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2008年6月12日 (木)

感性なんてくそくらえ

作家の友人石田ゆうすけ氏が彼のブログに私の事を書いてくれた。売名行為の為に本上まなみあたりとスキャンダルの浮名でも流すか、と画策していたところだっただけに、嬉しいものである。ちなみにもし本上まなみ女史が当ブログを見ていた場合は、早急に連絡を乞う。もしくは彼女の連絡先を知る方か、或いは石田ゆり子女史が連絡をくれても構わない。そこからはバラ色の未来が彼女たちを待っている事に一分の疑いの隙も無い筈だ。

さて、紹介していただいたのは大いに嬉しかった。しかし、困った事に彼は私を左翼で酒乱のピアニストだと紹介していた。

ううむ、誤解を招きそうだ。

実際の私は右翼で下戸であるというのに。

まあそれはどちらでも良いか。さしたる問題ではない。

彼と酒を呑みながら(あ、間違えた、私はウーロン茶だった)話をしている時に、いくつか興味深い話題になった。今日はその事を思い出しつついくつかの考察をだらだらと綴ってみたい。

石田ゆうすけ、彼は作家であるから、人前で「書く」事を生業としている。そして、私は彼よりも規模は劣るが、ピアニストであるから人前で「弾く」事を生業としている。手段の違いこそあれ、仕事の種類としては比較的似ていると言っていいだろう。

表現にあたって、やはり怖いのは「独善性」だよな、という話になった。何かの弾みで。

何の弾みでそういう話になったのかは覚えていない。私の体全体だけでなく、脳にまでアルコー、、、ではなかった、ウーロン茶が回っていたからである。私は酒も吸わなければ煙草も呑まない。目的語と述語が混乱しているのは、私が狼狽えているからなのだろう。

閑話休題、独善性だ。

ネット、特に自身のホームページなどで自作の小説を掲載しているものを時折見かける。私もこのブログにたまに冗談半分で載せたりもする。実はずいぶん昔に悪趣味だとは知りながら、自身のホームページで小説を載せているサイトをいくつか探して見てみた事がある。

音楽に関してもそうだ。自作の曲、或いは自らの演奏を簡単に他人に披露できる。最近はネットを中心に発表の場が極端に広がっているのだ。

あくまで自分の事を棚に上げて言わせてもらうが、そういったホームページに載っている作品の約9割5分、つまり殆どが、「とてもつまらない」。

それではお前がどれだけ面白い文章を書いているんだ、どれだけ素晴らしい演奏をしているんだ、と聞かれたら少々困るのだけれど。

つまらない、というのは、つまり人に見せるようなレベルの代物ではない、という事だ。基本がしっかりしていないから読みづらい、聞きづらい。その上、自分の感性はあまり他人には理解されない、といった自己憐憫はぷんぷんと匂う。参ってしまう。

文学新人賞というものがある。私も嘗て送ってみようかと思い、短編(中編かな?)を書いたことがある。自分では結構面白いものが書けたという自負があったが、何だか数日後にもう一度読み返してみたら自分の中で何かが白けてしまい、送るのをやめた。私が落選にしたが、実際に送ってみた所でも落選だっただろう。そういう事は、直観としてわかるのだ。だから私はその作品をネットでは紹介しない。勿論このブログでも。私の感性が、などというつもりも毛頭ない。私には面白い作品を書く「能力」が欠如していたのだ。

だから、ネットなどで自らの作品を披露している姿を見ると、若干、苛立つ。

はっきりと言ってやろうか。お前が落選したのは、審査員に見る目がなかったからではない、お前に力がなかったからなのだ、と。(これが最終審査まで残って、という事ならば話は少々変わるが)

さて、ここからが本題なのだが。

驚いてしまうのは、そういった作品にも、少数ながらファンがついているケースが往々にしてある、といった事だ。

路上ミュージシャンの横に「私だけは理解してあげるんだから」的な女性がぽつんと見ているという光景はよく目にするが(from『臨死!江古田ちゃん』)、それに近い感覚と言えば良いのだろうか。何か見ていてとても歯痒い感覚を覚える。

石田ゆうすけ氏がその問題について、何ともはっとする事を言った。

「いやさ、何かね、発表しときゃあ、とりあえずファンなんかつくんやって」と。

おお、そうかも知れない!と私は妙に納得した。人間の感性において、本当に個性的で独創的なものなど、殆ど存在しないにも近い。誰かが考え付くような事をなぞっているだけだ。ならば、どこかで共鳴する、感性にぴたりとはまるオーディエンスなど、ザラに出る、という事だ。

ならば、技術の伴わない状態でファンがついてしまった時に、その状態に満足してしまうのは、本当に怖い、という事だ。

私の音楽は、或いはこれまでに誰かを感動させた事があるかも知れない。けれどそれは、私がすぐれた表現者だったという証明にはなりえないのだ。タイミング、状況、様々なものが相まって、「たまたま」聴き手に届いた、という可能性の方が高いのだから。

私は、「自分に才能がある」とどこかで思っている。けれど、そんな事は大多数の人間が思っている事なのだ。逆に「全く自分には才能が無い」と思っている人の方が実際には才能があるのかも知れない。知らない。そんな事はどうだって良い。

極論暴論を承知で言うが、ある一定のレベルを超えてこない表現は、大抵が見ていて苦痛だ。少なくとも私には。

そして私もそうした観衆に時に苦痛を与えている一人なのだ、という事を理解しなくてはならない。

まだ芸を磨きたい。

私の感性など、知った事ではない。

芸を磨きたい。

そうそう。ここ数年、何か願い事をして良い場合には「ピアノが上手になりますように」と小学生女子のような願い事を書いている。来月の七夕にはそんな願い事をしようかな。

あ、そうそう、七夕には釣りに行きます。同行者募集中です。現在私を入れて3人集まっています。

ピアノが上手になりたいなあ。

明日も練習しよ。

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コメント

いい論点ですね~(笑)。

>タイミング、状況、様々なものが相まって、「たまたま」聴き手に届いた

これって、いっしゅの「キセキ」みたいなことですよね。
こういう状況を慈しむのは、無常感を伴いつつも、私も好きなんですよ。世の中の9割6分がダメだと感じているから、残りの4分に遭遇すると、つい、ね。

独善、ですか。
確かに、客観的に検証できない分野で勝負している人たちにとってはもっとも怖い部分ですね。
技術を磨く過程でホントがわかるようになってゆくのでしょうね。
今後がますます楽しみです、ありがとう。

あ、石田さんのブログの乳がんの話も面白かったです。村上春樹の短編にシンクロしました。

投稿: あのじ | 2008年6月13日 (金) 07時25分

あのじさんもブログの背景変えられたのですね。
私、前の背景とても好きだったのです。
あッ スミマセン 余計なことを書いて。
福島さん繋がりでこちらにリンクしているブログも すべて拝見しています。
石田さんの6月14日のつつしみのある日記を見て ゆうすけさんのお人柄を再認識しました。
福島さんへのコメントでなくてごめんなさいネ。

投稿: 桜 | 2008年6月16日 (月) 14時07分

あのじさんへ
この文章は、読み返してみたら中二病全開でイタい事この上ないのですが…言い訳すれば自分への戒めです。感性なんて安易な言葉に逃げ込まずに、しっかり謙虚に努力しよう、っていう。
うん、しっかりやります。コメントありがとうございます。

投稿: ふくしまたけし | 2008年6月17日 (火) 23時54分

桜さんへ
ぼくですらきちんとリンク先を全部見てないのに。でもこうやって言ってもらえるとリンクを貼る甲斐があります。嬉しいな。
石田ゆうすけ氏は、文面からもわかる通り、良い人ですよ、すごく。包容力があるな。ぼくからしたら兄貴的な感じです。阪神タイガースファンなのが欠点ですけど笑

投稿: ふくしまたけし | 2008年6月17日 (火) 23時58分

桜さん
拙ブログ、ご覧頂いておそれいります。
わたしも梅雨をむかえて、背景、こざっぱりさせてみたのですが・・・。
また、季節がかわったら模様替えしようと思っております。

ふくしまさんのところは見やすくなりましたよね、季節感があってカワイラシクテたいへんよろしいかと。
先日のアーリーバードに伺えなかったのが残念。

投稿: あのじ | 2008年6月22日 (日) 14時18分

あのじさんへ
カワイラシクテって言われると大変嬉しいです。どうぞこういう風に掲示板代わりにも使ってやって下さい。

投稿: ふくしまたけし | 2008年6月25日 (水) 13時37分

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