青い空と白い肌
私は酒を呑んでいるのだろうか、呑まれているのだろうか、と自らに問いかけてみた。
不思議なものである。「お酒はねえ、呑んだら呑まれなきゃダメなんれすよぉ」と酩酊の末に私が時折口走る言葉、そこには嘘偽りの感情は無かったはずだ。私は上手に酒と付き合おうなどという気持ちは断じてなかった。
しかし、ここ最近はどうであろうか。私は、寝る前に独り自らの部屋で焼酎を呑み、ほどほどの二日酔いとともに目を覚ましている。何だこれは。
私は、酒に呑まれるよりも、呑み乾してやりたいのだ。それにやっと気が付いた。しかしこの体たらく。私は見事に酒に呑まれているではあるまいか。
嘗て、私にとって、呑み屋という場所は、夢のような場所であった。
いや、今もだと言いたいのだが。
呑み屋に行く、となれば、私はたとえ煉獄の如き二日酔いであろうと、サウナに寄って大量に汗をかき酒を対内から抜いてでも行った。金がない、となれば女房を質に入れてでも行った。ちなみに私は独身なので女房は未だ持たないのだけれど。女房を持ったら、酒の為に質に入れる覚悟であるという、決意表明である。
以上の喩えはいささか極端に過ぎたが、私にとっては呑みに誘われるというのは、余程の事(たとえば親族に不幸があるとか)がない限り断る事はなかった。無論、今でも誘いに関してはほぼ断らない。
問題は、それ以外の時なのである。
嘗て、私は親しい誰かや仕事仲間の音楽家達と呑みに行く事のみならず、我が身一つで呑み屋に赴く事の愉しみをも知っていた。いや、知っていた筈だ。独りで部屋にいる。すると何かは知らぬが、不気味な不安の塊が私の心を侵していく。そういう時には、私は独りで夜の街へと呑みに出掛けた。
「呑みにでも出るか」
そう考えると、私の心は不思議と落ち着いた。そして、何やら俄かに興奮し、愉しさに心を躍らせた。
今はどうだろうか。家で独りでいる時に、「呑みにでも出るか」と考えた所で、「でも面倒くさいな」、や「明日は早いしな」といった宿便よりも惨めな想念が脳裏に寄せては返す。在りし日の、「呑み屋に行く事」に心を躍らせていた私はどこへ行ってしまったのだろうか。
これはまさに「酒に呑まれている」ではないか。この際の「呑まれている」は、雰囲気に呑まれる、気合いに呑まれるなどと同義だ。何を酒に怖気付き、怯んでいるのだろうか。
と、自問自答した私は、独りで呑みに出る事を決意した。
ここの所、呑みに出るとなれば、その9割は小学校以来の友人Yとの酒の席であった。大抵はYの方が私よりも時間に融通が付け難いがために、彼よりメールが来る。「暇?」という、何とも簡潔なメールである。案ずるな、私は大抵暇だ。
電話の場合も同様である。
Y:「ああ、オレ。暇?」
私:「うん、今パワプロしてた。もうやめるよ。今もう永川出したとこだし」
以上のやり取りがわからない方のために、無粋を承知で説明を入れれば、パワプロというのは日本のプロ野球を模した野球ゲームである。私は必ず広島東洋カープを使う。永川というのは、現在広島カープの抑えのエースである。彼が出てきている、ということは、試合は最早さほど長くない、という文脈のメタファーであるのだ。数年前の同義語であれば、「おお、ちょっと待ってね、今大魔神佐々木登板したし」がそうであろうし、現在ならば、「待っとけよ、藤川に火の玉ストレート放らしたらもうやめっから」がそうであろう。要約すれば、以上のやり取りは
「暇?」
「うん、だらだらとゲームに興じるくらい暇だったんだけど、もうやめっから」
という事になる。ご理解いただけただろうか。そして私たちは、二人して夜の街へと繰り出す。話の内容は瑣末な事だ。仕事の話や昔話、そしてYが最近ハマっている秋葉原の「耳かき屋」の話や(Y談:「あれはマジやべえって!女の子はみんなアイドルクラスだよ!?60分4000円は超安い!!」)、「花の慶次」の話などである。大したことはない。酒の席での話に、崇高さや荘厳さを求めてはいけないのだ。政治家にユーモアを求めるのと同じくらい無理がある。しかし、確かに、愉しい。
友人と呑みに行く事、それはそれで確かに愉悦であるのだ。だが、彼が仕事で帰りが遅い時、私は無意識化に呑みに行く事を諦めていた。いいじゃん、家で独りで呑めばさあ、といった塩梅に。それではいけない。
それではいけないのだ。
私の頭の中で、自戒の声がこだまする。幾度も、幾度も。
逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ。
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ
逃げちゃ……ダメだ……!
私の中の加藤優が声を荒げた。
「オレは腐ったミカンなんかじゃねえ!!」
それは、地底の奥底から絞り出されたような、切実な声だった。そしてそこに込められた真意は、「独りでも呑みに出掛けてやる!!」という事だった。
それに担任の金八が続いた。
「我々はねえ、ミカンや機械を造っているんじゃないんです!我々は人間を創っているんです!!」
と。これはつまり、「行っちゃうよ!?独りで呑みに行けないなんて思うなよ!?行っちゃうからな!?」という事である。
という事で、独りで呑みに行って来た。小岩の大衆向けの呑み屋である。
過去に何度も行った事のある店だったが、独りで行くのは本当に久しぶりだった。
私は店の一番端の席で呑んだ。いじけていたから一番端、という訳では決してない。随分と繁盛した店であるために、私が店を訪れた時分にはその席しか空いていなかったのだ。そこから、店を眺めた。
雑多であり、猥雑であった。しかし、そこには何故か人の気持ちを落ち着かせるものがあった。
ふと正面を見ると、私の眼前に二枚のカレンダーが並んで貼ってあった。とても衝撃的な光景であった。それは、あらゆる意味で異色であった。カレンダーというものは、機能的な意味で見れば、二枚並べて貼る必要はないのだが。
しかし、この二枚のカレンダーの異色なコントラストこそ、私にはその店を象徴するもののように思われた。
一枚には、チベットの聖地、ラサにある宮殿、ポタラ宮が飾ってあった。背後にはヒマラヤ山脈の壮大な山々がそびえ、空には突き抜けるような青が広がっていた。手前には緑、である。空の青、宮殿の白と茶、そして地上の緑。これらの色彩が溶け合い、何とも雄大な景色がそこには描かれていた。
そしてもう一枚の中からは、麻美ゆまがこちらを向いて微笑んでいた。前述の永川や大魔神佐々木同様、名前からwikipediaのリンクに飛べるように設定しておいたので、彼女についての詳細な情報はそちらのリンク先に譲るが、一言書かせていただくならば、彼女はHカップでなおかつ「ドM」である。
そして、其処にはOPPAIが在った…
神聖で荘厳なポタラ宮の横には、これまた聖的でありなおかつ性的な麻美ゆまである。いささか大きめだが色の薄い乳輪が可憐ですらある。
聖と俗の織り成すコントラスト。勿論、その聖なる側と俗なる側は、瞬きの間に目まぐるしく入れ替わる。ポタラ宮が聖でゆまチンが俗、と思っていたその2秒後には、ゆまチンが聖でポタラ宮が俗という事になる。ガンジス河が何故澱んでいるのか、そしてそれを何故人々は「聖なる河」と呼ぶのか、という事の答えがそこにあった。
ゆまチンの右おぱいの少し上辺りが、油汚れで黒ずんでいた。白く透き通るような肌に、油汚れが穿たれた。それは、果たして本当に汚れなのだろうか、と私は考えた。油汚れにまみれる事で、ゆまチンは更に美しさを増しているように見えた。
それを見ながら、私はモツ煮込みを喰らい、レモンハイを啜った。何故か私は自分がひどく「正しい酒の呑み方」をしているのではないだろうか、という気にすらなった。
ただ、それと同時に、私は残酷な事実に気付きもしてしまった。
やはり、独りで呑むのは、誰かと呑むよりも愉しくない。
誰かと呑む方が、格段に愉しい。
カレンダーの可憐なオパーイを見ながら、私と「花の慶次」トークに花を咲かせてくれる御仁はおらぬのか。勿論それ以外のネタでも一向に構わぬのだが。
人を誘う為に、その二つのカレンダーの写真を以下に載せておこう。ね、誰か今度小岩で呑みましょうよ。
ていうかさ、ヤマはもう少し休みをたくさんとってよ。
↑聖と俗の輪廻
↑そして店内
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