マジョリティの愉悦、マイノリティの自尊
れいちゃんに別れを告げ、千駄ヶ谷から池袋へ。次のレッスンまではあと一時間もある。教室付近のモスバーガーで可もなく不可もないアイスコーヒーを啜る。暇なので、携帯電話から駄文を書く。
トピックは、先日酒の席で話題に上がったマイノリティとマジョリティに関する話。
この話は、私は全くもって普遍性を帯びない話のような気がしている。つまり極私的な話であろう、と。
話の骨子はこうだ。
・人間はすべからく二つのタイプに分ける事が出来る。
・大多数の中に入る事で、セーフティな愉悦を感じる人間。
・逆に少数派の中にいる事で自尊を満足させる人間。
・勿論程度の差はあるだろうし、或いは状況によってそれら二つの人格を使い分ける事の出来る人間がいる事を考えれば、些かのグレーゾーンを設ける事は可能だが、凡そ、上記のように二分出来る。
以上である。
私が先に普遍性を帯びない話だ、と断りを入れたのは、私が後者、つまりマイノリティの自尊を感じる人間であり、また以下はその同胞達に向けた文章になるからだ。前者、マジョリティの愉悦を感じる人間への配慮に欠けた文章を書く為の、前もったエクスキューズなのである。
多数派の愉悦、という部分は、理屈としてはわからなくもない。あくまでも理屈としては。そこには時として「正義」の名が付与される事があるからだ。
政治の事を考えれば、それは端的な例となる。民主主義政治においては、多数決の論理によって意思決定がなされる。多数派は「正義」となり受容され、少数派は「悪」となり排除される。人間の根源的な欲求として「受け入れられたい」、「排除されたくない」というものがある以上、多数派であるがゆえに「認められる」というのは、抗いがたい愉悦であるのだ。
しかし、それとは逆に、少数派である事により、自らの自尊を満たす人間は確実に存在するのだ。根拠は私である。私という極めて自己愛の強い醜悪な人間は確実に存在しているのだから。この問題に関しては、強く共感する人間と全く理解しがたい人間とに別れるだろう。そして私の実感を述べれば、この意見に共感を覚える人間は、やはり自己愛の強い人間に違いない。
自己愛の強い人間は、自らを特別視したがる。かけがえのない私、と心の奥底で、つまり無意識レベルで考えているのだ。
実際にはそんな事はない。「オンリー・ワンにならなくてもいい、元々ありふれたワン・オブ・ゼム」という事実に触れた時に、溜め息と失笑混じりに力無く項垂れ、それを受け入れる。
だからこそ、少数派である事を自尊の拠り所とする。つまり、「周囲と意見を異にする、特別な私」を認識する事で、他者との差異をぼんやりと自覚する。その事に何とも言えない自尊を感じるのだ。
滑稽である。
それは滑稽であるばかりか、時として醜悪ですらある。
ここから先は私の自己愛を垂れ流す。
しかし、私は滑稽な人間をのみ愛する傾向にある。救い難いバカ。それこそが私の心を捉える。
未成熟で愚かな人間の存在を赦す事が、私の処世術なのだ。
理解出来ない方には理解して頂かなくて結構だ。
私はその事で再びマイノリティになれる。
下らない文章であった。
さて、レッスンだ。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 小岩「Back in time」10周年ウイーク突入(2020.03.19)
- 4月17日(水)セッション昼と夜で二つ(2019.04.16)
- 今度の月曜日はサックスの登さんと(2019.03.15)
- 連絡とりづらくなっております、のお知らせ(2019.03.03)
- 一人ゲネプロ大会(2019.02.26)
コメント
奥深いね。
私も若い頃は「周りと違う自分」がちょっと愛しいぐらいに思ってたけど、
おばちゃんになったら、そうも言ってられなくなった。
保護者会とか町内会とかの場にいると人と違うとすごい違和感があって、苦しい。
ママ達が「○○だと思わない?」ってよく同意を求めてくるし、かと言って反発も出来ない。
保護者会に行くとそれなりに話はしてくるけど馴染めない…。
友人達と飲んでたりするとママ友なんていらね~!!とか全然ママ友いない~!!なんて大声でしゃべって笑ってるけど、やっぱり保護者会とかに行くともう少し努力してママ友作ろうかな…なんて思ちゃう。
自分の子供が他の子と比べて見た目や行動や学力とかが少しでも違うとそれも気になっちゃう。
その他大勢と一緒だと安心してしまうんだよね。
そのくせ服とかは個性的なモノを着せたがったり…。
でもね、やっぱり歳とって考え方が保守的になったよ…。
それが良いのか、悪いのか…。
投稿: りん | 2007年9月25日 (火) 12時20分
りんさんへ
この書き込みは、ぼくも色々と考えさせられました。お母さんたちの世界って、結構「村社会」に近いところもあるんだなあ、って思ったり。
そうか、異端が排除されるんですねえ。
でも、一番考えさせられたのは、「自分の子供は平均的であってほしい」という願いの部分。もちろん個性は認めつつも、そういう風に思う部分、ってみんな多かれ少なかれあるんだろうなあ。
うん、考えさせられました。
投稿: ふくしまたけし | 2007年9月26日 (水) 10時06分