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2007年9月 2日 (日)

原付に嫉妬

大学の後輩だった(←過去形。入学年度は私が20世紀、彼が21世紀だったが、卒業年度は共に2006年度なので最終的には同級生)友人からふと一通のメールが届く。

「今、原付で北海道行って来て帰ってくる途中です。明日東京寄るんでメシでも行きませんか?」と。

快諾。気を付けて来いよ、とメールを返し、明日は彼と夕食を共にする約束をした。

同時に、私は何とも言えない居心地の悪さを感じた。それが何故なのかは、私にははっきりとわかっていた。すぐにピンと来た。けれど暫くは自分でも認めたくないような、極めて無価値な自尊を自覚した。翻って、再びその根源を見つめた。

私は、彼に嫉妬していた。

原付で京都から北海道まで行く事に、さしたる意味はない。旅は人を大きく成長させる、などとはよく言うが、旅ごときで成長出来るほど我々人間の業は浅くはない。北海道まで行くのに文明の利器である飛行機や電車を使う事は、原付で行く事と比べて大差はないし、いささか不便に過ぎる北海道原付旅行、その行為を英雄的行為だとは微塵も思わない。

では私は何故かくも彼に対して嫉妬の念を覚えるのか。

私は、自らをずっと嫉妬深い人間だと自覚していたが、最近どうやらそうでもなかった事に気が付いた。無論人並みに様々な他者に嫉妬や羨望の念を抱く事はあるが、どうやら私はさして嫉妬深い方ではない、という自己認識に至ったのだ。どこか根本的な所で私は「彼は彼、我は我、されど仲良し」と考えている部分がある。様々な事を諦め続けた結果なのかも知れないが(例えば相互理解とか)、良く言えばマイペースであるし、悪く言えば浅はかである。つまり思考に深みがない。他者の感受性に対する想像力が貧困なのだ。平たく言えば思いやりがなく我が儘だ、という所だろうか。自虐は適度に留めておくとして。

さほど他者を気にしないタイプである私が、彼に対して覚えた嫉妬。それは、無価値な事に過剰なエネルギーを注ぐ、彼のとった無意味な心意気に対してではないのだろうか。

何が無価値で何が無意味か。それは私的な価値観に拠るのではないかという指摘もあるかも知れないが、前提としての私の意見は、万物が無意味であり万物が無価値である、という事だ。それは決して否定的な意味ではない。寧ろそうあってほしい、という願望にも誓い。

仮に万物が無価値、無意味であるならば、そこに付与された価値や意味というのは、極めて表面的に過ぎやしないか、というのが私の極論的持論である。

酷く大雑把に言うが、価値や意味を決定付ける基準は大方善悪の基準に拠り、善悪の基準は大方多数決の論理に拠る。多数決というシステムを使用している以上、私的価値観という反多数決的な思考システムとの間に決定的な矛盾が生じる。

少し自分でも話が解りづらくなってきた。簡単に整理しよう。

つまり私は「正しさ」が嫌いなのだ。或いはそれを信じていない。

正義を信じる者が、自らの正義の名の元に悪を断罪する。それは、私には「正義と悪」の闘争ではなく、単に多数派が少数派を排除する為のパワーゲームにしか見えないのだ。アメリカ側諸国とイスラム諸国のいざこざなど、面白いほどにその典型ではないだろうか。

閑話休題。ならば、私の友人が行なった北海道原付旅行は、そういった価値や意味が付与されていない、正しく純然たる無意味な行為である。

無意味、無価値な世界に何の躊躇もなく足を踏み入れる事の出来る人間というのは、天才というレベルでしか存在しえない。我々凡人は、感覚としては寧ろ「跳ぶ」。その世界に、なんの気なしに「行く」のではなく、えいやっと助走をつけて「跳ぶ」のだ。

北海道まで原付で行った彼は、ほんの少しだが「跳んだ」に違いない。無意味な意味と無価値な価値で溢れた世界から、もう少しミーニングレスでノンバリューな世界に。

それを私は羨んでいたのではないか。

結局私もそうやって跳びたいのではないか。

アイキャンフライ。

ゴートゥ涅槃。

いやいや。

眠れない日が続くと下らない事ばかり考えてしまって困る。今日はギャグも入れ忘れた。

仕方ないので、今から猥歌を口ずさみながら眠りにつきます。

おっちゃんこの芋何の芋

あ、それ

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