飽きた末に
昼からピアノを弾く。今日は純粋に練習だ。
大体日々やる事は決まっている。文字通りルーティンワーク的な部分も大きくあるのだ。
しかし、ルーティンは時として新鮮さを失う。
仕方ない、それでもやり続ける。
すると次第に「飽きる」。わかりやすい人間の脆さの一つだ。人間は、よく「飽きる」のだ。
私も今日、日々の練習にいささか「飽きて」いた。
そういう時はどうするか。
やらない。単純な事だ。
つまらないからやらない。楽しくないからやらない。とても単純なロジックだ。私はとても我儘なのだ。
しかし、漫然と時を浪費するのは、罪悪感がそれを阻止してしまうので無理である。ピアノを弾き続ける。
今日、重要なポイントは、私は日々のルーティンとしての練習に一時的に飽きた、という事であって、ピアノを弾く事その事自体には全く飽きてはいなかったのだ。
何を弾こうかな、今日は夕方まではジャズはやらんぞ、と強く心に決めていた為、ジャズ以外の譜面を家から探す。出てきたのは「となりのトトロ」の曲集。そうであった、私は大のトトロマニアであった。そういえば昔こんな譜面を買ったのだった。思い出してパラパラとめくる。
私は譜面を読むのがとても苦手だ。しかし、コードと簡単なメロディ譜ぐらいならば読める。適当にメロディを追いながらコードワークで伴奏をつければ、それなりの体裁は整えられる。誰に聞かせるわけでもなく、自分で楽しんで弾くだけなのだから、細かい事は考えなくて良いのだ。
弾いてみたのは、「風の通り道」という曲。
自分で弾いてみて驚いた。
何と「良い曲」なんだろうか、と。
ノスタルジックな雰囲気の中にもそこはかとない荘厳さが漂う。そして独特の哀愁を帯びたメロディライン、コード進行。私も我を忘れてピアノの鍵盤を叩いた。
その後は、見つかった譜面を片っ端から弾いていた。
たまの「さよなら人類」は、今なお秀逸だと感じた。シュールな詩の世界もそうだが、メロディラインには童謡のような素朴さとペシミスティックな悲しみが同居する。
そして、その後弾き始めたのは、私が音楽上かなり強い影響を受けた中島みゆきの楽曲群だ。
はからずも鳥肌が立ったりする自分にいささかの羞恥心すら抱く。中島みゆきの楽曲とは、かくも私を感動させるものなのか、と不思議な感情を抱く。
歌姫
杏村から
ホームにて
親愛なるものへ
夜曲
いやはや、どれも珠玉の楽曲である。私にはこれらの楽曲に対する非難の言葉を紡ぐ事は不可能である。全ては私の記憶であり、私の意識であった。つまり、それらは私の肉体の中で今も生き続けていたのだ。
どうしても中島みゆきの御姿を拝見いたしたく、youtubeを弄ぶ。
いくつか発見した中から私が見たのは、「ヘッドライトテールライト」と「永遠の嘘をついてくれ」の映像。
取り分け後者、「永遠の嘘をついてくれ」の映像には鳥肌が立ちっぱなしであった。
君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでも種明かしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
何もかも愛ゆえの事だったと言ってくれ
何と切ない情景であろうか。中島みゆきが日本語という「可能性の手段」を用いて切り取ったその風景は、嘘にすがる脆弱な人間の姿であった。
傷ついた獣たちは最後の力で牙を剥く
放って置いてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならの代わりに
やりきれない事実の代わりに
苦笑。失笑。人間はそうやってやりきれない情景を冗談にして誤魔化す。そうして自分の感覚を鈍磨させる事で、かろうじて生きているのだと言わんばかりのこの言霊たちに、私はしばし圧倒される。
永遠の嘘をついてくれ
出会わなければよかった人などないと笑ってくれ
限りない自己否定は、限りない自己肯定と同義である。中島みゆきの言葉たちには、そうしたカタルシスがある。彼女の歌はどこまでも自己肯定的な「赦し」を孕んでいる。
私は彼女の事を、音楽家としてのみならず、「詩人」としては最高の部類に今も居続ける人だ、と感じている。
今日は様々な怠惰の紆余曲折の中で、中島みゆきの素晴らしさを再確認するに至った。極めて有意義な、怠惰であった。
では、気力も充実したところで、今からはジャズの道に戻ります。
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