存在理由などを鼻糞を掘りながら考える
昨夜、「新世紀エヴァンゲリオン」というTVアニメを観た。TSUTAYAで借りてきて。全26話、初めて観たのだが、かなり楽しめた。
他者との関係性を築く事の苦手な主人公の少年の葛藤を中心に描いたアニメ。劇中ではレーゾンデートルなどという随分と懐かしい言葉さえ使われる。それが何故か最後は短絡的に「ぼくはここにいてもいいのだ」と自己肯定に落ち着く。精神イメージの中で、「存在する事」を赦された少年は、周囲の祝福の中で悦楽に浸り、物語は幕を閉じる。
結末にはあまり納得がいかない。
典型的な「収拾がつかなくなったのでとりあえず終わらせてみました」的なラスト。どうやらその後に発表された劇場版にもう一つの結末が用意されているようなので、また気が向いた時にでも観てみようと思う。
それを昨夜観終わったばかりだからなのかどうかは知らないが、私もレーゾンデートル、存在理由について考える。仕事で普段出ない都心に出たからなのだが。
池袋と原宿に行く。何処を見ても人人人である。土曜日なので尚更だ。オシャレな人がたくさんいる。きっと彼らの挨拶はみな「チェケラッチョ」に違いない。
都心に出るからといって、別段服装などは一切気に留める事のない私である。Tシャツに首から手拭いである。ホームグラウンド小岩においては空気の如く馴染むこの出で立ちは、都心では少し浮く。自意識過剰な羞恥心を些かなりとも感じる自分が少しだけ鬱陶しい。
ふと「私はここにいてもいいのだろうか」と思う。
いいのだけれど。
私は悩み易く傷付き易い碇シンジくんではないので自問してからは光の速さで自答する。昔斉藤哲夫とい歌手が「悩み多き者よ」という歌をヒットさせたが、私は悩み少なき者なのだ。
傷付くような事や腹の立つような事も滅多にない。繊細さとは凡そ遠くかけ離れた所で私は生きているのだから。
何の為に生きているのか。
念の為だ。
逃げちゃダメだ。
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コメント
お世話になりました。無事京都に帰ってまいりました。
考えれば考えるほど人間は存在しちゃいけないような気がするし、存在することは矛盾を受け入れることのような気がしちゃいます。休暇村の手ぬぐいくらいのユルさがないと、とても憂き世を渡っていけないとか思ってしまいます。
でも明日はいいことあるかもねっていうのがレーゾンデートルなんでしょうか。
投稿: あきら | 2007年9月15日 (土) 23時34分
私も仕事の関係上、最近エヴァンゲリオンを全話見ました。
しかし、納得出来る部分と訳わかんない部分が…。
結局どーしたいんですか??って感じ。
シンジよりもアスカに感情移入しました。
たぶん男の人のほうがハマルお話だと思いますよ。
>彼らの挨拶はみな「チェケラッチョ」に違いない。
って文章で仕事中にこっそり読んでたのに大爆笑してしまいました(笑)
いつも笑わせてくれてありがとう♪
投稿: りん | 2007年9月18日 (火) 11時08分
あきらへ
ユルく生きる、っていうのはある意味では無意識の自己防衛本能なのかもな。度し難い矛盾に対して「わかりませーん」とへらへら笑っているからこそ何とかやっていける時だってあるもんな。
明日はいいことあるかもね、はあんまり思わないんだ。きっと明日は今日より悪い、といつも思うようにしている。そうしたら今日が余計にありがたくなるから。結構ポジティブなんだよ、これでも。
投稿: ふくしまたけし | 2007年9月19日 (水) 13時42分
りんさんへ
アスカは最後どうなっちゃうんだろう、って思いながらぼくも見てたんですけど、結局廃人状態のまま物語が終わっちゃいましたよね。何だか映画版があるらしくて、その中では人類補完計画が進行していく中で、人類がみなLCLの海に還っていって、最後の生き残り(?)がシンジとアスカになるらしいです。ちょっとその話が見てみたいな。ものすごくオタク全開なレスですいません笑。
投稿: ふくしまたけし | 2007年9月19日 (水) 13時47分