足し算と引き算
誉められながら育った子供と、叱られながら育った子供が、異なった性格になる、というのは一理あると思っている。
そもそも一つとして同じ性格などない、という真実はこの際考慮に入れずに頂きたい。個性は十人十色、それは当然だが、傾向というものぐらいはある。
例えば、食卓に並んだ料理の中で自分の好きなものを最初に食べる人間と最後に食べる人間を300人ずつほど集めて、性格にまつわる何らかのアンケートを行えば、そこには何らかの傾向は出るのかも知れない。
育った環境による性格の違いというのは、少なくとも星座や生年月日、はたまた血液型による性格判断などより遥かに科学的根拠もある筈だ。私は元来占いをとんと信じない。血液型による性格の差などない。私自身が良い証拠だ。私はA型だが、一般的な人と比べてさして几帳面でもない。
飲み会の席などで「あー、君は確かにB型っぽいよねー」などと言いながら場を盛り上げている気になっている男をたまに見かけるが、アナルにやや大き目の茄子を突っ込んでからその汚い尻を蹴飛ばしてやりたい衝動に私は駆られる。男たるもの血液型の話などするな。私は血液型性格診断の話が大嫌いなのだ。信じてもいない。○○○作の話と同じぐらい信じてはいない。この例えに関しては、伏字を使わないと私の命に危険が迫るような気がしてきたので、4文字中3文字を伏字にした。ヒントはルーマニア国旗!!
危ない危ない。年の瀬に無駄な暴走をしてどうすると言うのだ。
さて、育った環境が及ぼす性格の差異についてであるが、誉められて育つ、叱られて育つ、の二択でいけば、私は叱られながら育った方だ。勿論完全な悪人や完全な善人がいないのに似て、完全に叱られてばかりで育った人間や完全に誉められてばかりで育った人間というのは稀だろう。私が叱られて育った、と言っているのは、あくまでも誉められるよりも叱られる方が多かった、という話である。大体7:3~8:2ぐらいで叱られる方が多かった。勿論、誉められた経験だってある、という訳だ。
幼少の砌、私が叱られる方が多かったのは、大枠で言えば私が悪かったような気もしている。小学校低学年時代は、机にきちんと座っていられずに廊下に飛び出したりするような子だったそうな。奇声もしょっちゅう上げていたという。自分の気に入らない事があればすぐに暴力に訴えていたし、人の気持ちを汲むような事は当然なかった。マイルドな障害児、あるいはキチガイかのどちらかであろう。もし現在このような子供をお持ちでお悩みの方がいれば、解決策は唯一つ、「子供の人権」や「トラウマ」といったキーワードを一切無視して、叱るべきであろう。そして体罰、これである。言う事を聞かない悪い子には、ライトな気持ちでLet’s 体罰!である。
ちなみにもしも私が人の親になるような事があれば、子供を誉めるのか叱るのかの基準に関しては、私自身の機嫌を最優先させて考えたいと思っている。私が機嫌の良い時には、些細なことでは子供を叱りたくはない。せっかくの上機嫌が損なわれる恐れがあるからだ。それとは逆に、私が不機嫌な時には子供が何をしようと誉めてなどやらない。
私がパチンコで5万円もの大金を負けて帰ってくる。そこに私の息子がにじみ寄る。
「お父さーん、今日、学校のテストで100点取ったよー!」
「うるせえ!てめえ、黙って寝ろ!おい!酒持って来い!バカヤロウ!」
といった、人間としては最終段階の塩梅である。良い事をすれば必ず誉められるとも限らない。悪い事をしても咎められない人間もいる。私は世の不条理を息子にしっかりと教え込まなくてはいけないのだ。ささやかなトラウマと共に。
私に息子がいたとする。その生き物は、この私の呪われた汚らわしきDNAを受け継いだ者なのだ。まともな人間に育つ訳がなかろう。きっと世間に出ても激しく差別され、非難されながら生きていく事だろう。自業自得によって生まれ出ずる、その他者からの悪意に負けぬよう、私は我が子を千尋の谷に突き落とすつもりでいる。
子供が中学生になればアルバイトの一つもさせよう。稼いできた小遣いは私が搾取する。無論使い道は酒か博打の二択だ。家にはいつも怒号と泣き声が飛び交う。阿鼻叫喚。素晴らしい家庭ではなかろうか。いや、ますます結婚などしたくなくなってきたな。昭和の最底辺の家庭を目指すのだ。ちゃぶ台を用意しておいてもらわねばならぬ。私が日に一度ひっくり返す為のものだ。嫁の口癖は「やめて!アンタ!」が望ましい。無論泣き叫びながら、である。
閑話休題。
誉められつつ育った人間と叱られながら育った人間との間の最も大きな差異は、他人に対して向けられるような気がしている。他人に対しての評価を自己の内で決定する時に、足し算的な評価をする人間と引き算的な評価をする人間の二種類、つまり、長所を見るか短所を見るか、の差である。どちらが正しい訳でもないのだろうが、そういった違いは生まれても不自然ではない。私もえてして他人の短所を見てしまいがちな傾向はある。私自身が短所によってのみ構成されている人間だと言うのに、全くもって理不尽な話である。
そうなのであるが、音楽に対する評価に関しては、そういった見方をする人間を私は軽蔑している。粗探しをしながら音楽を聞く事ほどつまらない事はない。私は所謂「ジャズファン」を軽蔑しているが、それはそういった所以である。「ジャズファン」と呼ばれる連中には、そうして演奏者の短所、粗を探して悦に入る輩が驚くほど少なくない。そういった連中がジャズをつまらなくしている。
そういった極めてつまらぬ傾向に流されずに、上質なエンターテイメントとしての音楽を提供し続けたのは、先日他界したオスカー・ピーターソンである。彼は私にとっては非常に思い出深いピアニストであったので、彼についての思い出をいくつか綴ろうと思っていたのだが、今日はもう大晦日、私なりに忙しいので、この駄文もここまでにする。
ピーターソンについては年が明けた時にでも書くか。書かぬかも知れぬ。気分による。私は文筆家でも評論家でもないのだから、その辺は恣意的にいく。
私はピアニストであるのだ。
明日、元旦、ソロピアノのライブがあるのでその告知。
東京周辺に在住の方々、正月特番のテレビに見飽きたならば、錦糸町へ行くべきだ。
以下、プロフィール欄に載せているライブ情報からの抜粋。
2008年1月
1月1日(火)東京錦糸町 Early Bird
tel 03-3829-4770
http://www.geocities.jp/earlybird_mmp/05.htm
pf:福島剛
ピアノソロです。正月です。元旦ですよ。生まれて初めての元旦ライブです。大晦日はやったことあったけど。どうなるんでしょう。客は酔っ払いだらけなのでしょうか。「今年も宜しくお願いします」と来た人みんなに言っていこうと思います。明けましておめでとうございます。
20:00~start music charge:1900円(1ドリンク・おつまみ付)
それでは皆様、今年もお世話になりました。関西の方々も、勿論関東の方々も。そして北海道の人も。
来年も良い年になりますように。
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