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2008年3月

2008年3月27日 (木)

俺と悪魔のブルーズ

今日は普通の日記です。多分つまらないので、暇な人以外は読まないように。

昨日は久しぶりにピアノに一秒も触らなかった。日雇いアルバイトを朝から晩までしていたせいなのだけれど。

不思議とさほどの焦りはない。今日は忙しくてメシを食い忘れた、とか、そう言えば今日はクソを出していないな、とかそんな感覚。その分今日は余計にたくさん練習しよう、とはならずに、普段通りの練習を淡々とする。

落ち込む事や腹の立つ事、鬱陶しい事がいくつか続いたせいで、生活が少し不安定になっていた。そのせいで本が読めなくなっていた。文字は目で追うが、内容が入って来ない。あれ、この登場人物、誰だっけ?主人公、何で朝鮮なんかにいるんだっけ?といった具合に。つまらない考え事や妄想ばかりが頭を駆け巡り、それ以外の「物語」が頭に介在する事を許されないような状態。何だかなあ。

ふと、ブルーズの伝説を思う。

真夜中にクロスロード(四辻)に立ち、ブルーズを一曲歌う。するとどこからか悪魔が現れ、契約を求めてくる。

「お前の魂を俺に売り渡せ。その代わり、お前はブルーズを手に入れる」と。

一晩にして、あらゆる辛苦や懊悩と共に、ブルーズを手に入れる。そんな伝説。

厭な事や哀しい事、腹立たしい事や嬉しい事も全て、芸の肥やしにしてしまおう。悪魔に魂を売り渡す気概が私にあるのかどうかはわからない。けれど、私がブルーズを手に入れたいのは確かだ。

ナッシング・バット・ザ・ブルーズ

さあ、また今から仕事だ。

帰ったら、サン・ハウスが聴きたい。ロバート・ジョンスンは少しヘビー過ぎるな。

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2008年3月25日 (火)

基礎練日和

昨晩から、得体の知れない苛立ちがすごい。

夜間に一度吐いた。その苛立ちが胃を圧迫してしまって。素面でいたのも悪かったのかも知れない。酔っ払ってしまえば良かったのに。

知らない誰かに殺意を抱いている。意味のわからない暴力衝動がせり上がってくる。

勿論具現化はしない。したら犯罪だから。捕まるのが恐いから。

再確認。私は心の中に魔物を飼っている。存外に普通の事なんだろう。

解決策はたった一つ。

ピアノを弾く事だけだ。さ、練習しよ。こういう時こそ、ひたすら無心に基礎練習。

今日は、天気も良いし、基礎練習日和。

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2008年3月21日 (金)

1クールのレギュラーよりも1回の伝説

Egashira_3 前回に引続き、今回も江頭2:50(えがしらにじごじゅっぷん)に関する考察である。

前回、いささか酔狂に過ぎると感じていたが、私なりの「江頭=太宰論」というものをぶちまけてみた。恐らく大学の文学部のレポートなどで、「太宰治について原稿用紙5枚程度で自由に論じなさい」という課題に対して先ごろの文章を提出したならば、優良可の三段階で「可」でももらえれば良い所、という出来だろう。所詮は詭弁に過ぎない。私は読み返してそう感じた。

そして今一度、私はこの江頭2:50というお笑い芸人の生き様と対峙する事を選択した。いや、今日は一つの「偉人伝」として江頭2:50にまつわる文章を書こうと私は考えている。

今日は、以後、江頭2:50の事を「エガ神」と表記する、という断りを先に入れておかねばなるまい。

エガ神の弱さ、脆さは、前回太宰治との比較で書いた。エガ神は臆病であり、脆弱だ。だが、キリストや仏陀、或いは親鸞がそうだったように、エガ神は自らの弱さや汚さを、透徹とした真っ直ぐな視線によって自覚しつくしている。腐臭の漂うが如くの自己憐憫などとは到底かけ離れた、それはまさしく「神の視点」とでも呼びたくなるほどの自己認識である。

「私は弱い」

こういう認識に、自己憐憫はつきものだ。反対の「私は強い」という認識も全く同質の自己憐憫を孕むケースが多いが、我々は自分の中にある「人間としての本質的な弱さ」を見つめる時に、どうしても「我が身可愛や」といった視線で自己を見つめがちだ。弱い自分が可愛そう。弱い自分に酔ってる自分が好き、といった具合に。自分を参考にして書いているのだが、我ながら本当に腐臭を嗅ぐが如き尋常ではない臭さだ。そのぬるい視線は、決して透徹とはしていない。そこが、我々凡人とエガ神との差だ。

エガ神の珠玉の名言を幾つか紹介したい。それはまさしく、神の御言葉である。

「気持ち悪いって言われることには慣れたけど、たまに死ねって言われるんだ。 俺は言ってやりたいよ。こんな人生死んだも同然だってね。」 - 江頭250

この御言葉において、エガ神が表現しているのは、諦観と自尊の関係性である。

人から蔑まれるのにも慣れた。自分が芸をすれば、人々は悲鳴を上げ、「見識者」と呼ばれる訳の分からない人間たちが、自分をまるで「恥の権化」であるかのように虚仮下ろす。それでも構わない。―――そういった諦観。

その一方で、最早恥も外聞もない。死んだも同然、常に決死の覚悟で芸に臨んでいるのだ。「死ね」などと言われるまでも無い、既に俺は死んでいるのだ。―――という自尊。

これはエガ神の芸に対する姿勢を端的に表すばかりでなく、現代社会にはびこる「いじめ」を代表例とする「多数が少数を叩く」という病理の、一つの解決策であるとすら私は感じている。つまり、いじめの一つの解決策として(無論万能な解決策などではないが)。まず諦める、けれど自尊を失わない。こういった精神状態というのは、状況打破の糸口となるのではないだろうか。

続いてもう一つの名言である。

「目の前で悲しんでいる人を見つけたら何とかして笑わせたい。 そのためなら警察につかまってもいい。寿命が縮まってもいい」 - 江頭250

私はこの言葉を読んで、正直に言うと、胸の奥がかあっと熱くなった。目の奥の方に、少しだけ涙が湧き出した。それほどまでに私はエガ神のこの言葉に心を強く打たれた。

マザー・テレサにも引けを取らないほどの、比類なき慈愛の心である。私はエガ神の上記の発言に対して、お笑い芸人としてのプライド、つまり芸に対するプライド以上に、その慈愛の心を見た。

こういった優しさ(言葉にすると極めて陳腐に堕すが)から、エガ神の1クールのレギュラーよりも1回の伝説」という稀有なポリシーが生み出されている。そう思うと、賞賛の念を禁じ得ない。

自身へと翻る。

比肩して考える事すら憚れるが、私は、未熟である。

私は、まだ心のどこかで「1クールのレギュラー」を欲している。それは私の立つ音楽というフィールドにおいて、そうだ。「店や共演者に気に入られたい」、「客に広く受けたい」。そういった拭き残して尻にこびりついた糞のような心持ちの為に、私は私の芸に対してまだまだ真摯になれずにいるのではないだろうか。そんな芸を見て喜ぶ人間が何処にいるというのか。私はエガ神の上記の言葉を読んで、姿勢を正したくなった。そして、自らのそういった保身を恥じた。

エガ神の御言葉の中で、私が取り分けて好きなものは、以下の一文である。最後に紹介する。

「生まれた時から目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ? こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」 - 江頭250

芸というものの本質を抉った、痛快で深遠なる御言葉である。私もまた、エガ神のように、芸に対して真摯な姿勢を保ち続けたい。徒然に、そんな事を考えるのだ。

エガ神こと江頭2:50。まさしく彼は、「芸の権化」なのかもしれない。

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2008年3月18日 (火)

がっぺむかつく

~撰ばれてある事の恍惚と不安と、二つ我にあり。~

この言葉を目にして、「第二次UWF」とか「前田日明」とか脳裏に浮かぶ方は、現在30代以上のプロレスファンの方々に違いない。今日はプロレスの話をするつもり。では全くないので、ここからはいきなりの余談だが、私はその当時のプロレスというものは、「プロレスとして最も元気であった頃のプロレス」だと認識している。

現在は、「ショーとしてのプロレス(ex:新日本、NOAH等)」と「それ以外のプロレス(ex:総合格闘技系のイベント等)」との境界線が、極めてクリアになってきている。が、前田日明、藤原喜明、高田延彦、船木誠勝らが「UWF」を旗揚げしたその当初は、まだ現在ほどその境界線は明確ではなかった。混沌とした中で暗中模索しつつ出来上がったのが「UWF」であり、そしてその後の「リングス」、「パンクラス」、「Uインター」などの団体である。そこには「未完成」ゆえの面白さがあった。現在の「PRIDE」以下のイベントがその頃の格闘技団体に比べていささかなりとも高い完成度を誇っている背景には、そうした黎明期の模索があったからであろう事には疑いの余地がない。ちなみに私は初期の「パンクラス」が抜群に好きだ。静寂に包まれた中での闘い、という見慣れない光景に私は固唾を呑んだ。それは、ショーでもなければスポーツでもなかった。原始ギリシャのパンクラチオンの中での「肉体闘争」を現代社会に還元しようとして出来た、極めて実験的な試みであった。実験的であるがゆえに完成度に劣る所はあった。しかし、それは間違いなく現在の総合格闘技ムーブメントの礎となっている。「リングス」や「Uインター」に関しても同様である。

閑話休題。

さて、冒頭に挙げた台詞であるが、確かに前田日明は第二次UWF設立に際してこの言葉を引用した。確かに、当時としては未開拓なる格闘技領域へ足を踏み入れる事に対する恍惚、そして、未踏の領域であるがゆえの不安を表現するには、なかなか適切な言葉であったのかも知れない。

誰の言葉か。

フランスの詩人、ポール・マリー・ヴェルレーヌの文言である。そして、この文言を日本において一躍有名にしたのは、かの太宰治であった。

太宰は、自身の著作『晩年』の冒頭において、このエピグラフを引用している。そして、それは『晩年』という作品全編を通して描かれる「原罪意識」を端的に表しているとも言える。

私は、この文言が、今、飛び切り似合うお笑い芸人を先日発見した。

それは、江頭2:50(えがしらにじごじゅっぷん)である。今日は、「江頭2:50=太宰治論」を無駄に展開したいと思う。

先日、酒の席で「江頭2:50は露出狂なのか」という何ともチンカスのような話題になった。確かに、彼はテレビの画面を通じて我々視聴者にその裸体を見せ付ける事がしばしばある。露出狂、と一笑に付してしまうのは、案外容易いかも知れない。

しかし、彼のその偽悪的とも取れる芸風に、私は太宰治の影を見た。私が今考えているのは、「江頭2:50は太宰治である」という事だ。

こういった文章を書くに当たり、江頭2:50についてインターネットを駆使して再度調べてみた。主に私が情報源として頼ったのは「wikipediaによる文章」であった。普段、情報源として活用するのは「東京スポーツ(東スポ)」が殆どである私であるから、今回に関しては綿密に調査を行ったと言っても過言ではない。

そこに記された数々の「江頭伝説」を読むにつけ、私の「江頭2:50=太宰治論」はさらに確信の度合いを強めた。幾つかの例を出そう。

まずは、江頭2:50の性格を表した以下の文章。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • テレビで描写される江頭しか知らない視聴者には蔑まれる傾向があるが、共演者の話や楽屋の隠し撮り場面などに現れる素顔の江頭は真面目で礼儀正しい常識人である(非常に大人しくて腰が低く、週刊文春の芸能人特集でも「店員が恐縮するほど礼儀正しい人」と記載されるほどである)。むしろ真面目過ぎるために自身に対する期待を理解し、それを踏まえた上で暴走しているとも言える。 (wikipediaより)
  • ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    これはまさしく、『人間失格』に描かれた、主人公葉蔵の心理と同じではないか、と私は戦慄した。葉蔵は、道化を演じる事で、周囲の期待に応えようとしていた。そして江頭2:50もまた、その真面目さゆえに道化を演じている。

    この太宰の『人間失格』を、私は自らの中で、或る意味では普遍的価値のある作品だと位置づけている。それは夏目漱石の『こころ』に卑近な例を見るように、人間の心中に潜む、暗いエゴイスティックな部分、或いは自意識というものに焦点を当てた作品であるからだ。

    エゴイズムや自意識の存在を普遍的なものだと仮定するならば、江頭2:50の芸というものは、人間の根底に在る原風景のカリカチュアだと捉える事が出来る。江頭2:50は、その芸風をもって、我々人間の抽象を表現していたのではないだろうか。太宰治が葉蔵という主人公に、その劣悪な(劣悪であるがゆえに私の共感を呼び起こした)自己を投影し、表現したように。

    また、私は『人間失格』という作品を、「露悪趣味な作品」として認識している部分がある。これは必ずしも悪い意味で言っている訳ではない。そこまで書かなくてもわかるよ、言いたい事は伝わってくる、でも、そこまで書いちゃうんだねえ、君は難儀な人だねえ。という感想である。寧ろ賞賛の言である、と受け取っていただきたい。そしてまた、江頭2:50に対しても、そういった賞賛の念をもって彼の芸を受け止めてしまう。

    江頭2:50は、数々の「事件」を起こしているが、その中でも最も有名なものは、「トルコ全裸事件」である。参考までに、今一度wikipediaによるこの事件の概要を転載したい。なお、wikipediaによるリンクの指定は、外してある。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    トルコ全裸事件

    江頭が引き起こした最も有名な事件であり、当時は大規模なニュース沙汰に発展した。

    全容

    1996年、江頭はテレビ東京の『ザ・道場破り!』の企画の一環として、トルコで行われたオイルレスリング交流試合の会場に前座として乱入、3000人以上のトルコ人を前にして自らの芸を披露した。事前に準備した「座禅縄跳び」が予想以上にウケたため、江頭は調子に乗り芸をエスカレート。しまいにはふんどしを脱いで「3号機発射!」と叫び全裸パフォーマンスを敢行するが、肛門にでんでん太鼓を刺して逆立ちした直後、会場から一斉にブーイングの嵐が巻き起こってしまう。事態を受けた江頭は逆立ちしたまま会場から退場するが、その後は即座にトルコ警察によって身柄を拘束され、同時にわいせつ物陳列罪の容疑で逮捕されてしまうのだった(イスラム教国家のトルコでは戒律の関係上、公衆の面前で性器・肛門等を露出する事が日本よりも強く規制されている)。ただし、本人はこの事件に関し「リハーサルで少人数の前でやった時には大ウケだった」と言及しており、この点については集団心理によってブーイングを受けた可能性も少なくない。

    幸いにもトルコは戒律が厳しくなかったため、江頭は罰金刑(日本円で75円)のみで釈放されることとなった。なお、この話には後日談があり、その際居合わせたトルコの民衆が危うく暴徒になりかけたため、江頭はほとぼりが冷めるまでトイレで身を潜めていたらしい。この件に対し、日本のトルコ大使館は「詳しい話は聞いていないが、決して嬉しい話ではない」とコメント。この一件はトルコ国営放送や地方紙によって大きく報道されることとなり、後に日本でもセンセーショナルに扱われている。その際、江頭は当時『FNNスーパータイム』のアナウンサーであった露木茂ら「国辱者」と批判されることとなり、同時に『ワイド!スクランブル』のニュースキャスターを務めていた水前寺清子からも「情けない、最低」とけなされてしまうのであった。

    なお、このことについて大川豊は、個人的な意見として「彼だけ責めるのは冷静に見ておかしい」、「でんでん太鼓状態までかなり間があり、ふんどしを外した時点でなぜ誰も止めなかったのか」と述べており、「半分ブーイング状態でもネタを続けたのは、彼なりの焦りの現れではないか」と語ると、「というのも彼はそもそもオイルレスリングをするためにトルコ入りしたが、練習中に頭部を二針も縫う怪我をこうむり、やむなく急遽ネタをする運びとなった。この事件は誠実な迷惑をかけてすまないという思い、彼なりの負い目からことに及んだのではないか、件のVTRの江頭からはその様に感じる」と推察、「また、彼は現地コーディネーターに「SEXを連想することはタブー」と注意されていたが、自身は「オレのはもっとバカバカしい」と思っていたようだ」と証言している。(同wikipediaより)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    私は、この事件についての上記の内容を読んだ時に、「撰ばれてある事の恍惚と不安と、二つ我にあり」の言葉が即座に脳裏に浮かんだ。

    江頭2:50は、トルコという見知らぬ土地で全裸で肛門にでんでん太鼓を挿した上で逆立ちをした。その時、彼は「恍惚と不安」を同時に享受していたのではないだろうか、と。

    それは、私たちが生きる、という事の一つの答えであるように感じるのだ。恍惚と不安を共に感じながら、それでも直立するという人生に対する姿勢。私は、彼の荒唐無稽な姿勢を想像するに、ある種の憧憬の念を禁じ得ない。

    嘗て太宰治に共感した私のメンタリティは、ここへ来ていささか姿を変えた、江頭2:50への憧憬という形に帰結した。

    狂気の芸人、江頭2:50。彼もまた一箇の「かぶき者」であったのだ。(←最近結論は全てこれだな)

    さて、酔狂な「江頭=太宰論」はこれにてお開き。熱心な太宰ファンや江頭ファンの方々は、このようなクソミソ文章を読んでくれぐれも腹など立てぬように、と注意を促しておきたい。

    そうそう、今日はこれからライブです。宜しければお越し下さい。

    3月18日(火)東京錦糸町 Early Bird
    tel 03-3829-4770
    http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
    pf:福島剛
    ピアノソロです。普段のジャズを中心としたステージとは少々毛色が変わります。ブルーズ、童謡、そしてぼくのオリジナルなども織り交ぜて。ピアノという楽器の持つ可能性に、真っ向から挑んでいきます。
    20:00~start music charge:1900円(1ドリンク・おつまみ付)

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    2008年3月15日 (土)

    3択の女王は竹下景子

    漫画喫茶から、である。

    仕事の合間が3時間ほど空いた。場所も移動しなくてはならなかった。

    メシでも食うか、と新小岩のお気に入りのカレーショップでカレーを食す。辛いが、美味い。

    さて。と思案に暮れた。この数時間をどうするか、と考えた。

    3時間というのは、何とも微妙な時間である。私の脳裏には3つの選択肢が浮かんだ。

    1.軽くパチンコにでも興じる。

    2.喫茶店にでも入って、読みかけの小説「一夢庵風流記」の続きを読む。

    3.漫画喫茶のパソコンを使って、ブログの更新でもする。

    1について。私は、「ギャンブル」と名の付くものは須らく好きである。「金を(時に分不相応な金を)賭ける」という行為自体が好きなのかもしれない。パチンコ、麻雀、三競オート、サイコロ賭博に手本引き、こいこいからカブまで、本当に、好きなのである。だが、最近はめっきりやらない。博打は、金と時間がかかる。今日も一瞬、パチンコでものんびりと打つかという想念が頭をよぎったが、それはすぐに霧散した。いかんいかん、そんな事してる場合ではないな、と。

    2について。最近読んでいる隆慶一郎氏の著作、「一夢庵風流記」。これは面白い。掛け値なしに面白い。文学的な作品、というのとは少し趣を異にするが、面白い。稀に私も当ブログの中で紹介する前田慶次郎利益を主人公にした歴史小説である。最近は、古の歴史に興味がある。しかし、2の選択肢を選ぶにも至らなかった。四半刻ばかり町中を彷徨したが、興味をそそられる喫茶店に出くわさなかったからである。

    結果として、3を選んだ。そして私は今、漫画喫茶にいる。

    ブログを書こうと思って、キーボードに向かったが、書くことがあまりにもなさすぎた。何を書いていいのか途方に暮れた為に、その途方に暮れた経緯を綴るに至った。パラパラと「週刊ポスト」なんぞをめくったが、面白くもなかった。

    さて、仕事に行くか。

    その前に、明日のライブを再び告知。

    3月16日(日)東京金町 Jazz inn blue
    tel 080-1263-0955
    http://www.jazz-inn-blue.net/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
    pf:福島剛 b:長谷川明弘 ds;松永博行
    Jazz inn blue でのピアノトリオ、三回目です。激しく、美しく、そしてやらしく(?)をモットーに、好き放題やります。寡黙な中にも熱さの感じられる松永さんのドラム、明るくて楽しい長谷川さんのベースと共にお楽しみ下さい。
    20:00~start music charge:1500円

    面白いです。是非おいでください。

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    2008年3月13日 (木)

    バッドチョイス

    誰しもが経験のある事だろうから、大仰に書くのはいささか憚られる事だが、人生には幾つもの分岐点というものがある。

    分岐点。ターニングポイント。呼び方は何だって構わない。

    道が幾筋にも分かれているケースもあれば、たった二筋という事もある。或いは、一筋でしかなかった為に(もしくはそう見えただけ)、それが分岐点であると気付かないケースというのもあるだろう。しかし、それは確かに分岐点なのだ。我々はそうした分岐点と対峙した時に、好むと好まざるとに関わらず、意思決定を迫られる。逆説的な言い方をすれば、分かれた道の多少を問わず、意思決定を迫られた時、或いは意思決定をした瞬間というのは、我々が分岐点にいた証ではないだろうかと私は思うのだ。

    私もこれまでの長くはない人生の中において、数度は意思決定を迫られた経験がある。言い換えれば、分岐点に対峙した事がある。私はその都度、最悪、とまでは言わないが、少なくとも最良の選択をした事は一度たりともない、と自負している。何が良い判断で何が悪い判断なのかは分からない。しかし、私の意思決定の根拠は常に曖昧模糊たる物であり、悪い言い方をするならば、私は常に「流されながら」生きてきた。

    嗚呼、我が人生に悔いあり。

    そんな言葉で自らを揶揄し、小馬鹿にする事で私はバランスを保っている。それは今も変わらない。

    分岐点における選択の良し悪しを、後悔するか否かという一点で判断する向きがある。それはそれで構わない。構わないが、今一つ気に食わない。

    「何を選んだって良いじゃん。自分が後悔しなければそれはそれで良いんだよ」という文言は、私の心には殆んど響かない。

    「何を選んだって良いじゃん。嫌だったら脱兎の如く逃げれば良いんだよ」

    これならば多少は響いてくるか。実際私もそういった物言いをする事もある。

    青くなって尻込みなさい。逃げなさい。隠れなさい。

    加川良の『教訓』という歌に以上のような文句があったが、私は概ね賛同する。

    大した分岐点ではないのかも知れないが、私は今、一つの分岐点にいる。流されながら、意思決定も下した。無論、いささか後悔している。

    そんな時に、音楽だけが残酷過ぎるほどに優しい。

    レッスンの仕事に行ってきた。数時間早めに教室に入って、自らの慰めの為だけにピアノを弾く。言うなれば、一種の現実逃避だ。

    珍しい事に、ピアノは、今日は、私の言うことを聞いてくれた。私が出したいと思った音を紡いでくれた。

    高い音が、耳の奥の方で木霊する。

    低い音が、腹の真ん中辺りに染み込んで、揺さぶる。

    生きていても、まあ、いいか。

    私がそんな事をお気楽に考え始めた所で、生徒が教室に入って来た。

    機嫌良く、私は今日も音楽の話をして、ピアノを弾いてきた。

    帰って、酒を呑もう。

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    2008年3月12日 (水)

    左翼的発言

    一言いっとく。

    戦争は、ダメだ。

    「はだしのゲン」を見ながらの感想でした。

    お国の為に、とか言うな!ドアホ!

    切なすぎるじゃないか!

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    2008年3月11日 (火)

    頭を切り替えないと

    来週、二本、ライブをします。

    ここの所、頭で冷静に「音楽を理解しよう」とクレバーになりながら練習をしていましたが、それは全て本番でアホになるため。全てを解き放った時に、足元がふらつかないようにするため。インプット脳だった頭を、アウトプット脳に切り替えて、しゃかりき頑張ります。見に来て下さいね。

    3月16日(日)東京金町 Jazz inn blue
    tel 080-1263-0955
    http://www.jazz-inn-blue.net/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
    pf:福島剛 b:長谷川明弘 ds;松永博行
    Jazz inn blue でのピアノトリオ、三回目です。激しく、美しく、そしてやらしく(?)をモットーに、好き放題やります。寡黙な中にも熱さの感じられる松永さんのドラム、明るくて楽しい長谷川さんのベースと共にお楽しみ下さい。
    20:00~start music charge:1500円

    3月18日(火)東京錦糸町 Early Bird
    tel 03-3829-4770
    http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
    pf:福島剛
    ピアノソロです。普段のジャズを中心としたステージとは少々毛色が変わります。ブルーズ、童謡、そしてぼくのオリジナルなども織り交ぜて。ピアノという楽器の持つ可能性に、真っ向から挑んでいきます。
    20:00~start music charge:1900円(1ドリンク・おつまみ付)

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    2008年3月 9日 (日)

    総武線の終電にて

    20代(おそらく)の女性二人の会話。

    「こないだ道端でー、急に踊り出した黒人がいてー、何それー、超キモいー、みたいなー、ぶわっばっばっばっば」

    最後は蛮頭大虎なんだけど。

    安心しろ。てめえの方がキモいから。

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