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2008年12月28日 (日)

街の音楽

携帯型音楽プレーヤーを、殆ど使わない。

嘗て従兄弟からipodをプレゼントしてもらったので、それに伊集院光のラジオ番組や立川談志の落語を入れて移動中に聴く事がたまにあるぐらいで、本当に移動中に音楽を聴く事は稀だ。

演奏の仕事の為に、音源を聴いたりはするのだけれど。

すごく気障な物言いになってしまうのでいささかの躊躇は覚えるのだけれど、街には音楽が溢れている。

店内から漏れてくる大音量のBGM。

そればかりではない。

人々の雑踏。会話。風の音。樹のざわめき。

それらを聴いていれば、私はそれなりに満足してしまうので、わざわざipodやウォークマンを持ち歩かなくても困らないのだ。

街には、音楽だらけだ。

そうした街に溢れる音楽に、唐突に、あたかも通り魔的に、不意をつかれて感動させられてしまう事がある。

ボクサーがもらうパンチでもっとも「効く」パンチは、不意をつかれた(あるいは見えない所から飛んでくる)パンチだという。不意をつかれて街中の音楽に感動させられた時、私は知らずの内にノックダウンさせられている。

涙が、こぼれそうになる。

私は今日、とある路上ミュージシャンの演奏を聴いて、無性に感動してしまった。彼らに一声かけたいほどだったが、シャイなあんちくしょうである私は極めて平静を装ってその場を後にした。

彼らは、チンドン屋だった。

三人の、素晴らしい演奏家であった。

和服を着、顔に白粉を塗った中年の女性が先陣を切る。片手に傘を持ち、もう片方の手で低音の響くバスドラムを叩く。

続くもう一人の女性は、やはり和服を召し、軽快な高温のスネアドラムを叩く。

最後尾には、一人だけ洋服を着た男性が、アルトサックスを吹いている。三人はみな身体の前後に、いわゆる「サンドイッチマン」の要領でパチンコ屋の看板を下げ、演奏をしつつゆっくりと小岩の街を行進していた。

私の住む街小岩には、昔からよくチンドン屋がいた。見慣れた光景で、何だか滑稽だな、とすらどこかで思っていたのだが、私は暫くして後に、涙をこらえるのに必死になる事は、まだ知らなかった。

今日は彼らを目にした時に、私は歩みを緩めて彼らの反対側の道路から彼らを見つめていた。

シンプルな短調のフレーズをアルトサックス奏者の男性がループさせ、太鼓を叩く前方の二人の女性がうねるようなグルーヴを演出する。

幾度かのループの後、フレーズは長調へと変化した。何か重苦しい風景に一筋の閃光が放たれたかのようであった。

その刹那、私は背筋に何か電流のようなものが走るのを感じ、それと同時に目頭が熱くなるのを覚えた。

何故、彼らの音楽がこれほどまでに私の心を打ったのだろうか。サックスのピッチはいささか怪しかったし、太鼓もごく稀にではあるが、明らかなミストーンを出していた。

そんな事とは何も関係なく、私は彼らの音楽に強く心を打たれた。

私を感動させるのに必要十分な要素が、そこにはあったのだ。

街に溢れた音楽。

溢れたがゆえにこぼれ落ちてしまい、それらは元の水には帰れないのかも知れない。

私は暫し茫然自失として独りで立ち尽くした。

音楽は、本当に素晴らしい。

冬の木枯らしの中で、私は心地良く戸惑っていた。

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コメント

この書き込み、私・・好きなんです。
京都で学生生活を送っていた頃の福島さんの
書き込みを思い出します。

投稿: 桜 | 2009年1月 5日 (月) 11時47分

桜さんへ
要するに「チンドン屋にえらく感動した!」っていうだけの文章なんですけどね(笑)
気に入っていただけて嬉しいです。京都にいた頃から、人間も演奏もあまり成長しておりません。

投稿: ふくしまたけし | 2009年1月 8日 (木) 05時04分

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