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2008年12月

2008年12月31日 (水)

ご挨拶

大晦日にこんな時間(14:44)に起きてしまう。あーバルスバルス。

残すところ今年もあと僅か。

2008年、このブログをいつも読んでくれた方々、ありがとうございます。

一銭の得にもならないのですが、右上のアクセスカウンターの数字が増えていったり、日記にコメントを頂いたりするのがとても嬉しかったです。

なので2009年はもう見ないようにして下さい。

ブックマーク登録なんてクレイジーな事をしている人は、即座にブックマーク解除です。今年の汚れは今年の内に落としましょう。

嘘ですよ。

2009年も頑張って下らない事ばかり書きますから、どうぞ読んでやって下さい。

あーバルスバルス。

それでは良いお年を。

永遠にさよなら。

=たけし=

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2008年12月28日 (日)

街の音楽

携帯型音楽プレーヤーを、殆ど使わない。

嘗て従兄弟からipodをプレゼントしてもらったので、それに伊集院光のラジオ番組や立川談志の落語を入れて移動中に聴く事がたまにあるぐらいで、本当に移動中に音楽を聴く事は稀だ。

演奏の仕事の為に、音源を聴いたりはするのだけれど。

すごく気障な物言いになってしまうのでいささかの躊躇は覚えるのだけれど、街には音楽が溢れている。

店内から漏れてくる大音量のBGM。

そればかりではない。

人々の雑踏。会話。風の音。樹のざわめき。

それらを聴いていれば、私はそれなりに満足してしまうので、わざわざipodやウォークマンを持ち歩かなくても困らないのだ。

街には、音楽だらけだ。

そうした街に溢れる音楽に、唐突に、あたかも通り魔的に、不意をつかれて感動させられてしまう事がある。

ボクサーがもらうパンチでもっとも「効く」パンチは、不意をつかれた(あるいは見えない所から飛んでくる)パンチだという。不意をつかれて街中の音楽に感動させられた時、私は知らずの内にノックダウンさせられている。

涙が、こぼれそうになる。

私は今日、とある路上ミュージシャンの演奏を聴いて、無性に感動してしまった。彼らに一声かけたいほどだったが、シャイなあんちくしょうである私は極めて平静を装ってその場を後にした。

彼らは、チンドン屋だった。

三人の、素晴らしい演奏家であった。

和服を着、顔に白粉を塗った中年の女性が先陣を切る。片手に傘を持ち、もう片方の手で低音の響くバスドラムを叩く。

続くもう一人の女性は、やはり和服を召し、軽快な高温のスネアドラムを叩く。

最後尾には、一人だけ洋服を着た男性が、アルトサックスを吹いている。三人はみな身体の前後に、いわゆる「サンドイッチマン」の要領でパチンコ屋の看板を下げ、演奏をしつつゆっくりと小岩の街を行進していた。

私の住む街小岩には、昔からよくチンドン屋がいた。見慣れた光景で、何だか滑稽だな、とすらどこかで思っていたのだが、私は暫くして後に、涙をこらえるのに必死になる事は、まだ知らなかった。

今日は彼らを目にした時に、私は歩みを緩めて彼らの反対側の道路から彼らを見つめていた。

シンプルな短調のフレーズをアルトサックス奏者の男性がループさせ、太鼓を叩く前方の二人の女性がうねるようなグルーヴを演出する。

幾度かのループの後、フレーズは長調へと変化した。何か重苦しい風景に一筋の閃光が放たれたかのようであった。

その刹那、私は背筋に何か電流のようなものが走るのを感じ、それと同時に目頭が熱くなるのを覚えた。

何故、彼らの音楽がこれほどまでに私の心を打ったのだろうか。サックスのピッチはいささか怪しかったし、太鼓もごく稀にではあるが、明らかなミストーンを出していた。

そんな事とは何も関係なく、私は彼らの音楽に強く心を打たれた。

私を感動させるのに必要十分な要素が、そこにはあったのだ。

街に溢れた音楽。

溢れたがゆえにこぼれ落ちてしまい、それらは元の水には帰れないのかも知れない。

私は暫し茫然自失として独りで立ち尽くした。

音楽は、本当に素晴らしい。

冬の木枯らしの中で、私は心地良く戸惑っていた。

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2008年12月24日 (水)

面倒くささと結論

「オマエのブログさー、冗長に大層な事を書いているように見せて、いつも同じことばっかり書いてあるし、何よりすげえ下品だよな」

そう、嘗て言われた事がある。

そういった指摘に対して、私は葛飾の偉人、車寅次郎氏の言葉を借りて、こう反論したい。

「それを言っちゃあ、お終いよ」と。

全くもって、その指摘は的を射ている。日常生活の些事を大層に、そして冗長に語るのが私のやり口だ。それは微塵も見当外れではない。

「世情」という歌において中島みゆき様が歌われたように、「包帯のような嘘を見破る事で学者は世間を見たような気になる」のである。私の包帯のような嘘をお願いだから見破らないでほしい。私は腐ったミカンなんかじゃない。

いや、間違えた。腐ったミカンだった。

さて、本日もつまらぬ些事を大層に語っていこうか。そう言えば今日はクリスマスだな。どうでも良いけれど。クリスマスソングを歌うように、誰か私の事を今だけ愛してくれ。暦が変われば他人に戻るのだから。雪に浮かれる街の様に。

ほら、冗長になる。

さて、気を取り直して。

「楽になりたがる事」について少し考えた。

私たち人間は、根本的に「楽になりたがる性質」を持っている、と私は思う。それは別段、死を常に私たちが求めながら生きている、という事ではない。私たちはどこかで「明確な答え」を欲してしまいがちだ、という事だ。

明確な答え。それは或いは「結果」という言葉に置き換えることが出来るかもしれない。

例えば麻雀の場において。

2ピンを切ればテンパイ、しかし2ピンはトイメンのリーチの大本命、というケースにおいて、どうしても私たちは「2ピンを切り飛ばしてアウトかセーフかの結果を知りたい」という欲求をどこかに抱えてしまう。つまり「楽になりたがってしまう」のである。

ここに至る思考の根本には、「面倒くささへの忌避」があるのではないか、と私は考えている。状況を受け入れ、そしてそこを打開する策。それは果てしなく困難な思考の彼岸にあるようなそんな錯覚に陥り、「面倒くさい思考」を回避する為に、決死の二択へと打って出る訳だ。

果たしてそれは正しいのだろうか。そうして「楽になって」、本当に良かったのだろうか。

今年、あまりにも目に付いた通り魔殺人。もはや、「一連の」という接頭語を伴っても良いレベルだろう。それらを十把一絡げにして論じるのは見当違いも甚だしいであろうが、私はどこか根底で通ずる動機の一端に「面倒くささからの回避」があったのではないだろうか、と思うのだ。

生きているのが面倒くさい。いいや、他人を道連れで。何かそういった思考回路があったのではないだろうか、と。

事件の前後でよく耳にした彼ら犯人に対する、死ぬなら一人で死ね、他人を道連れにするな、といった批判。これらに私は何とも言えない違和感を抱く。

私はこう言いたい。

面倒くさい事から逃げるな、と。そして、安易に答えを欲するな、と。

そういった凶行に走る事で彼らは一種の「結論」を得た。それはどこまでも独善的で、共感を得る事の極めて困難な結論である。そのようなつまらぬ「結論」に何の意味があろう。

また、最近耳につく、何とも不愉快な言葉に「自己責任」というものがある。

今の自分の状況が悪いのは、あくまでも自分が悪かったから。全ては自己責任だ、と。

それはそれでどうだろう。

自分を納得させ、いじける為の論拠となる、ただそれだけの為のつまらぬ「結論」ではないだろうか。

いずれにしても同じ事だ。安易に結論に逃げているだけではないのだろうか。

結論を回避する事、これは極めて「面倒くさい」。しかし、その面倒くささからは逃げてはならぬ。

今しているこの努力が何に結びつくのだろうか。こんな日常を繰り返した挙句に、どんな未来が待っているというのか。

そういった自問に、容易く自答などしてなるものか。兎にも角にも、面倒くさい日常を、私たちは生きていかなくてはならない。

今回、こういう事を書いた背景には、私が年賀状を未だに書いていない事からの自戒がある。

面倒くさい事を承知で、私は珍しく年賀状を書く事を心に決めた。遠方に住む人々にそれらは限るのであるが、私は未だに年賀状書きに取り組んでいない。

面倒くさいけれど、自分で書くと決めたのだ。

普段、お世話になっている遠方の方々にくらい、新年の挨拶でもしたらどうだ、と。

面倒くさい事から逃げてはならない。

年賀状書きを、始めよう。

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2008年12月22日 (月)

私の夢

眠りが浅かったせいなのか、間断なく夢を見続けた。幾つかの夢を覚えているが、見事に全てが悪夢だった。

過去の不義理をなじられ、私は正座の格好からひたすらに頭を下げ続けるという夢。

殺人を犯し、その罪ゆえに警察から追われ、逃げ惑う夢。

私の周りから、人がどんどん離れていく夢。

全て、たまらなく悪い気分で目覚め、夢だった事に少し安堵する。再び眠りにつき、そしてまた悪夢を見る。この繰り返しである。

ものすごく損をした気になる。

起きてる間は、惨めな気分を味わうことの方が圧倒的に多いのだから、夢の中ぐらい良い思いをさせてくれよ。

強くそう思う。

何故石田ゆり子が妻役で夢に登場して「あなた、お帰りなさい、お風呂にする?ご飯にする?それとも…」とベタなセリフを言わない!

何故トーストを口にくわえた綾瀬はるかと朝一の曲がり角で不意にぶつかり、そこから恋が芽生えない!

何故図書館で本上まなみと偶然同時に同じ本に手を伸ばし、「あっ」と言って互いに頬をほんのり赤らめた後で、そこから恋が芽生えない!

非常に納得が行かない。

合点が行かない。

理不尽極まりない。

仮に上記のような夢を見たならば、私は正夢を疑うであろう。

朝、曲がり角を曲がる際には極力誰かとぶつかるように気をつけるし、昼にはきっと図書館に寄るだろう。家に帰れば、「メシも風呂も後で良いよ。まずはお前だよ。」「あなた…(ジュン!)」というやり取りを期待するだろう。当然ではないか。

早くLCLの海に還らなくては。

私は多分三人目だから。

じゃあの。

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2008年12月20日 (土)

鷹村守が世界王者になったその時に

自分が何か重大な過失を犯した訳でもなければ、誰かから底意地の悪い悪意を向けられた訳でもない。粛々と日々は流れ、地球は平然と自転と公転を続ける。どこかで生命が朽ち果て、どこかで生命が誕生する。

終わる事のない輪廻。

過去になる現在。

磨り減っていく未来。

おかしな事は何一つ無い。それが逆に全てがおかしな事になっているかのような錯覚すら導く。

空はいよいよ青く。

海はいよいよ深く。

つまり、今日私は何もないのに何となく気分が沈んでいる。そういう時だってある。

昼間に随分ピアノの練習はしたのだから、今日はもうピアノは弾かない。慰めの手段は余所に求めなくてはならない。

ふと思い付いたのだが、こんな時はマンガ喫茶に行こう。

行って、『はじめの一歩』の鷹村守VSブライアン・ホーク戦を読みふけって来よう。

アレは面白い。

無駄にテンションが上がる。

『あしたのジョー』の矢吹丈VS力石徹戦は、いささか壮絶過ぎるし、何より長すぎるから今はダメだ。

あ、古谷実の『グリーンヒル』も読みたくなってきた。

ダメだダメだ。長居は無用だ。

考えていたら、既に少し復活してきた。

何だそれ。

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2008年12月19日 (金)

練習

「間違わずに」ピアノを弾くのは難しいなあ。

最近はベートーベンの「月光」を練習している。だいぶ譜面も頭に入ってきて、幾らか弾けるようにはなって来たけれど、やっぱりノーミスではまだ弾けない。いかに自分が普段、いい加減にピアノを弾いていたかを痛感する。「きちんと」弾く練習。

これが出来てこないと、曲に表情も付けられない。単なる音の羅列なんて音楽ではない。

でも、これが出来てくると演奏自体もまた変わってくる筈だ。

音楽が、早くやりたいなあ。

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今年一年の記憶を辿る

呑んだ帰り、もうしこたま呑んで、最早これ以上は致死量というレベルにも関わらず、何故コンビニで更に酒を買って帰るのかが我ながら謎だ。朝起きて、傍らのテーブルの上には飲みかけの氷結レモン。まだ呑む気だったのか、このキチガイ野郎…と溜め息をつかざるをえない。

何であんな事しちゃうんだろうね。

さて、もう年の瀬。友人と呑んでいても、何となく今年一年を振り返ってみたり、みなかったり。ラジバ…いや、何でもない。

今年の初めに友人達と決めた目標。年間12回、つまり1ヶ月に一回平均の釣行、これだった。

結局誰も達成は出来ず。もう少したくさん釣りに行きたかったね、と話す。

記憶を辿ると

・葛西荒川屋からシロギス

・金沢八景弁天屋からシロギス

・同じく金沢八景弁天屋からアジ

・左近川でハゼ×三回

・新中川でハゼ

・腰越秋田屋からイナダ

・逗子森戸海岸でカワハギ

・小岩たかはし丸からタチウオ

・浦安吉野屋からシロギス

こんな所、順不同。あとは思い出せない。やっぱり月に一回の壁は厚いなあ。

どれも釣りとしては愉しかったのだけれど、厳しいものもあった。

イナダとタチウオは、余りに釣れすぎて途中でやめた。それはそれでちょっと疲れる。ほどほどが良い。

来年はもっと釣りに行きたいな。

あ、仕事は別。ちゃんとやります、もちろん。

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2008年12月17日 (水)

立ち食い蕎麦屋のAMラジオ

宿酔い。

昨夜の記憶はあまりない。多分失言もたくさんある。仕方がない。

朝、普通に目が覚めて、2リットルほど水を飲んだら無性に腹が空いた。

蕎麦が食いたい。蕎麦屋へ向かう。

モーニングサービスで天ぷら蕎麦が300円、素晴らしい。そして美味い。

店内でかかっていたAMラジオから、チューリップの「サボテンの花」が流れた。あ、すごく、良いな、と思った。

別段、チューリップも「サボテンの花」も好きな訳ではないけれど、「正しいAMラジオ」を聞いているな、という気になった。

立ち食い蕎麦屋でAMラジオ。引っ越し屋でアルバイトしていた時に、トラックの中で聞いたAMラジオと同じぐらいしっくり来る。腑に落ちる。AMラジオにチューリップ、これも腑に落ちる。

死ねば良いのに、と思っていたけれど、そうでもないな、と思う。

今日も1日が始まる。

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2008年12月12日 (金)

CDを買った

久しぶりにCDを買った。

欲しいCDがあったので。

レコードも買ってしまったのだけれど。

CD、良いね。買うとわくわくしてしまう。

家に帰るのが待ちきれずに、電車の中で封を開けてしまって、ライナーノーツを見ながら中身を思ってしまう。

音楽はデータとしてダウンロードするのが当たり前な時代になりつつあるみたいだけれど、やっぱりCDとレコード。

これにわくわくしてしまう。

たくさん、何回も聴こう。

嬉しいなあ。

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2008年12月11日 (木)

音楽のジャンルと民族

音楽の現場で時折聞く、とてもうんざりする言葉がある。

それを聞く度に気持ちは滅入るし、何だかなあ、と溜め息を吐く。

かと言ってきちんと反論すれば、まず間違いなく小朝と泰葉ぐらい険悪になるのは明白だ。金髪ではないので「金髪糞豚野郎」とは罵られはしないだろうが、「短小包茎早漏糞豚野郎」ぐらいの罵られ方はされるかも知れない。これならば凡そ八割方は的を射た罵詈雑言なのだが。争い事を極端に嫌う私はいつも苦笑いで黙り込む。私はすごく分別ある大人だと思う。仮に股間は子供だったとしても、だ。異論は認めない。

さて、嫌いな言葉とは。

「音楽にジャンルなんて関係ない。良いものは良い、悪いものは悪い」

これである。或いはこれに類するもの、と考えていただければ結構だ。

書いていてもうんざりする。

今日はこの私のブログにおいて、徹底的にこの文言を陵辱していきたい。

先に書いたように、リアルな生活で真剣(マジ、と読む。常識です。)に反論すると、「短小包茎何とか」と罵られた挙げ句に、私がその悔しさのあまり、独り夜道をえぐえぐ泣きべそをかきながら帰らなくてはならなくなるのでしない。

なので、日々の鬱憤はこちらで吐き出す。仕組みとしては排泄行為と何ら遜色はない。つまり私の書き出す文章が名実共にウンコな所以だ。

さて、気を取り直して。

良いものは良い、悪いものは悪い。と自信ありげに語る人を見ると、私は常に頭に数多くの?マークが浮かぶ。それを語る彼乃至彼女の表情は、世の理(ことわり)を説いているかのように自信に満ち満ちている。それが私には余計に薄気味悪い。

一見して、それは正論のように見える。さも正しい事を言っているかのように。

正論の持つ甘美な誘惑、というのはわからなくもない。正しい事を言う事によって、人は恰も「自らすらも正しくなった」かのような錯覚を覚える。しかし本当にそれは「正しい」事なのだろうか。

そしてこの際に非常に厄介な点としては、正しい正しくないの価値判断は、あくまでも自分の基準に則っている、という点である。

則天去私、天に則して私を去る。少し前まで千円札にプリントされていた人の言葉だ。

則天去私。それが出来れば苦労はしない。だが私たちは往々にして則私去天、とあべこべのロジックに陥る。困ったものである。

そうして判断された善し悪しなど、最早さしたる意味など持たない。

そしてもう一点。ジャンル、という話である。

音楽のジャンルには、民族的アイデンティティがある、と私は考えている。ジャズという音楽が如何にして生まれたか。ブルーズは何故、土の匂いがするのか。

その背景には誇り高き、そして時には悲しい民族の歴史がある。私はそう信じている。

そこを十把一絡げにして、音楽にジャンルなど関係ない、などと言われた時、私はやり切れない気持ちになってしまう。

音楽にはジャンルも国境もあれば、言語もある。無論、異邦人である私たち日本人がジャズを愉しむ事は可能だ。アフリカの音楽だって。逆に言えば、マリ共和国の人間が津軽三味線を愉しむ事だって可能なのだ。

しかし、愉しめたからと言って、それを把握し理解したなどと思い上がってはならない。同様に愉しめなかったからと言って、それを拒絶するのもナンセンスだ。

音楽とは、宇宙からの第一の言語である。私の尊敬するピアニストRandy Westonはそう言った。

彼の言葉を借りるならば、その宇宙から降り注ぐ何物かを、私たちの文化や土壌と融合させる事、そうして初めて音楽が鳴り始めるのではないだろうか。

私たちに出来る事は、耳を澄ます事だ。五感を研ぎ、宇宙からの何物かを享受する。

我々は決して音楽を支配など出来やしない。

さて、本日の結論。

「ぶっちゃけー、音楽にジャンルなんてないっしょー?良いものは良くて悪いものは悪い、そんだけじゃね?」

と言われた時にはどう答えれば良いか。

「そっすね、マジクールですよねー、ジャンルとか民族とか言ってるヤツとか超ウケるんですけどwサーセン」

と言って揉め事を避けましょう。

まかり間違っても南北戦争やアフリカからの奴隷移住などという香ばし過ぎるトピックを持ち出して、コメカミに青筋を立てながら「日米安保を即刻廃止すべきだ!」などというキチガイ丸出しのシャウトをかましてはいけません。

そんなヤツを見つけたら。

お兄さんがお酒を奢ってやる。

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筆を折る

このブログに載せる為の完全妄想恋愛小説を執筆していたのですが、途中で無性に死にたくなったので、筆を折りました。

主要登場人物は三人、剛とゆり子の夫婦、そして、はるかという若い女性です。

キャストは

剛―わたくし、福島剛

ゆり子―石田ゆり子

はるか―綾瀬はるか

というラインナップで、三角関係に揺れる三人の切ない恋心を途中まで描いていたのですが、先ほども申し上げましたように、

無性に死にたくなりました

ので、中止に致しました。

普段通りのエッセイは、今、書きかけでほったらかしてあるやつが三本も残っていますので、それらを順次アップしていければと思っています。

何でそんなキチガイ度300パーセントの妄想小説を書き始めたのだろう。

そんな自分を殺してやりたいです。

―――あなた、私はもう、おばさん?

ゆり子が言葉を振り絞るように、けれど何処かしらふざけた口調を含みながら、私に問いかけた。

問いかけた、じゃねえよ。マジによ。

来世は人に生まれてこないほうがいいな、ホント。

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2008年12月 4日 (木)

今日はずっとパソコンしてるなあ

今日は朝からずっとパソコンに向かって作業をしていたので、ついでに少しブログもいじりました。

サイドのリンクの欄に、ジャズタップダンサー、川村隆英さんのホームページを追加しておきました。最近、ホームページが出来たそうで連絡を頂きました。

川村隆英さん、通称タカさんは、ぼくも参加させてもらってるジャズタップユニット「The Successors」の発起人です。リーダーはベースのイチさんなんですけど。つまり、タカさんが代表取締役で、イチさんが社長で、ぼくが平社員、みたいな感じかな。会社勤めした事がないのでよくわからないんですけど。

素晴らしいタップダンサーであり、素晴らしいミュージシャンです。是非一度彼のホームページを覗いてみて下さいね。

あ、あと、この品性の低いブログにリンクという名の下に陵辱されたいM気質な方は、連絡頂ければリンク貼りますからね。お気軽にどうぞ。

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