音楽の現場で時折聞く、とてもうんざりする言葉がある。
それを聞く度に気持ちは滅入るし、何だかなあ、と溜め息を吐く。
かと言ってきちんと反論すれば、まず間違いなく小朝と泰葉ぐらい険悪になるのは明白だ。金髪ではないので「金髪糞豚野郎」とは罵られはしないだろうが、「短小包茎早漏糞豚野郎」ぐらいの罵られ方はされるかも知れない。これならば凡そ八割方は的を射た罵詈雑言なのだが。争い事を極端に嫌う私はいつも苦笑いで黙り込む。私はすごく分別ある大人だと思う。仮に股間は子供だったとしても、だ。異論は認めない。
さて、嫌いな言葉とは。
「音楽にジャンルなんて関係ない。良いものは良い、悪いものは悪い」
これである。或いはこれに類するもの、と考えていただければ結構だ。
書いていてもうんざりする。
今日はこの私のブログにおいて、徹底的にこの文言を陵辱していきたい。
先に書いたように、リアルな生活で真剣(マジ、と読む。常識です。)に反論すると、「短小包茎何とか」と罵られた挙げ句に、私がその悔しさのあまり、独り夜道をえぐえぐ泣きべそをかきながら帰らなくてはならなくなるのでしない。
なので、日々の鬱憤はこちらで吐き出す。仕組みとしては排泄行為と何ら遜色はない。つまり私の書き出す文章が名実共にウンコな所以だ。
さて、気を取り直して。
良いものは良い、悪いものは悪い。と自信ありげに語る人を見ると、私は常に頭に数多くの?マークが浮かぶ。それを語る彼乃至彼女の表情は、世の理(ことわり)を説いているかのように自信に満ち満ちている。それが私には余計に薄気味悪い。
一見して、それは正論のように見える。さも正しい事を言っているかのように。
正論の持つ甘美な誘惑、というのはわからなくもない。正しい事を言う事によって、人は恰も「自らすらも正しくなった」かのような錯覚を覚える。しかし本当にそれは「正しい」事なのだろうか。
そしてこの際に非常に厄介な点としては、正しい正しくないの価値判断は、あくまでも自分の基準に則っている、という点である。
則天去私、天に則して私を去る。少し前まで千円札にプリントされていた人の言葉だ。
則天去私。それが出来れば苦労はしない。だが私たちは往々にして則私去天、とあべこべのロジックに陥る。困ったものである。
そうして判断された善し悪しなど、最早さしたる意味など持たない。
そしてもう一点。ジャンル、という話である。
音楽のジャンルには、民族的アイデンティティがある、と私は考えている。ジャズという音楽が如何にして生まれたか。ブルーズは何故、土の匂いがするのか。
その背景には誇り高き、そして時には悲しい民族の歴史がある。私はそう信じている。
そこを十把一絡げにして、音楽にジャンルなど関係ない、などと言われた時、私はやり切れない気持ちになってしまう。
音楽にはジャンルも国境もあれば、言語もある。無論、異邦人である私たち日本人がジャズを愉しむ事は可能だ。アフリカの音楽だって。逆に言えば、マリ共和国の人間が津軽三味線を愉しむ事だって可能なのだ。
しかし、愉しめたからと言って、それを把握し理解したなどと思い上がってはならない。同様に愉しめなかったからと言って、それを拒絶するのもナンセンスだ。
音楽とは、宇宙からの第一の言語である。私の尊敬するピアニストRandy Westonはそう言った。
彼の言葉を借りるならば、その宇宙から降り注ぐ何物かを、私たちの文化や土壌と融合させる事、そうして初めて音楽が鳴り始めるのではないだろうか。
私たちに出来る事は、耳を澄ます事だ。五感を研ぎ、宇宙からの何物かを享受する。
我々は決して音楽を支配など出来やしない。
さて、本日の結論。
「ぶっちゃけー、音楽にジャンルなんてないっしょー?良いものは良くて悪いものは悪い、そんだけじゃね?」
と言われた時にはどう答えれば良いか。
「そっすね、マジクールですよねー、ジャンルとか民族とか言ってるヤツとか超ウケるんですけどwサーセン」
と言って揉め事を避けましょう。
まかり間違っても南北戦争やアフリカからの奴隷移住などという香ばし過ぎるトピックを持ち出して、コメカミに青筋を立てながら「日米安保を即刻廃止すべきだ!」などというキチガイ丸出しのシャウトをかましてはいけません。
そんなヤツを見つけたら。
お兄さんがお酒を奢ってやる。
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