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2007年10月 8日 (月)

春のうららの(秋なのに)

台東区と墨田区の間には

深くて暗い隅田川がある

誰も渡れぬ川なれど

エンヤコラ今夜も舟を出す

という訳で私は今隅田川の川べりにいる。雨が水面を穿つその模様は、泡沫と同じで浮かんでは消える。風情がどうだ、などと考えるのは何やら無粋な気もして考えないようにしているが、生来私は無粋で野暮な人間である事も知っている。下町育ちで無粋な人間など、イギリスで育ちながら英語が喋れない人間と同等であるが、例外を切り捨てる社会には未来はない。社会は私を受け入れなくてはならない。私はポジティブな人間ではないのかも知れぬが、決して深刻な人間でもないので何ら問題はない。今日もへらへらと気味の悪い薄笑いを浮かべながら渡世を生きる。

さて、冒頭に挙げた珍奇な数行は、勿論、野坂昭如の「黒の舟唄」のパロディである。例えば男は阿呆鳥、例えば女は忘れ貝、という、稀代の名曲である。

川が実際の境界となる事はよくある話だ。台東区と墨田区のみならず、江東区と中央区を隔てるのも私の眼前の隅田川であるし、江戸川区と葛飾区もまた川によって隔たれている。東京都と千葉県は、江戸川によって隔たれているという例を更に畳み掛けるように出すまでもなく、川が境界としての役割を果たすのは一つの事実である。

それらは便宜的で実際的な境界にのみならず、メタファーとしての境界である、という事も私は知っている。

東京都心部に暮らした事がないので、そちらの人達の印象は測りかねるが、東東京部に暮らした事がある人間ならば、隅田川の持つ境界としての多義性を実感した事のある人間は少なくないのではないだろうか。

歴史的な背景に関してはここでは置いておくが、隅田川の西と東とでは、明らかに文化圏が変わる。インドとネパールの良さ(或いは悪さ)を比較する事が無意味かつ不毛であるのと同様に、隅田川によって隔てられた西と東の善し悪しを比較するのもまた幾ばくもの意味を持たない。それらは、「ただ違う」のだ。私はたまたま東に生まれ、東に育ったが、その事によって東の文化圏を賛美するつもりもない。

ボーダーレスな世界、という流行りの文句に私がえも言われぬ違和感を感じるのは、私の心の中の原始風景として、川のイメージが常にあるからかも知れぬ。我々は、隔絶され、断絶されている。

当たり前の事実を、雨の隅田川の川べりで思う。

全ての道はローマに通ずるか。否、全ての道は、途切れ途切れだ。

言葉と、一緒である。

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