「差別」は良くないが、「区別」はしても良い、といった言葉を稀に耳にする事がある。
私はこの類の言葉が大嫌いなのだ。所謂「正論」というやつが。パイナップルの入った酢豚よりも嫌いだ、と言えばその嫌い度合いはおわかりいただけるであろうか。兎にも角にも嫌いなのである。
「君がさあ、今そうやってブログみたいなヘドロのような空間にグチグチしょうもない事を書き込んでいる暇があるんだったら、将来の為に少しでも努力したら?」
煩い!死ね!
上記のような正論を吐かれた折には、私は口先だけは「そっすねー、ま、ぼちぼち頑張りますわー」などと犬のように卑屈な言葉を、気味の悪い薄ら笑いと共に力無く呟くが、心中では、「煩い!死ね!」と力の限り叫んでいる。それは祖国アメリカの未来を憂うブルース・スプリングスティーンや長渕剛の口調よりも何倍も力強い。
嘗て利根川幸雄氏はこう言った。
「金は命より重い・・・!」と。
全くもってその通りであろう。それは正しい。
しかし、それは「正論」であるがゆえに私には届かない。「お前など、高熱の鉄板の上で誠意を持って土下座をしてしまえ!」とついには心に念じてしまう始末である。
いや、話が脱線した。利根川幸雄氏の事を、私はそれなりに好きなのだった。うむ。失言である。
高校生の頃、学校の教師達が言った言葉にいちいち反感を覚える「尾崎豊タイム(略してOT)」なるものが私にも訪れた。先生あなたはかよわき大人の代弁者だからさー、と自由の追求者を気取ってみた。比較的多くの人間に訪れる時期だと聞くが、このブログを読んでいる方々の中にも「あ、オレもOTが来た事ある!!」と共感される方もいらっしゃるのではないだろうか。兎に角私は当時、盗んだバイクで走り出したい年頃だったのである。
そのOT中に引いたチャンス目は、高確率で「大人はわかってくれないラッシュ(略してOR)」に当選する。かくいう私も、「健全な精神というものは健全な肉体にこそ宿るんだ」というチャンス目からORに当選した事があるし、前述の「差別は良くないが区別は良い」というチャンス目からはロングORに当選した。「正論なんて聞きたくない!ぼくに努力しろなんて言うな!」と、現実逃避を自己正当化する事に成功した。
(上記一連の戯言、モチーフはパチスロです。ギャンブルをしない方々、すいません。)
つまりこの支配からの卒業の確変状態だったのである。フルスペックで、確変は2回セットだった。
更に混迷としてきた。いかんな。
閑話休題・・・!もう一度言う・・・!閑話休題・・・!
差別はいけないが区別は構わない。そんな正論を耳にした青年期(OT期)の私は、その正論に対する無目的な反抗の一手段、一表現として、「区別はいけないが差別は構わない」と危険な思想を無根拠に持ち始める事となった。
そう、無根拠に、という事は、「単に言ってみたかっただけ」なのであるが、私はこの明らかに狂った信念が、実はそうそう間違っていないのではないか、という事に最近では気付き始めたのである。
間違っていない、という言い方が的確であろう。正しくはないが、それほど間違ってもいない。そういった認識だ。
些か面倒な事を書くが、差別とはどこから来るのだろうか。それはまず間違いなく「区別」からである。きちんと言えば、お互いの差異を否定的な見解の元に認識しようとした場合に生じるのが差別、という事ではないだろうか。
「差別はよくないよね!」と澄んだ瞳で言う人を見ると、とてもフユカイになってしまう困った私である。差別は決してなくならない、とどこかで思っている。そして、その根源となる区別もなくならない。実は、ここまでが本日の枕であった。どれだけ枕が長いのだ。
区別がなくならないのがある種仕方がない。それをまずは(便宜的にでも構わない)受け入れてみよう。そしてそこにはもう一つの問題構造が孕まれる事に気付くだろうか。それは、「その区別の境界線を飛び越えようとする者は奇異の目で見られ、時には迫害すら受ける」という残酷な天使のテーゼである。
我々が最も実感しやすい「区別」の最たる例は、間違いなく「性別」である。我々男とあなた方女は、性別という境界線により海よりも深く隔たれているのだ。それは我々がヒトという生物である以上、生物学的には仕方の無い話なのだ。
生物学上の性差をsex、社会生活上の(或いは文化的な)性差をgenderという。そんな事は大抵の人がどこかで聞いた事のある定義である。それよりも今現在における問題は、私がSで始まりXで終わる三文字のアルファベットを書く事により、意味も無くドキドキしている、というこの一点に尽きる。
ドキドキしていた・・・
↑のセリフを吉岡秀隆のトーンに脳内で変換してから読んでいただきたい。大学教授達は、社会学の授業などでsex、sexと連呼していたが、恥ずかしくはなかったのだろうか。私が教授であったならば、きっと言いながらオニンニンがオギンオギンになってしまっていたに違いない。きっと彼らは普段からエロスまみれの思考回路である為に、そういった三文字程度では何も感じないのに相違あるまい。精神的な不感症、と言っていいだろう。そう考えれば、若干の同情にも値する。
さて、そういったジェンダーの一環として、私たちは「男は男らしく、女は女らしく」といった事をほぼ無意識下で刷り込まれながら育っている。そして、その男らしさや女らしさからはみ出す者を「異端」としてみなす傾向が多かれ少なかれ、あるのだ。
一つの例としてランドセルの例を挙げよう。昨今ではさほどでもないのかも知れぬが、少なくとも私たちが小学生だった時分には「男の子のランドセルは黒、女の子のランドセルは赤」と相場が決まっていた。仮に男の子が赤いランドセルを背負っていた場合には、間違いなくそれは揶揄の対象となった。そういった事は皆子供なりに暗黙の了解として理解していたし、実際私自身も黒いランドセルを背負うのが当たり前だと思っていた。
フェミニストの何某教授みたいな連中がTVメディアに跋扈するようになってから、「ランドセルは男が黒で女が赤って誰が決めたんだい!?」といった発言がちらほら聞かれるようになって来た。多分その教授は、ブス嶋さんとして(或いはストッパー毒嶋さんとして)少女時代を過ごしてしまったためにそういった結論に至ったのだと思うが、そういった彼女の生い立ちは別にして、ある程度リベラルな発言は許されてしかるべきだと私は思う。
しかしねえ!我々の固い頭や少ない脳細胞の中には、最早DNAレベルで「男らしさ・女らしさ」みたいなものがインプットされているのだよ!リベラルな意見という名の「正論」では拭い去る事など出来ないのだよ!私はここで声を荒げたい。
本日、私はそういったジェンダー的な問題に直面した。
私は、電車に乗っている時に、向かいに座っていた女性が読んでいた「L25」という雑誌が、たまらなく欲しくなってしまったのである。
普通に買えば良いではないか、と読みながら鼻で笑った方は、豆腐の角にタマキンの裏をぶつけてきていただきたい。この雑誌、実は女性向けのフリーペーパーであるのだ。
首都圏の地下鉄全域に置いてある無料の女性向けフリーペーパー、それが「L25」である。そしてこの雑誌は出自にちょっとした因縁がある。「L25」に先駆けて刊行された「R25」という雑誌があった。やはり首都圏地下鉄全域で配られた、25歳以上の男性向けのフリーペーパーである。これがそれなりに受けた。その女性版として作られたのが「L25」なのである。
思い出してほしい、先ほどのランドセルの話を。
男の子の黒ランドセルにあたるものが「R25」であり、赤ランドセルが「L25」であるのだ。
私のように、男性ホルモンが顔から噴出している男が、電車内で「L25」を読みながらニヤニヤと笑う図というのは、既に通報に値する図なのである。
そうそう、何故私が急に「L25」を所望したくなったのかを書き忘れた。私と半年後に恋仲になる予定の「檀れい」が載っていたからだ。彼女の顔を、久しぶりに見ておかねばならぬ、という義務感に駆られたのだ。私は、とても義理深いと我ながら感服する。
しかし、「L25」は手元にはない。池袋駅を暫らく歩き回った後、やっとの思いで鎮座する「L25」を発見した。私は、まるで万引きを犯す中学生のように、人目を憚りながらそれを手にし、急いで鞄へと入れた。
仕事帰りの道すがら、電車内でゆっくり読むか、とも考えたのだが、それは電車内で堂々とエロブックを読む事よりも私には恥ずかしく感じられた。
だって、記事の内容が内容なんだもの。
「熱が何度まで出たらあなたは仕事を休みますか?」
とか
「マイペースを取り戻す週末リセット旅in北海道」
といった、宿便が逆流しそうなほどにどうでもいい企画の数々。編集者、出て来い!
家に帰ってから、こっそり読んだ。
どきどきした。
ドキドキしていた・・・
↑のセリフを吉岡秀隆のトーンに(以下略)
区別によって生まれた差別は禁忌を生む。そしてその禁忌を冒す事、この行動には幾ばくかの後ろめたさと共に、ある一定量の快感が伴うのだ。
という事で、区別もして良いし、差別もして良い。結論が変化した。主張が一切首尾一貫していないのが私の長所であるのだ。
ここまで読んだ方、あなたは立派だ。
立派ついでに、明日(長々書いてたら、日付的には今日になっちゃったよ!)、東京は葛飾金町で良いライブがあるので、行きなさい。来世でもっと良いカーストに生まれ変われますよ。
↓ここを見ると良い。
http://www.jazz-inn-blue.net/
来ると良いよ。いや、マジに。
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