれどれ、ワシのポン様の本日のご機嫌は如何かな」とパソコンをご開帳。FXのページを開きつつポン様に朝のご挨拶を、と「おはよう」の最初の二文字を呟きかけたその刹那、視界に飛び込んでくる全体的に赤みがかったその画面(やはり、赤字は文字通り、画面上でも赤いフォントで表示するらしい)。飛び出す感嘆詞は「ギャー!!!!!!!!!!!」の一択。「おは(よう)……ギャー!!!!!!!!!!!」という塩梅だ。その時の表情と言えば、恐らくは漫☆画太郎画伯(代表作:『まんゆうき〜ばばあとあわれなげぼくたち』、等多数)の筆致によってよりリアルに描かれるであろう。

さて、この「オハギャー」的な状況、FX未経験の私ではあるが、卑近な例はいくつも経験済みである。いつまでも子供じゃないんだからね。私だって何回も「シた」事、あるんだから。

しょうもない事ばかり書かずに先を急ごう。

「オハギャー」な状況について、である。

その殆どには、酒という悪魔の液体が介在する。

酒を呑み、まさしく泥の様に酔い、そして起きたその朝、「オハギャー」はいつもやってくる。

以下はその幾つかのサンプルだ。いずれも実話である。いや、やはり実話ではない。全てフィクションだ。

・「オハ…………ギャー!!!!!!二日酔いだ!頭が痛い!」

(これは比較的ライトなケースだ。昼過ぎには治る)

・「オハ…………ギャー!!!!!!財布の中の金が全くない!どこで幾ら使ったんだ!」

(恐らく、最初は立ち呑み屋で細々と呑んでいたのが、酒で気が大きくなったが為にその後、居酒屋→居酒屋→居酒屋→キャバクラ、という無間地獄コースをたどった為と思われる)

・「オハ…………ギャー!!!!!!財布そのものがない!」

(まさしく、どこかに落としている)

・「オハ…………ギャー!!!!!!携帯電話がない!落とした!」

(同上、どこかに落としている)

・「オハ…………ギャー!!!!!!メールの送信ボックスが大変な事に!」

(酔っ払って、親しい友人女性などにメールや電話をする傾向がある。電話ならばまだ良いが、メールだと文面が残る。まさに支離滅裂な言動が、そこに、在る………!)

・「オハ…………ギャー!!!!!!ケツに何かが付いている!」

(漏らしている)

といった具合である。「オハギャー」は、怖い。みんなで気をつけよう。

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2009年2月15日 (日)

わからないもの

自分の基準で(もしくは価値観で)物事を全て判断出来れば、或る意味で人生は極めて楽になるだろうし、また逆に言えばひどく退屈になる。私はどこかでそう考えている。

「わからないもの」に対して正直に「わからない」と白状する事は、決して悪い事ではない。自らの不勉強と無知を認める前向きな姿勢だ。

自然界に存在する全ての「音」を、我々人間には聞き取る事は出来ない。例えば犬笛のように。特定の動物にしか聞き取る事の出来ない音域や音色という物はおそらく確かに存在する。ある種の色彩や光に関しても同様の事が言える。それらは「聞こえない」し、「見えない」。我々人間の持つ、余りにも脆弱な各器官に判断を委ねてしまうのは、ひどく退屈だ。

「目に見えるものしか信じない」。そういった態度は、茫漠たる人生という原野を歩み進めていく上で一つの心強い指針になるやも知れない。一見して徹底したリアリストの如き態度である。しかし、それは前述のように、「聞こえざるもの」、「見えざるもの」に対する単なる無視の態度と言い換える事も可能だ。

私自身は、何かしらの特定の宗教を持たないが、見えざる神を「見えざるから」という理由のみで否定する宗教批判に対しては懐疑的にならざるを得ない。「わからないもの」、「見えざるもの」に対しても、寛容な態度を持ち続けたい、とどこかでいつも思っている。

千駄ヶ谷の音楽教室への出勤途中、電車の中で傍らに私の理解の範疇を超えた人間を見た。

一瞥して異国の血が入っている人間である事は容易に判断が出来た。白人であった。彼の出自は正確には判断しかねるので、仮にベルリン生まれのヨゼフとしておこう。嘗て悲しい歴史の為に東西に分断された祖国を出て、日本に美味いソーセージの作り方を伝えに来たドイツ人だ(と思う)。私のドイツ人に対する心証は、比較的良い。先の大戦において我々は共に敗北した。イタリア人に対しても同様だが、負けた人間の痛みを理解出来る人種は、概して優しいのではないか、そう思っている節があるからだ。

私は「ヨゼフ、君も異国の地で大変なのだろう、ゲルマン魂をいつまでも忘れる事なく、生きづらいこの日本の大地で、そのソーセージに関する知識と技術をもって一旗上げて、是非とも故郷に錦を飾ってくれ。アラバマのお袋さんもきっと喜ぶ筈だ」そう思っていた。

読みながら、お袋さんはベルリンではないのか?と思った人、そういった事は「枝葉末節」と言うのだ。細かい事は気にしてはいけない。私は「アラバマのお袋」という言葉が書きたかっただけなのだ。

さて、そのヨゼフ、鞄の中から携帯型音楽プレイヤーと二冊の本を取り出した。電車内での時間潰しでもするのだな。それはよくわかる。私もよく同様の事をする。私は最近では携帯電話のパズルゲームに興じるか、もしくはプロ野球カードを眺めながら、「へえ、広島カープの新進気鋭の外野手、天谷宗一郎は私と同じ誕生日なのか、今年は三番打者として一軍に定着してもらいたいものだな」などと感慨に耽りながら時間を潰す事もよくあるのだ。

ヨゼフは携帯型音楽プレイヤーのイヤフォンを耳に挿し、本を読み始めた。

どれどれ、何を読んでいるのかな?ドイツ人だから(多分)、フランツ・カフカでも読んでいるのかな?『城』、『審判』、『変身』、カフカの小説はいつでも私をあっさりと異世界へといざなった。素晴らしい読書体験であった。そんな事を考えながら、傍らのヨゼフの手元に据えられた本に一瞥をやった。

一冊は、辞書であった。

ん?何かを翻訳しつつ読むのか?流石に日本というこの異国の地にやってくるだけあって、異文化への貪欲な興味を抱いているのだな。大したものだ。私は感心しながらもう一冊の本に一瞥をくれた。

驚愕。

ヨゼフが読んでいたのは日本語で書かれた日本の漫画であった。

私も知っている『幽遊白書』、嘗て週刊少年ジャンプの全盛期を支えた漫画の一つである。彼は、それを独和辞典と共に、単語の意味を一々確認しつつ精読していた。

霊丸(れいがん)や、炎殺黒竜波(えんさつこくりゅうは)は、どう翻訳するのだろうか。大学で九年間もドイツ語を学んだくせに、「ダンケシェーン(ありがとう)」と「イッヒリーベディッヒ(私はあなたを愛しています)」しか覚えていない私は当惑した。

ヨゼフは、『幽遊白書』の単行本に書き込みを始めた。恐らくは、彼にとって読解困難な日本語に、訳をつけていたのだろう。勝手な推測だが、それは「マジ(本気、真剣、の意)」や「まっすぐいってぶっ飛ばす右ストレートでぶっ飛ばすまっすぐいって(以下略)」といった類の台詞だとは思うが、書き込みつつ精読をする彼の熱心な姿勢に、私はいささか心を打たれた。

その刹那、彼が耳に挿したイヤフォンから、音楽が漏れた。電車内は公共の場だ。もう少し慎まなければならぬぞ、ヨゼフ、などと私は心中でたしなめた。君が故郷ベルリンを遠く離れたこの日本の地でドイツ語の歌が恋しくなるのはわかる。大方、ミハエル・ヴェルトゲンシュタインの歌う「ソーセージ数え歌」や、ヨハン・シュタルクツィッヒの歌う「ドイツ人にはデブが多い」でも聴いているのだろう、と私が耳を傾けると…

……

こくな…

ーゼ……

私は耳を疑った。日本語が、聴こえる。

ヨゼフは手元のリモコンで、ボリュームを若干上げた。

はっきりとわかった。ヨゼフが聴いていたのは、高橋洋子の歌う『残酷な天使のテーゼ』であった。新世紀エヴァンゲリオン、であった。

少年が神話になった後、続けて流れ出したのは、「歌舞伎の人の嫁」でお馴染み、篠原涼子の歌う『愛しさと切なさと心強さと』であった。勿論、withTである。

ははあ、そうか、と私は合点がいった。

ヨゼフ、お前はソーセージの伝道師の仮面を被ってはいるが、さては「ヲ」の付く人種だな。「オタク」ではなく、「ヲタク」だな。

その時点で、ヨゼフは私の理解の範疇を超えた。そういった人間と相対した時に対処するべきサンプルケースは、私のストックの中にはなかったのだ。

しかし、先ほども述べたように、理解出来ないものを排除するのは、私は好きではない。私の理解を超えた所にこそ、私にとって有益な感性が潜んでいる、その可能性は極めて高いのだ。

私はヨゼフを受け入れる事にした。分断された祖国が、冷戦の終了と共に統一され、そして培ったソーセージの知識と技術を元に異国の地へと訪れた。日々の慰めにも向上心を決して失わないヨゼフは、翻訳された漫画ではなく、辞書を片手に原文の妙味を味わう。故郷の歌ではなく、日本のアニメソングを熱心に聞き8ビートに躯を揺らす。

誰も君を責めない。誰にも君を非難させない。安心してその道を歩めば良い。

私は、強くそう思い、彼を励ます意味を込めて、彼の傍らで「アインス、ツヴァイ、ドライ……」とドイツ語で数字を数え始めた。ちなみに10までしか覚えていない。勿論、ドライの倍数とドライが付く数字の時にはアホになっておいた。

私と彼は、千駄ヶ谷駅で別れた。

車内では一言たりとも言葉を交わしてはいないが、心と心とで多くの会話を交わした。そこには、言語を超越したコミュニケーションがあった。

私は心の中で山崎努もしくは高倉健よろしくニヒルに「ニーチェ」と呟いた。

彼は「アルバイテン」と返した(ような気がした)。

私達は、別れた。

補足であるが、私は腹を下しており、千駄ヶ谷駅のホームからトイレに駆け込むと、疾風怒濤の勢いで我が菊門(英名:アナル)から「炎殺黒竜波」を放った事を追記しておく。

理解の範疇を超えたものにも、かくの如く接するべきである。

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2009年2月13日 (金)

少しのんびりとして

先日の静岡でのライブが終わり、TAKA TONE の今回のミニツアーは一段落。様々な発見や収穫、そしていくつもの課題が見つかったが、概して愉しかった。プレッシャーを感じながら演奏をするのは、しんどいけれど愉しい。何にも勝る。

課題は、一つ一つ片付けていくより外ない。天才とは対極にある、まさしく凡庸の極みである私に残された唯一の希望は、努力以外にない。

「努力とは、馬鹿に許された最後の希望」、そう言ったのは立川談志であるが、談志は別の所でこうも言っている。

「嫉妬とは、自分から努力、行動を起こさずに、対象となる人間の弱みをあげつらって、自分のレベルまで下げる行為の事を言う。現状を認識して把握したら処理すりゃ良い。それが出来ない奴を俺の基準で馬鹿という」とも。

四の五のぬかさずに黙ってやるかな。

暫く、こちらのブログも書きかけの小説も、ほったらかしの状態になってしまっていた。所謂、「仕事が忙しい」という状態だった訳だが、そういうのはあまり理由にはならぬな。忙しぶるのは、とても嫌いだ。睡眠時間の短さを自慢する奴が嫌いなように。

2月20日、次は渾身のピアノトリオ。金町Jazzinnblueにて。

これは是非とも見て頂きたい。今、私のやりたい音楽を、一番形に出来るのは、このトリオ。久しぶりにリーダーバンド。目下、今日辺りからプランを練らなくてはならない。愉しみ過ぎる。このプランやアレンジを考えるのも、愉しい作業の一つなのだ。

という事で宣伝。

2月20日(金)

金町Jazzinnblue

tel 08012630955

http://www.jazz-inn-blue.net/

PM20:00start

ピアノ・福島剛 ベース・長谷川明弘 ドラム・松永博行

ミュージックチャージ・1500円

早く20日になってほしい。

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2009年2月10日 (火)

どこかで誰かが泣いて

戦闘機が買えるぐらいの

はした金ならいらない

(ザ・ブルーハーツ)

今日、何故か一日、この言葉が頭の中をぐるぐるしてました。

取り敢えず伊集院光のラジオ聞きながら酒呑んで寝ます。

おやすみなさい。

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2009年2月 9日 (月)

甲府駅から

誰かと一緒に音を出して、音楽をすると言うのは、会話なのだなと、やはり一つのコミュニケーションなのだなと、改めて再確認。

音楽は愉しいなあ。

ジャズは良いなあ。

また今日から頑張れそうです。

午前8時。今、甲府駅ホームです。

東京に戻ります。

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2009年2月 4日 (水)

休日にはラーメンを

久しぶりにゆっくりしている。昼過ぎまで寝て、だらだらと午後を過ごしている。

これからラーメンでも食べに行くかな。

休日は良い。

夕方からは、気分を入れ換えなければいけない。練習をさぼっている場合ではないから。

いよいよ6日からは「TAKA TONE LIVE 2009」の始まり。

自分で言うのも何だけれど、このライブに向けては随分と練習をした。

けれど、練習の量なんて関係ない。ステージで良い演奏が出来るか出来ないか。たったそれだけだ。出来ないならば、もうステージには立てない。そういうつもりでやっている。

すごく愉しみだし、すごくプレッシャーを感じている。

さあ、始まりだ。

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