凡百の狂気
本日、「面白くない宣言」、します。
藪からスティックにアレだが、正義、という言葉を信用していない。ソフトバンクの社長の話、ではない。大義名分などに使われる正義(せいぎ)の話だ。ベッドの上でのテクニックの話(性技)、でもない。
甘美な響きがする言葉だというのも、何となくわかる。アメリカがイラクやアフガンを侵攻する際にはくどいほどに正義の言葉が使われ、一部の国民はその言葉に酔い、熱狂し、一部の兵士は命を賭した。そうやって人々を駆り立てるほどの力を持つ言葉であるのだ。
正義の為に我が身を犠牲にする人間。そういった人々には、私はあまり反感を抱かない。それは当たり前な人間の姿であるように思えるからだ。
例えば第二次世界大戦中に日本国の為に狂信的に我が身を賭した人々を、現代を生きる我々の価値観で非難してはならない。或いはもう暫くして、現代史が「歴史」になっていった時には、「それはそれ」として切り離して考える事が可能になるのだろうか。私の印象では、第二次世界大戦は未だ現代の延長線上にある。既に、西暦1600年前後の戦国時代が「歴史」になってしまっているのに比して。
私を含めた凡百の人間達は、正義を欲する。逆説的に偽悪的(或いは自己憐憫的)になるケースもあるが、それは欲した正義が手に入らなかった反作用だ。同じ事なのだ。正義を欲する心は、根源的な「認められたい」という欲求と置き換える事も可能なのではないだろうか。
だから、仮初めとわかっていながらも「正義」を手に入れた時、我々は、熱狂する。身をすら、賭す。
正義とは、都合の事なのではないだろうか。
最近、映画(『実録・連合赤軍』)を観た事もあって、連合赤軍の事をよく調べる。映画を観て、そして彼らの事を色々と知るにつけ感じたのは、リンチによる仲間殺しからあさま山荘事件まで、彼らは一貫して正義を自覚していたのではないだろうか、という事だ。私から見れば、それは随分と見当違いな正義だ。しかし、当時の彼らからすれば、それは真摯な正義だ。どちらが正しいという事ではなく、私と彼らとでは都合が違うのだ。
もう一点注目したいのは、閉鎖された空間の中で正義がエスカレートしていく、という点である。連合赤軍のみならず、十数年前のオウム真理教の事件にも同じ事が言えるのではないだろうか。そして第二次世界大戦中の日本にも。
他者を排除していく事によって正義は狂気へのベクトルを向く。それは何か特別な事ではなく、化学反応みたいなものに思えて仕方がない。Aという薬品とBという薬品とを混ぜ合わせて密閉して暫く置けばCという毒物が出来上がる、という化学式のように、正義を閉鎖された空間に閉じ込めて置いておけば狂気が出来上がる、といった具合に。つまり、それは彼らが特殊な人間達であったが為に犯罪に及んだのではなく、彼らが「特殊な環境(状況)」に置かれたが為に起きた、ある意味では自然な流れだったのかも知れない、と。
ある戦慄を感じるのだ。
私も、然るべき環境・状況に置かれた場合、狂気へと傾く可能性は大いにある、と。
それは私が潜在的な狂気を飼っているからというよりはむしろ、私が凡百の人間であるからだ、と言って良い。
凶行とは、対岸の火事ではない。
すぐそこにある、休火山みたいなものなのだ。
何が書きたいのかさっぱりわからない。
そうか、死ねば良いのか。
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いや、生きる!!
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コメント
私も『実録・連合赤軍』観てみたい、とずっと前から思っていました。
そして、連合赤軍ってテロリストではないんじゃないか?などと、最近考えていたところでした。
別に、彼らの言動を擁護するつもりはありませんが。
福島さんとは、考える事がリンクする時があって不思議です。
投稿: たまご | 2008年5月25日 (日) 01時06分
たまごさんへ
ぼくの見解では、彼らはれっきとした「テロリスト」です。これは間違いない。彼らが行った一連の行動もまた確かに「犯罪」である、と。但し、それらは全て対岸の火事、つまりは他人事じゃねえよなあ、というのが映画を見て感じた所でした。良い映画でしたよ、色んな意味で。
投稿: ふくしまたけし | 2008年6月 3日 (火) 13時48分