偏見
私達が他者を認識する時に、その他者の本質を理解しつつ認識しているといったケースはほぼゼロに近いのではないか、と思う。何が本質なのかという問題はこの際置いておくとして、私達は先入観や偏見を通してしか人を理解することは出来ない。残酷だけれどそれが真実なのだ、と私は半ば諦めている。
「私はありのままに人を見ます。色眼鏡などで見ません。差別もしません。」
仮にそう言う人がいれば、私はその人を一切信用しない。「私は偏見を持たない」という偏見の元に、その人は価値判断を行っている。そういった自覚がない人間を、私はどうしても好意的には見れないのだ。
そもそもにおいて「ありのままの自分」といったものを私は信用しない。自然状態(果たしてそういった状態があるのかすらもわからないが)でいられるほど私の生活は自然なものではない。恐ろしく不自然な日常と、恐ろしく不自然な人間達に囲まれながら私は生きている。それが私にとっては自然なのだ。
さて、そういった事を数日前に私は強く実感した。舞台は電車の中、東京の中心部でいびつな円を描く山手線内である。
私の座った座席の向かい、対面に3人の女性が座った。彼女達は全くの他人であるらしい。私は暇を持て余していたので、彼女達を観察した。
私も最近はよくやってしまう事なのだが、電車の中での手持ち無沙汰を紛らわす為に、携帯電話を弄んでしまう。携帯電話を電車内で弄ぶ自らを考えると、いささか恥ずかしくなってしまう。股間を弄ぶ自分と電車内で携帯電話を弄ぶ自分、どちらが恥ずかしいだろうか。どちらも恥ずかしい。間違いない。
彼女達もやはり携帯電話を弄び始めた。メールをしているのだろうか。ゲームでもしているのだろうか。どちらでも良いが、携帯電話を電車内で弄ぶ女性達は、あまり見ていて可愛らしいものではない。これが私の偏見の一つである。私は電車内で携帯電話を弄ぶ女性に魅力を感じない。そして、その女性達の本質とは遥かに遠くかけ離れた所で、私は彼女達を無意識の内に蔑む事となる。偏見以外の何物でもない。私は大した理由もなく、そして自分勝手で傲慢な理由により、少々陰鬱な気分になったのである。
しかし、その刹那、場の空気は一変した。あたかも青天の霹靂。3人の女性の内の一人、ここでは便宜上「洋子(仮名)」としておこうか、洋子の取った行動によって、車内に戦慄が走ったのである。
洋子は、手に持った携帯電話を憂鬱そうに折り畳んだ。彼氏から何か心無いメールでも届いたのだろうか、と私は考えた。
洋子がふっと眼を閉じる。深く深呼吸を一つしているようだ。吸い込んだ息が彼女の肺を満たしていく。酸素が彼女の体に行き渡り、代わって二酸化炭素が吐き出される。彼女が今まさに思い出している、古い瑕疵の事を思った。私も少し胸が締め付けられそうだった。
洋子は、眼を開けると、隣に座った女の手に持った携帯電話を一瞥した。そして、退屈そうに自分の携帯電話を鞄に仕舞い込んだ。少し鞄の中を探り、洋子は一冊の文庫本を取り出した。パラパラと頁をめくり、真ん中を少し過ぎた辺りで手を止め、ぼんやりとその文庫本を眺めていた。
真正面に座っていた私は、いささか不謹慎な事を知りながら、彼女の手に持った文庫本(その文庫本にはカバーも何もかかっていなかった)のタイトルを探った。彼女の両の掌からこぼれる青い表紙の中の文字を眼で追った。
微かにこぼれてくる文字の中に、私は「宮澤賢治」の言葉と「詩集」の言葉を見た。洋子が私の真正面で読んでいたその文庫本は、おそらく宮澤賢治の詩集であったのだ。
私は彼女が賢治のいかなる詩を読んでいるのかを考えた。「住居」であろうか。「永訣の朝」であろうか。「春と修羅」であろうか。私は賢治の詩の熱狂的なファンであるのだ。何やら全ての事が他人事のように思えなくなり始めていた。そしてその刹那、私は或る奇妙な真理に辿り着いた。
電車内で文庫本を読んでいる女性は(特にそれが宮澤賢治の詩集であったならば)、その女性は5割増し程度に可愛らしく、そして美しく見える。
この真理である。
その境地に到達した時、同時に私は記憶の混濁にも気が付いた。
前述した3人の女性が同時に電車に乗り込んできた時、洋子の傍らにいた2人の女性、(名前を便宜上振るのも億劫なのでこちらはA子とB子で問題ないのだが)そして洋子を加えた3人の中でも、洋子ただ一人が異彩を放ち、そして美しく私の目に映っていたのではないか、という記憶の混濁である。
つまり、洋子が私の眼前で賢治の詩集を読み始めたがゆえに、その事が理由で私の目に彼女が美しく映ったのではなく、それ以前に彼女の魅力に私が気づいていたのではないか、という順序の混乱である。
私は自らの予知能力を疑った。そうだ、私は洋子が鞄から宮澤賢治の詩集を取り出すという事を予め知っていたのだ、と。3人の中で一際美しくあった彼女を、私はしっかりと見据えていたのだ。
私は人を偏見で判断する。
電車内で携帯電話を弄ぶ女性は美しく見えない。文庫本の詩集を読む女性は美しく見える。偏見であるが、今後もこういった色眼鏡をかけて人間を判断していこうと思う。
山手線に乗って、私は、池袋で降りた。
洋子はきっと、銀河ステーションで降りた事だろう。
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