リベンジ
結果、昨夜の夜釣りは失敗。釣果云々の前にアタリらしいアタリすらなく、私の脳内にいるプレステを買いに行く人が「釣りっていうレベルじゃねえぞ!」と怒声を上げる。
私も私で、二時間もせずにポッキリと心が折れて納竿。脳内にいる高田延彦が、「ああ、コレ、ダメだ。完全に心が折れちゃってる」と、落ち目のボブサップを見るような視線で力無い解説をぶつ。
五月蝿い。
ヤメだ!ヤメ!
で、あんまり面白くないので、今は葛西の左近川。ちくしょう、生態系乱すぐらいに釣りまくってやるよ!
結果、昨夜の夜釣りは失敗。釣果云々の前にアタリらしいアタリすらなく、私の脳内にいるプレステを買いに行く人が「釣りっていうレベルじゃねえぞ!」と怒声を上げる。
私も私で、二時間もせずにポッキリと心が折れて納竿。脳内にいる高田延彦が、「ああ、コレ、ダメだ。完全に心が折れちゃってる」と、落ち目のボブサップを見るような視線で力無い解説をぶつ。
五月蝿い。
ヤメだ!ヤメ!
で、あんまり面白くないので、今は葛西の左近川。ちくしょう、生態系乱すぐらいに釣りまくってやるよ!
早くやらなきゃやらなきゃと思いながらも、面倒くさくて先延ばしにしていたライブ情報の告知。今日こそ書こう!と思ってパソコンの前に座るのだけれど、ソリティアとかマインスイーパをだらだらとやってしまうヘドロのような日々。
だけど。
一念発起してやりました!途中一回、入力した情報が全て消える、というアクシデントにもめげずに(いや、大分めげたな)、書ききりました。
なので、皆さん見に来てくださいね。8月は東京と関西で。9月は全国で演奏しています。
ツアー愉しみだなあ。
はい、以下。
2008年 8月
8月8日(金)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
手術後の復帰第一戦目は恒例のアーリーバードのピアノソロから。
20:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
8月15日(金)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
終戦記念日にピアノソロ。レフティなマインドがちょっとうずきます。危険です。
20:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
8月20日(水)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
今月はたくさんやらせてもらいます、アーリーバードのピアノソロ。たまにはジャズスタンダードばっかり、とかもやろうかな。
20:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
8月23日(土)大阪高槻JKカフェ
tel 0726-71-1231
http://www6.ocn.ne.jp/~officejk/cafe/jkcafe.html
sax:黒田雅之 pf:福島剛
関西遠征シリーズ第一弾。昼間っからサックスと二人でやかましくいきます。たまには、ね。許してください。
15:00~start music charge:カンパ制
8月24日(日)京都岩倉cafe jinta
tel 075-724-2534
http://www.cafe-jinta.com/
sax:黒田雅之 b:椿原栄弘 pf:福島剛
更にベーシスト椿原さんを迎えて。こってりいくよ、こってり。マヨネーズとソースみたいな身体に悪そうな感じで行きます。
19:30~start music charge:1500円
8月30日(土)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
更にもう一回、ピアノソロ。8月は独りが多いなあ。
20:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
2008年 9月
9月9日(火)東京上野 アリエス
tel 03-3831-0523
http://www.jazz-cygnus-aries.co.jp/aries/ari-top.html
harp:皆川和義 b:長谷川明弘 pf:福島剛
皆川さんとのデュオに、ベースの長谷川さんに加わってもらってトリオでやります。初めてのお店です。
19:20~start music charge:2000円
~~~TAKA TONE Live Tour~~~
↓↓↓
tap:TAKA(川村隆英) b:イチタカタ pf:福島剛
music charge:3500円~4000円(会場によって異なります)
9月12日(金)東京江古田 Buddy
tel 03-3953-1152
http://www.buddy-tokyo.com/
TAKA TONEの第一弾は東京江古田からスタート。江古田ちゃんです。
19:30~start
9月14日(日)京都 Mojo West
tel 075-706-8869
http://www.mojowest.com/
昔、ずっと出演していた京都のmojowestですが、こんな形で再び出演するとは。愉しみです。
14:00~start
9月15日(月祝)広島 Jive
tel 082-246-2949
http://www.livecafejive.jp/
聖地広島です。何の聖地かって?カープの聖地に決まってんだろ!つまり野球の聖地だよ!わくわくします。
17:00~start
9月18日(木)高知 Altec
tel 088-884-5636
http://www.zukan.co.jp/kissa-mu/altec.html
タップのTAKAさんの生まれ故郷の高知で。この時期の高知の海では、カンパチなんかが釣れるらしい。や、別に関係ないんだけど・・・
19:00~start
9月21日(日)福岡 New Combo
tel 092-712-7809
http://www.f2.dion.ne.jp/~combo/
久しぶりの福岡です。実はぼくは福岡はちょっと馴染みの土地なのです。親戚もたくさん住んでるし。好いとうとよ。
14:00~start
9月23日(火祝)名古屋 Star Eyes
tel 052-763-2636
http://www.stareyes.co.jp/
名古屋です。あまり馴染みの薄い土地だったのですが、最近は縁も増えてまいりました。勿論初めてのお店です。
14:00~start
9月26日(金)新潟 Gioia Mia
tel 025-224-2588
http://weblog.niigata-gioiamia.com/
ツアー最後は新潟で。この店のピアノ、何十年も昔のスタインウェイのグランドピアノなんですが、素晴らしい楽器です。それと同時にかなりの曲者なんだけど。頑張ってやりますよ。
19:30~start
↑↑↑
~~~TAKA TONE Live Tour~~~
今日は結構暇なので、こんなものを作ってみました。
ネット上の本棚です。
http://booklog.jp/users/fukushimatakeshi
どっかにリンク貼っとこうっと。暇を見つけて充実させていきます。結構愉しい、これ。
あー、釣りに行きたい。それにしても釣りに行きたい。今年は渓流釣りデビューも果たしたいのだけれど、果たしてそれも叶うのだろうか。釣りに行きたいよお。
という事で、自分の欲求のみを書き連ねてみました。釣りに行きたい。
さて、全然関係ないのですが、8月1日は生まれて初めての手術を受けてきます。信濃町にある馬鹿みたいに大きな病院で。うまくいくといいのだけれど。
左耳の鼓膜にずっと穴が開いていて、その穴のせいで少し左耳の聴力が低下してるんですよね。それを埋める手術。耳の後ろを切ってそこから肉片を取り出して、鼓膜の穴に貼り付けるそうです。怖いなあ。
という事で、手術を楽しんで参ります。また気が向いたら書きます。
殊更に白状するのも馬鹿馬鹿しいが、嘗て私は文学少年であった。
思い通りに儘ならぬ日々に鬱屈としながら、文字の世界、想像力の世界へと私は逃避していた。挙句、いくばくかの教養を身に付けられた事は感謝するべきかも知れないが、その頃の事を思い出すと、いささか気が滅入る。
その当時、つまらぬこだわりで、あまり漫画を読まなかった。漫画など低俗な文化だ。或いは私の心のどこかにそのような思い上がりがあったのかも知れぬ。文学こそ至高の芸術なのだ、という勘違いが。
勿論、今はそんな事など微塵も考えていない。漫画が大好きだ。最近はよく漫画を読む。中には随分と文学的な作品もある。感動し、落涙してしまうような作品も、稀にある。当然、下らない(つまらない)作品も数多あるが、それはあらゆる表現の場において共通する事だろう。素晴らしいものも、そうでないものもある。そうして時代が作られるのではないだろうか。
という事で、本日は私の好きな漫画作品をひたすらに紹介します。そういう回にします。「この漫画が面白いから、読むと良いよ!」という回です。比較的有名な作品に限定しますが、もし仮に私が以下に列挙する作品全てに造詣が深い方はご一報を。旨い酒が呑めそうだ。
では、以下。
・花の慶次(隆慶一郎/原哲夫)
戦国武将、前田慶次郎利益を主人公にした時代漫画。原作は、隆慶一郎の「一夢庵風流記」。媚びず、流されず、自らの「人としての意地」を貫き通す為に、いとも簡単に死すら覚悟を決める慶次の姿は爽やかですらある。途中の沖縄編でやや中だるみの感もあるが、太閤謁見や直江兼次との友情など、見所は非常に多い。私が個人的に好きなのは、最終話に収録された慶次の詩歌。「生きるだけ生きたらば死ぬでもあらうかと思ふ」と締めくくられるその詩歌には、慶次の人生観が表れている。
・ザ・ワールド・イズ・マイン(新井英樹)
「モンちゃん」と「トシ」の二人が、凄惨なまでの殺戮をひたすらに繰り返すという過激な漫画。「トシモン」の二人は、テロリストの類型だと言う事も出来るが、それと同時に精神的に未成熟な人間の類型である、と見る事も出来る。物語の最中に現れるトシの言葉、「ボク、チカラほしかった」という言葉は、混沌とした現代を象徴する言葉のようにも私には感じられる。ラストに近づくに従って、作品の持つ緊張感が薄れていく尻すぼみ感も否めないが、前半から中盤以降におけるテンションの高さは比類ない。
・最強伝説黒沢(福本伸之)
佳作揃いの福本漫画シリーズからは、作者自身が敢えてギャンブルの要素を一切排除した「黒沢」を推したい。第一巻、第一話目から既に黒沢独自の世界観が描かれている。第一話の一コマ目にある台詞、「感動など、ない……!」は衝撃的。その他にも「人望が、ほしい……!」など、心にダイレクトに響く台詞多数。主人公が44歳の土木作業員という設定も、普通では考えにくいが、そうした人間の持つ悲喜交々を存分に描き切っている。ラストの暴走族からホームレス達を守るくだりでは、「人として生きる事」とは何かを考えさせられる。
・殺し屋1(山本英夫)
主人公イチは泣き虫な殺し屋、幼少期のいじめ体験がトラウマとなっているが潜在的なサディスト、というなかなかにコクのある設定。仕事(殺人)の後、死体の傍らで泣きながら手淫に耽る、という倒錯した描写も度々見られる。もう一人の登場人物、ヤクザの垣原が持つ究極とも言えるマゾヒズムと、イチのサディズムが溶け合い、単なる殺人から、「愛の物語」へと昇華される様は圧巻。イチが垣原を追い詰めるラストの描写は、漫画という媒体の新たな可能性を提示しているかのようだ。
・レッド1969~1972(山本直樹)
現在「イブニング」において連載中の漫画。固有名詞はほとんど全て伏字にしてあるが、明らかに山岳ベース事件、あさま山荘事件等、つまり連合赤軍を題材にしている漫画である。同一の構図のコマを連続させるなどの手法を用いつつ、全体的に息苦しいほどの「重さ」がある。重く、そして静かに物語は流れていく。登場人物の頭に丸数字が打たれているが、それは今後死んでいく順番を表わしたものだ、というブラックジョーク的な感覚も散りばめられている。昭和史に残る猟奇的事件を起こした彼ら。その彼らを「特別な存在」として扱わずに、「普通の青春」を謳歌したかった「普通の若者」として描いているところにこの作品の素晴らしさがある。スポーツの金メダルを目指すのも青春であれば、革命を目指すのも青春であるのだ。ふと、そんな事を思った。勿論、彼らに共感などしないのだけれど。
・はだしのゲン(中沢啓治)
1945年の広島への原爆投下、その事件をモチーフにした戦争漫画。平和を希求する、というプロパガンダのみならず、作品を通じて流れているのは、純然たる「怒り」である。戦争への怒り、国への怒り、差別への怒り。そういった怒りを「ギギギギギ」という独特の擬音とともに表現している。使われている言葉の一つ一つをとっても、過激な言葉が多い。連載されていたのは1970年代半ばぐらいであるが、間違いなく現在ならば商業誌に連載することは不可能な漫画である。思想的には随分と左翼思想に偏っているため、読む人が読めば眉をひそめるかも知れぬが、この漫画の良さがわからぬような人とは私は恐らく仲良くなれないだろうし仲良くなるつもりもない。いくらか極論に過ぎるのだけれど。
・ぼくんち(西原理恵子)
人生の中で最も影響を受けた本を三冊選べと言われたら、おそらく私は宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」と親鸞の「歎異抄」(著したのは弟子の唯円であるが)と、この「ぼくんち」を選ぶだろう。それほどまでに私は生きていく上でこの漫画に強く影響を受けている。西原理恵子という作家の持つ「泣く事と笑う事は同じ事だ」という哲学が、具体的に表現されている。ピンサロで働く姉ちゃん。トルエンを売るこういちくん。お父さんがシャブ中のさおりちゃん。しあわせはどこにあるのだろう。わからない。でも、こういうときはわらうんや。作品から受け取れるのは、どこまでも前向きなメッセージである。
他にもいくつか紹介したかったのだけれど、もう書き疲れたのでやめます。古谷実とかさ、松本大洋とか黒田硫黄とか。好きな漫画家は他にもたくさんいるのだけれど、また次回以降に。気が向けば書きます。
それでは永遠にさようなら。
明日のライブの詳細です。
来て下さいね。
このライブに来た人は、急に彼女が出来たり、宝くじが当たったり、末期がんが治ったりしてるみたいです。感謝の声をよく聞くとか聞かないとか。知りませんけれど。
7月26日(土)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
アーリーバード二回目。この日は確か隅田川の花火大会なんですよね。終わってからでもお越し下さい。勿論、花火には目もくれずに来てもらっても良いのですが。
21:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
そうそう、今日、山本直樹という人の「レッド」という漫画を買いました。すごく面白い。断固支持だよ、断固支持!(←これ、ぼくの中では今年の流行語大賞なんですけどね)
近々気が向いたら感想を書きます。珍しく忙しいので、今日は簡単に。
小岩駅から自宅まで。
大体徒歩10分弱なのだけれど、その間に三人も見た。路上で寝ている輩を。
その内の一人は、警察が必死に起こそうとしていたけど、一向に起きる気配はなかった。
残りの二人はとりあえず生きてるみたいだし、放っておいた。
この季節なら路上で寝ていても十中八九死なない。そう言えば私も昨年の今頃、新宿の路上で寝てしまって、携帯電話をなくした。結構気に入っていた携帯電話だったのに。起きたら朝7時。携帯電話はなくしていたものの、五体満足でなおかつ財布もなくなっていなかったのは奇跡だと思う。新宿の中では一番危険なエリアだったのになあ(歌舞伎町ではない方の。というよりも歌舞伎町なんて全然危険じゃない)。
確か一昨年の今頃は、野宿だらけの北海道旅行に行っていた。路上で寝るのって、意外と気分良いんだよなあ。
また野宿旅行行きたいな。それとも、もうそんな事は出来なくなってしまっているのだろうか。
そうだったら、とても嫌だ。
夏である。
俄かに蝉も鳴き始めた。木立の翳りの中で風を頬に感じる時、私は夏に包まれている実感を覚える。
元来あまり得意な季節ではない。が、先のような光景に加えて、夏のもたらす何とも言い難い郷愁は、私を奇妙に心地好い気分にさせる。
少年時代、丁度今時分に訪れる夏休みの到来は、幼い私の心を確かに躍らせた。学校から出された幾ばくかの宿題、そんなものには目もくれずに、区民プールだの近所の川だの公園だのに赴き、日が暮れるまで遊んだ。暑さでどうしようもない時は、友人の家や私の家でファミコンに興じた。今時の子供達と、やっている事は大差はない。夏休みの到来が嘗ての私の心を魅了したように、今の子供達もきっと今は全てを忘れて遊び惚けているのだろう。
そんな事を考えていると、妙な郷愁に駆られる。子供の頃に戻りたいとは思わない。けれど、その頃に感じた夏への期待、そんなものは今一度感じてみたいと思う。恐らくそれすら不可能なのは明白なのだが。
Everything must change.
変わらざるものなど何一つない。何れにせよ、街も私も変わりすぎた。
さて、夏である。私も仕事で日々街に出るが、人々の装いも俄然夏の様相を呈してきている。
「夏はおなご達が薄着になりますさかい、たまりませんなあ!うひょひょ!」
何処からかそんな声が聞こえてくる。
確かにそういった文言に対して、面と向かって反論する術を私は持たない。街中を歩く若い雌。恐らく磯野ワカメに心酔しているからだろうが、「それを腰に巻くことで何かが隠れているのかい?」と問いただしたくなる程のミニスカートを身につけているのをしばしば目にする。最早ミニスカートとは名ばかり、或いはそれは単なる布の切れ端ではあるまいか、と考えてしまうほどの代物も時には視界に入る。私は死んだ魚のような眼でそれを見つめる。また、その魔界の中にあるデルタ地帯をも。バミューダトライアングル!脳裏でそんな単語が太文字で浮かぶ。特に意味はない。ただそこにあるものを私は見つめているだけだ。そこにあるバミューダトライアングルは物質であり空間である。それを一次的な物だと考えれば、それを見つめる私の精神や意識は二次的であり、つまり私は唯物論的な価値観の中でそれを見つめている事になる。
いい加減な事ばかり書きすぎて、私自身も何を書いているのかさっぱりわからなくなってきた。少し話を戻そう。薄着の話である。
上述のように、私もそれ(布の切れ端)を批判する立場ではない。仮に往年の森高千里女史が眼前に現れて、そのミニスカートから覗く二本の脚を好きなだけ見つめて良いと言われれば、それは確かにやぶさかではない。寧ろ積極的に見つめていくだろう。さしもの私も非実力派宣言してしまいかねない、という事だ。
しかし、である。私は折角の日本人なのだ。日本人には日本人の美的感覚というものがあるだろう。私はそれを愛でていたい。私は貝になりたい。
秘すれば花、秘せずは花ならざる
世阿弥の「風姿花伝」の中の言葉である。当ブログでも度々紹介した記憶がある。
隠すからこそ良いのではないか。隠さないものなど何が良いのか。
誤解を恐れずに世阿弥の言葉を解説するならば、そのようになる。
包み隠さない、そのままの姿もまた良いかも知れぬ。しかし、隠してこその花ではないか。そう考えた時に、浮かんでくる選択肢は、ロングスカートである。足首がやっと見える程度のロングスカート、その趣を考えて頂きたい。
嘗て清少納言は自身の著作「枕草子」の冒頭で「春はあけぼの」と語った。「やうやう白くなりゆく。やまぎは少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる」と続くのであったろうか。虚覚えであるがゆえに間違いがあれば御容赦頂きたいが、確かその後には「夏はロングスカート」と続いた筈である。私の記憶が確かならば。
そうなのである、「夏はロングスカート」なのである。秘すれば花、の精神を体現するロングスカートを私は賛美したい。
印象派から象徴主義へと続いた芸術の流れを考えれば、この問題提起に対する理解を深める手伝いとなるかも知れない。光の美しさを表した印象派、それに対して物質主義や実利的なブルジョア主義を批判した象徴主義。朝を描いたのが印象派だとすれば、黄昏を描いたのが象徴主義である。ロングスカートとは極めて象徴主義的ですらあるのだ。世阿弥の言う神秘主義をも内包しつつ、精神性に重きを置く象徴主義を具現化するロングスカート、最早至高の芸術であると評さずにはいられない。
日本のロングスカート界には偉人がいる。幸いな事にまだご存命であるが。石田ゆり子(Yuriko Ishida ,1969〜)氏である。
現在パソコンからこの文章を書いているのであれば、そのご尊顔をここに添付もしたいのであるが、生憎現在は携帯電話から書いているため、それも叶わない。あくまで読者諸氏の各自の想像力に委ねる事となるが、氏が夏の黄昏の中でロングスカートをはためかせている風景をご想像頂きたい。全盛期のマイク・タイソンのパンチ力を10だとすれば、12ほどの破壊力がそこにはある。つまりまともに喰らえば即死、というレベルである。意識をまともに保つ事は許されず、半ば強制的に視界は歪む。恐らくPS3を発売日に買いに行った輩も「これ、綺麗ってレベルじゃねえぞ!」と怒号を上げるに違いない。あまつさえ柳沢某氏は「急にボールが来たので(QBK)」と呟く事だろう。
はためくロングスカート。ちらと見える足首。そしてその奥に潜む、秘しているからこその「花」。これぞ日本の侘び寂びを生かした美である。異論は認めない。
更に私の好みだけを語らせて頂くならば、そのロングスカートから覗いた足先には、いささか薄汚れたスニーカー、これが鎮座していれば完全体である。但しこれはいささかマニアックな嗜好である事も自覚しているので、共感は求めない。
ロングスカートの素晴らしさ、ご理解頂けたであろうか。
本当は今週末、土曜日のライブの告知をしようと思っていたのに。
26日土曜日、隅田川花火の傍らで亀沢アーリーバードでピアノソロのライブやっていますからね。21時スタート、来て下さいね。
明日きちんとライブ告知書こうっと…
本日の三軒茶屋のうどん屋さんのライブですが、変更があります。ハーモニカの皆川さんが急遽体調不良により出演出来なくなりましたので、代わりに田仲雅和というサックスと一緒にやります。
大学時代の後輩なのですが(卒業したのはぼくより先です、何故か)、若くてイキの良いサックスです。
張り切ってやりますので宜しくお願いします!
タイトルは本文と一切関係ありません。
当日なのですが、今日、7月18日はライブです。三軒茶屋、「お山のすぎの子」、うどん屋さんでのライブです。ハーモニカの皆川さんとです。投げ銭(カンパ)制なので、お気軽にどうぞ。見に来て下さいね。
今から少しだけレッスンして、その後に本日のリハーサルします。
カバンの中には着替えも入っています。最近のぼくのファッションは流行の最先端をいっているので、Tシャツに短パン、麦わら帽子で首からタオルという、Kiyoshi Yamashita的な(Naked Taisho、和名、裸の大将的な)出で立ちで大都会TOKIOを闊歩しているのですが、さすがにそういう格好で演奏をすると怒られそうなので、しっかり着替えも持ってきています。演奏が終われば、また野に咲く花のようなファッションにすぐに戻ります。
に、にんげん、お、お、おこるとおなかがすくんだな。
兵隊の位でいうとトイレ掃除係ぐらいのぼくがお届け致します。
皆さん、どうも。頭脳は子供、体はオヤジ、福島コナン、変態です。
今日は異性と二人きりで食事に行った後、「いざ鎌倉!」的な状況になった時に、「や、ふくしまくんの事は友達としてしか見れないから、ちょっとヤメテ!」みたいなヌルい台詞をカマす女のメンタリティを、理路整然と否定します。ジッチャンの名にかけて!
嘘だ。
そんな事は書かない。
今日は病院で待たされまくっていて暇なだけなのだ。
などと極めて下らない事ばかりを考えている日常である為、私の日々はさして忙しくはない。
演奏の仕事、レッスン、リハーサル。結構な割合でこういった用事が入っているけれど、時間にしてみればフルタイムの仕事をしている方々の、恐らく半分にも満たない。私は結構暇なのである。
空いた時間は、ピアノの練習に充てるか、部屋の隅で体育座り(三角座り)での飲酒に充てるかの二択である。日々は極めて淡々と過ぎていく。それはそれで決して悪くはない。強がりなどではなく、本当にそう思う。
ただ、上述したように、日々何がしらの用事が入っている事が多い。丸一日、完全に予定のない日というのは最近はとんと少ない。ありがたい限りなのだが。
昨日、久しぶりの完全なオフの日を迎えた。何も予定はなかった。何時に起きなくてはいけない訳でもなく、どこかへ行かなくてはいけない訳でもない。私は自らの身の振り方を考えた。さて、何をするか、と。
普通に考えれば、いつものようにピアノの練習に一日を費やすのが無難だ、と思うに至った。金もかからない。技術も多少なりとも向上する。あまつさえ、最近購入したばかりの録音機材を試す機会でもあった。それはどこからどうみても正しい解答なのだが、結論から言えば、私はその選択肢を選ぶ事はなかった。
私が選んだ選択肢は、魚釣りであった。
月曜日にも友人達と魚釣りに行っていた。鯵を釣りに行ったのだが、潮の流れに恵まれなかった事もあり、散々な釣果であった。私は若干釣りに対して欲求不満を感じていたのだ。
それを解消すべく、釣りに向かった。向かったのは江戸川区南方の新左近川である。鯊(ハゼ)を釣りに向かった。
我が家から環七をゆっくりと南下する事一時間程度で新左近川には到着する。平日で人も少なく、ポイントはほぼ選び放題だったと言って良い。到着したのは朝9時ぐらいだったが、午後からの強烈な日差しが容易に想像出来た為、日差しを避ける木陰のポイントに自転車を停め、竿を出す。下半身の竿を出した訳ではない。文字通り釣竿を出しただけだ。当ブログをお読みの諸兄は、どうやらすぐに下ネタを連想してしまいがちな傾向があるようなので、注意を喚起しておこうという意図である。
糸を垂らすと直後にプルプルとアタリがある。喜び勇んで竿を合わせると、すっぽ抜ける。やはり次も同様である。鯊釣り自体は随分と久しぶりの為、勘が鈍ったか?と自ら訝る。
幾度か同様の事を繰り返した後に、いささか小振りな鯊が釣れ上がる。そういった事が昼前ほどまで続いた。
昼前には、20匹少々の鯊を釣り上げていたが、それは決して優れた釣果ではない事も知っていた。
鯊のアタリ、それは二段階に分けられる。
コツ、コツ、というアタリ。これは水中で鯊が餌をつついている合図だ。この時点でアワセれば、当然すっぽ抜ける。針を未だくわえる以前の段階なのだから。
コツ、コツ、というアタリに対して静観という姿勢を取っていると、間もなくプルプルと竿先を震わせるアタリを感じる。これが二段階目のアタリである。このアタリが出たら即座にアワセをしなくては、鯊は針ごと餌を吐き出して逃げてしまう。
そのタイミングを掴む為に半日を要した。こうして言葉にしてしまえば容易だが、実際には体で覚える他ない、というシビアなタイミングだ。結果として、70匹近くを釣り上げる釣果となった。早い段階でこのタイミングを体得していれば、束釣り(一束とは、百匹を表す単位である)も不可能ではなかっただけに、多少は悔やまれるが、全体的な結果としては満足である。
私はこの鯊釣りとは、まるで茫漠とした我々人間の人生のようだ、と思うに至った。無論、話が若干飛躍的になり過ぎているのもわかる。しかし、こう考えてしまうのだ。
鯊釣りにおいて、かなり多量のアタリを感じる機会があるように、我々は人生において幾多の好機に出くわす。それを我々自身が好機であると認識出来るか否かは別にして、それは恰も星の数ほど降り注ぐ。同様に不幸の種も降り注ぐのかも知れないが、それとて同じ事だ。そういった好機を「掴む」か否か、そのタイミングは極めて微妙にして繊細なものだ。仕掛けるタイミングは、一分一秒ズレる事すら許されない。大抵の好機は、私の見当違いな仕掛けるタイミングによって、風塵へと帰す。
鯊釣りと私の人生を比した時に最も大きな違いとして感じられるのは、集中力である。鯊のアタリに神経を集中させる事は可能だが、人生の全ての好機に対して常に神経を張り巡らせる事は、私にはいささか困難である。疲れてしまうし、そもそも全ての好機を効率良く掴もうなどと初手から考えていない私がいる。
それはそれで仕方の無い事なのだが。
仕方の無い事なのだが、確かに私は好機を数多逃しているに違いない。後悔など微塵もしないが、厳然たる事実として確かにそうであろうと感じたのだ。
こういった事から私が自らに対する教訓として得たのは「チャンスが少ない、などと嘆くなかれ」という事である。その気になれば、チャンスなど幾らでも転がっている。それこそ鯊のアタリのように。問題は、それを掴み取るか否か、その一点に尽きるのである。
仕事に対しても、人間関係に対しても、或いは恋愛に対しても。
好機を逃すのには、それ相応の理由がある。悲観的に、そして自己憐憫的に自らの不遇を嘆くばかりでは何一つ進歩もあるまい。
タイミングを体得する事。これが重要なのだ。
私は鯊釣りに人生の機微を学んだ。
さて、結論である。
久しぶりに行った鯊釣りだったが、超面白かった!また行きたい!一人で行くと危険だね、朝から晩までひたすらにやっちゃうもん。あ、添付の写真は、15cm強の大型鯊です。結構引くんだよ、こいつが。
帰ってから、鯊を唐揚げにして食べた。美味かったなあ。ビールのお供に最適!ダイエット?そんなの知らないよ!あんなに美味いんだったらもうデブでいーもーん!
今度は江戸川のボート行こうっと。
今月は少ないんですが、ライブします。来て下さい。
さて、最近また更に太ってまいりました。もはやぽっちゃりというレベルではなくなっています。
これからはジュースは常にペプシネックスを。ビールはいつでもDiet生を呑もうと思います。
ああ、太るよう。今日もまた自分史上最高体重を更新していました。
痩せたい。マジに痩せたい。運動も増やします。また明日は自転車に乗ります。
7月18日(金)東京三軒茶屋 お山のすぎのこ
tel 03-5486-0094
http://www.oyamanosuginoko.com/
harp:皆川和義 pf:福島剛
三軒茶屋のうどん屋さんでのライブです。ちょっと変わった雰囲気の中でのライブですが、「だがそれが良い!」と言ってもらえるように頑張ります。うどんがとても美味しいお店です。どんべえとは全然違います。何て言うかねえ、ダシが美味いんだよなあ。
19:30~start music charge:投げ銭(カンパ制)
7月26日(土)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
恒例のアーリーバードでのピアノソロです。この日はちょっと遅めのスタートです。近くで隅田川の花火大会がやっていますので、終わってからでも見に来ませんか。
21:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
良い酒と悪い酒がある。良い嘘つきと悪い嘘つきがいるように。
以前から度々書いているが、酒の良し悪しを分けるのは、酒の品質以上にその酒を呑む状況(シチュエーション)だと私は考えている。
安い酒でも、然るべき状況を用意してやれば充分に美味くなりうるし、勿論その逆もまた然り。
そういう意味では、先日は随分と良い酒を呑んだ。小学校以来の友人と一緒に。
一緒に呑む直前に、ケチな博打をした私がちょっとしたあぶく銭を手に入れた。
今日さ、あぶく銭が入ったからそれ全部使っちゃおうぜ。
そう言って宴(うたげ)はスタートした。焼肉屋からスタートして、その後は何軒行ったかも覚えていない。家に帰りついたのは恐らく朝の6時だか7時ぐらいだ。うっすらとした記憶の片隅に、初体験のフィリピンパブと全然見知らぬスナックの風景がある。帰り際に吉野家で豚汁を食べたのもうっすら覚えている。断片的な記憶しかないが、愉しかったのは覚えている。宣言通り、財布の中身もほぼ空になっていた。まあたまにはそんな事もある。私のような貧乏人がたまに金を持つと、気が大きくなって湯水のように使ってしまうのだ。それは何か、と聞かれたら「下品」と答える以外あるまい。理解してもらわなくても結構だが、こうして男同士で遊びで呑む酒は、私にとってはかなり上級の「良い酒」なのだ。
それとは対照的に、今日は悪い酒を呑んでいる。
家で独りで。苛立ちながら。鬱屈としながら。自らの非力と怠惰を投げやりに嘆きながら。
発泡酒から焼酎いいちこ。意識がまだ十全にあるのがかなり鬱陶しい。早く意識が飛ばないだろうかとばかり考えながら呑む酒の何と不味い事か。
いけませんね。苦し紛れにこんな所に愚痴を書いています。
明日なんて来なけりゃ良いのに、と久しぶりに感じて、その感覚に何か懐かしさを覚えている自分がいます。
書きっぱなしにも度が過ぎますが、今日はこの辺で。
地震、雷、火事でも手淫、と。
ライブの情報。見に来てもらいたいので、載せておきます。
7月4日(金)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
今月も二回やります、入魂のソロです。やりたい音楽を、やりたいようにやっています。
20:00~start music charge:2500円(1ドリンク・おつまみ付)
さて、昨日のブログの内容について、いくつかの感想を頂いた。コメント欄に頂いたものにはきちんと返信を書くが、それ以外の感想も頂いた。
曰く、「あまりスッピン女性の美しさが伝わってこない」とのご指摘が一つ。ならば、と思い立ち、未練がましいのは承知の上で補足をここに追記しようという魂胆である。本日も、女子供は帰った帰った。
書店でよく目にする女性誌の見出しやコピーが、甘いカクテルよりも苦手な私である。「この秋、明るいニットが超マスト!」などのコピーは言わずもがなであるが、「内面から美しくなる12の鉄則」みたいなコピーも反吐が出そうなほどに嫌いである。責任者、出て来いよ、とかぶりを振りながら憤りを表したい。内面の美しさが本当の外面的な美しさを醸し出す、それはそれで事実だとは思うのだが、そのように安易に表現されてしまっては、私も辟易としてしまう。
しかしながら、このスッピン至上主義は、言葉の使い方を一歩間違えてしまえば、そのような安易な賛辞に陥ってしまいかねない。故に私も言葉を慎重に選びつつの運びとなる。
一つ誤解して欲しくないのは、「化粧によって女性が美しくなる」という事を私は決して否定はしない、という点である。化粧は女性を化けさせるだけではなく、美しくも見せる。それはそれで一つの事実なのである。しかし、それを「敢えて捨てる」心意気。この心意気に私は武士道に卑近な例を見る、何か潔さのようなものを見るのである。
ドラゴンクエストというゲームをご存知だろうか。私の世代、つまり30代前後の男性諸氏ならば、このゲームの存在を全く知らずに育った方というのは皆無なのではないだろうか。かく言う私も幼少の砌、このゲームに夢中になった口だ。私が一番好きなのは、ドラクエⅢそして伝説へ、である。
このゲームは、様々な敵を倒して経験値を獲得し、自らのレベルを上げていくといったものである。その過程で様々な出会いや別れを主人公たちは経験する。そしてまた、物語を進める上で必須なアイテムを、主人公たちは獲得していくのである。この重要アイテム、化粧とはそれに類するものなのだ、と考えていただきたい。
人間は手のひら一杯の米と野菜で生きていける、私の敬愛する宮澤賢治はそう言った。手に持てるものだけで良しとしなくてはならない。つまり、余剰は「捨てて」いかなければならないのだ。
ドラクエにおいても、余った道具は売るか捨てるかしなくてはならない。しかし、重要なアイテムを「捨て」ようとすると、「それをすてるなんてとんでもない!」という神の声が飛んでくるという斬新なシステムが採用されている。強制的に「捨てる」ことを拒否される、という訳だ。
王者の剣、というアイテムがある。「こうげきりょく」が125もアップする(数値はうろ覚え)夢のようなアイテムであり、当然捨てるような真似は許されていない。捨てようとすれば、「それをすてるなんておまえはきちがいか」という天の声が聞こえてくる。
つまりは「化粧」とはそういったアイテムである訳だ。装備すれば強くなる事は目に見えている。捨てようとすれば天に拒絶される。しかし、敢えてそれを捨てる、スッピンの持つこの心意気である。
スッピンという生き方を選んだ女達は、とにかく「捨てる」。「それをすてるなんてとんでもない!」と言われようと何だろうと、捨てるものは捨てる。「ラーの鏡」だろうと「最後の鍵」だろうと、ばんばん捨てる。たとえその後の冒険に支障をきたす事が目に見えていても、捨てるものは捨てるのである。これをどうして礼讃せずにいられようか。いや、いられない(今日も反語)。
軽い装備で冒険を続ける為には、己の根本的なレベルを上げておく必要がある。つまり、安易な言い方を模すならば、それこそが「内面的な美しさ」という事になる。はぐれメタルを倒しまくらなくてはならないのだ。
そこで一つの価値基準の転覆が起きる。
そもそも戦わなくてはいけないのか?というテーゼ。
つまりはドラクエ的世界観の放棄である。
戦いを有利に進めるために、主人公たちは経験値を積む。そしてレベルを上げ、更に強い武器を手に入れていく。しかし、そんな事は最早どうだっていい事なのではないか、そういった崇高な諦観がここから見ては取れないだろうか。
「私には私の生き方がある」とか
「自立した女の気持ちがなぜわからないの?」だとか
どこそこのレストランで地中海料理を食べるだとか
「イタメシにエスニック、ボルシチなんかも最高よね」って言いながら
と私はまたも長渕剛の歌詞を引用してしまう。
そういった「戦い」を諦める強さが、スッピン女性にはある。手に入れたものは、「捨てる」のである。
素顔のままで良いじゃないか。
美しいものを愛でたい気持ちはわかる。十全に理解は出来る。が、本当に美しいものは、少々いびつな形をしている事も往々にしてある事を私はご理解いただきたいのである。
嘘だとお思いならば、セロニアス・モンクの亡くなる直前のピアノソロの演奏に耳を傾けていただきたい。そこには何の虚飾もない、スッピンの美しさがある。簡素で素朴。けれど、何人の追随をも許さない、独特の美しさがあるのである。
という事で、二回に渡ってお届けしたスッピン女性への礼讃。これにてお開き。今日は私は今から病院に行かなくちゃならねえんだよ。
さようなら。また来世で。
7月に入った。
先月までも私は日々努力を怠らなかった。
今月からもまた、新たに心を引き締めて努力を重ねていく所存である。
何の努力かと言えば、飲酒の努力なのだが。
日々寝る間を惜しんで飲酒に勤しんでいるのである。他人からは努力と認識されないのがつらい所ではあるが、荊の道である飲酒道に怠慢は許されない。本日も仕事帰りの電車の中から発泡酒により飲酒はスタートしている。カープも勝ったので祝い酒である。
さて、暇潰しに何を書こうか。
あ、ライブの告知書かなきゃいけないんだけど、それは携帯からは無理なんだ。家に帰って書こう。今度の金曜日に錦糸町でソロピアノです。
さて、と思案するが、結局以前少々予告した「礼讚、スッピン女性」について書こうか。世間的には歪んだ私の女性の好みが論述される事は請け合いなので、ここから先は、女子供は読まないで頂きたい。今すぐブラウザ左上部の「戻る」ボタンを激しくクリックする事を推奨したい。
スッピンとは、一つの哲学的で形而上学的な観念形態である、と私は考えている。それは崇高な意志の元に支えられる人生に対する強固なスタイルだと言って良い。スッピン女性を見る度に、私は己の矮小さを自覚し、力無く頭を垂れる以外に術を失うのである。
化粧。それは女性を化けさせる魅惑の手段である。化粧をする事によって彼女達は「いつもと違う自分」を手に入れる。否、手に入れた気になる。そこに諸悪の根源は存在するのだ。
中島みゆきの佳曲に「化粧」というものがある。その歌はこう歌う。
化粧なんてどうでも良いと思ってきたけれど、今夜死んでも良いから、綺麗になりたい。こんな事ならあいつを捨てなきゃ良かったと、最後の最後に、あんたに思われたい。
と。
切ない女心である事は疑いの余地もない。捨てられたのだが、惜しまれたいという自尊。それを中島みゆきは情感たっぷりに歌い上げる。我々人間が抱える「認められたい」という宿便のごときカルマを、何とも切ないケースを利用して粛々と歌い上げる。曲のクライマックスに歌われる
バカだね、バカだね、バカだねあたし、愛してもらえるつもりでいたなんて
という箇所などは、情念や恨み節などを通り越したカタルシスさえ感じられる。
しかし、である。事はさほど単純ではない。
このストーリーの場合、「化粧をして綺麗になってあんたに後悔させてやりたい」という自尊が歌われている訳であるが、そもそもそれは「後悔させる為の手段」としては妥当かつ効果的なのであろうか。私はそこに疑問符を投げ付けたい。
それ以上に、「化粧なんてどうでも良いと思ってきたけれど」というメンタリティ、これこそが現代用語で言うところの「萌え」な訳である。
ならば、捨てた男を後悔させる為の最良の手段としては、化粧は妥当ではない。
男同志には、「ハズレのない会話」というものがある。それは凡そ、野球、博打、エロの三種類に大分される。男達はみなその三種の神器とも言えるトークが好きなのだ。異論は認めない。少なくとも私の周りはそうだ。
女性同志でも「ハズレのない鉄板話」があると聞く。それはどうやら恋愛、美容、そして化粧である、というのだ。何だそれは。どれも至極つまらない話ではないか、と憤るのは股間に拳銃(ワルサーP38)を具備した我々男性のカルマである。
つまり、スッピンという生き方を選んだ女性というのは、こういった大多数の女性達の「円」からの脱却を意図したものだと考えて良い。
疎外感。孤独。そして孤立。
様々なものを彼女は感じ、そして懊悩するであろう。しかし、その懊悩する姿こそが、学術的用語で言うところの「萌え」な訳である。
綺麗には着飾れない。周りの女性達がどこそこの化粧品が良いとか、バッグを持つならシャネルが良いとかプラダだとか、スカーフはエルメスよ、金持ちのボンボンからもらったティファニーのオープンハートのネックレス、などと長渕剛の歌の歌詞のような事を言っている横で、「あたしはそういうの苦手だから…」と明るく諦めながら、それでも心持ち俯き加減な女性をどうして愛でずにいられようか。いや、いられない(反語)。
30歳を越えたら無理のないナチュラルメイク、だ?寝言は寝て言え。
若い内は良いだろう。背伸びがしてみたい年頃の心理はわからなくもない。若い内は化粧ぐらい許してやらない事もない。しかし、30歳を越えたらスッピン。この一択キメ打ちで間違いない。
女性が化粧をしなければならないなどという忌々しい慣習は、今すぐに捨て去るべきだ。
スッピン、礼讚。
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