1クールのレギュラーよりも1回の伝説
前回に引続き、今回も江頭2:50(えがしらにじごじゅっぷん)に関する考察である。
前回、いささか酔狂に過ぎると感じていたが、私なりの「江頭=太宰論」というものをぶちまけてみた。恐らく大学の文学部のレポートなどで、「太宰治について原稿用紙5枚程度で自由に論じなさい」という課題に対して先ごろの文章を提出したならば、優良可の三段階で「可」でももらえれば良い所、という出来だろう。所詮は詭弁に過ぎない。私は読み返してそう感じた。
そして今一度、私はこの江頭2:50というお笑い芸人の生き様と対峙する事を選択した。いや、今日は一つの「偉人伝」として江頭2:50にまつわる文章を書こうと私は考えている。
今日は、以後、江頭2:50の事を「エガ神」と表記する、という断りを先に入れておかねばなるまい。
エガ神の弱さ、脆さは、前回太宰治との比較で書いた。エガ神は臆病であり、脆弱だ。だが、キリストや仏陀、或いは親鸞がそうだったように、エガ神は自らの弱さや汚さを、透徹とした真っ直ぐな視線によって自覚しつくしている。腐臭の漂うが如くの自己憐憫などとは到底かけ離れた、それはまさしく「神の視点」とでも呼びたくなるほどの自己認識である。
「私は弱い」
こういう認識に、自己憐憫はつきものだ。反対の「私は強い」という認識も全く同質の自己憐憫を孕むケースが多いが、我々は自分の中にある「人間としての本質的な弱さ」を見つめる時に、どうしても「我が身可愛や」といった視線で自己を見つめがちだ。弱い自分が可愛そう。弱い自分に酔ってる自分が好き、といった具合に。自分を参考にして書いているのだが、我ながら本当に腐臭を嗅ぐが如き尋常ではない臭さだ。そのぬるい視線は、決して透徹とはしていない。そこが、我々凡人とエガ神との差だ。
エガ神の珠玉の名言を幾つか紹介したい。それはまさしく、神の御言葉である。
「気持ち悪いって言われることには慣れたけど、たまに死ねって言われるんだ。 俺は言ってやりたいよ。こんな人生死んだも同然だってね。」 - 江頭2:50
この御言葉において、エガ神が表現しているのは、諦観と自尊の関係性である。
人から蔑まれるのにも慣れた。自分が芸をすれば、人々は悲鳴を上げ、「見識者」と呼ばれる訳の分からない人間たちが、自分をまるで「恥の権化」であるかのように虚仮下ろす。それでも構わない。―――そういった諦観。
その一方で、最早恥も外聞もない。死んだも同然、常に決死の覚悟で芸に臨んでいるのだ。「死ね」などと言われるまでも無い、既に俺は死んでいるのだ。―――という自尊。
これはエガ神の芸に対する姿勢を端的に表すばかりでなく、現代社会にはびこる「いじめ」を代表例とする「多数が少数を叩く」という病理の、一つの解決策であるとすら私は感じている。つまり、いじめの一つの解決策として(無論万能な解決策などではないが)。まず諦める、けれど自尊を失わない。こういった精神状態というのは、状況打破の糸口となるのではないだろうか。
続いてもう一つの名言である。
「目の前で悲しんでいる人を見つけたら何とかして笑わせたい。 そのためなら警察につかまってもいい。寿命が縮まってもいい」 - 江頭2:50
私はこの言葉を読んで、正直に言うと、胸の奥がかあっと熱くなった。目の奥の方に、少しだけ涙が湧き出した。それほどまでに私はエガ神のこの言葉に心を強く打たれた。
マザー・テレサにも引けを取らないほどの、比類なき慈愛の心である。私はエガ神の上記の発言に対して、お笑い芸人としてのプライド、つまり芸に対するプライド以上に、その慈愛の心を見た。
こういった優しさ(言葉にすると極めて陳腐に堕すが)から、エガ神の「1クールのレギュラーよりも1回の伝説」という稀有なポリシーが生み出されている。そう思うと、賞賛の念を禁じ得ない。
自身へと翻る。
比肩して考える事すら憚れるが、私は、未熟である。
私は、まだ心のどこかで「1クールのレギュラー」を欲している。それは私の立つ音楽というフィールドにおいて、そうだ。「店や共演者に気に入られたい」、「客に広く受けたい」。そういった拭き残して尻にこびりついた糞のような心持ちの為に、私は私の芸に対してまだまだ真摯になれずにいるのではないだろうか。そんな芸を見て喜ぶ人間が何処にいるというのか。私はエガ神の上記の言葉を読んで、姿勢を正したくなった。そして、自らのそういった保身を恥じた。
エガ神の御言葉の中で、私が取り分けて好きなものは、以下の一文である。最後に紹介する。
「生まれた時から目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ? こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」 - 江頭2:50
芸というものの本質を抉った、痛快で深遠なる御言葉である。私もまた、エガ神のように、芸に対して真摯な姿勢を保ち続けたい。徒然に、そんな事を考えるのだ。
エガ神こと江頭2:50。まさしく彼は、「芸の権化」なのかもしれない。
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コメント
何か色々アップするのがむずかしくて、ワードに一回写したりとかしてたら、フォントが変わっちゃった。ま、今回だけね。
投稿: ふくしまたけし | 2008年3月21日 (金) 17時12分
エガ神様は以前は「江頭」でしたよね。それが数年前から「江頭2:50」になって・・、その名前に変わった頃、彼のお父様もテレビ画面に映っていましたね。善良そうな腰の低い普通のお父様でした。2:50ってどういう意味なんだろうなぁ。
投稿: 桜 | 2008年3月23日 (日) 18時34分
ごめんなさい。私の情報間違っていたかな。数年前までは単に「江頭、江頭」って呼ばれていたと思うんです。なのにお父様がテレビ画面に映った時、「江頭2:50」というネームが目についたのでその頃に改名したんだなと思っていました。あやふやな事を書いてすみません。
投稿: 桜 | 2008年3月23日 (日) 19時09分
桜さんへ
参考までに、エガ神の芸名に関するエピソードをwikipediaから。
↓
芸人になったきっかけは、ばってん荒川に憧れたため。2:50という芸名は、夜中に酒を飲んで酔いが回ると必ずと言っていいほど深夜2:50以降に暴れだし、ゲイキャラになることから名付けられた。
お父さんは確か「江頭2:45」とかいう芸名で勝手に芸能活動をしている筈です。何ともいい加減で素敵ですね。
投稿: ふくしまたけし | 2008年3月25日 (火) 13時56分