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2007年7月 4日 (水)

トンマな本質

雨の京都にはムード歌謡がよく似合う。そんな事を考えながら、白川丸太町のドトールで美味くないコーヒーを啜る。

人と待ち合わせをしているのだが、手ぶらでやって来てしまった為、極端に手持ち無沙汰だ。仕方なく携帯電話を弄び、ブログに文章を送る事で如何ともし難い暇を潰す。

土地柄もあるのかも知れないが、朝のコーヒーショップの客は、年齢層が異常に高い。老人達が喋る京都弁には独特の面白みがある。若者の喋る京都弁にはない面白みだ。手段としての言語が、手段として以上の意味を帯びる。そこには歴史的背景がある。何とも不思議な感覚である。

京都は今月から祇園祭のシーズンに入るらしい。私は九年間も京都に住んだにも関わらず、祇園祭へ行った事は一度もない。祇園祭に限らず、京都独特の祭に参加した事は私は一度もないのではないだろうか。

私は京都の伝統的な祭りに関して、いささか否定的な見方をしている所がある。それは、「高尚さ」を装った雰囲気ゆえではないだろうか。

MJと言えば私にとってはマイケル・ジョーダンではなくみうらじゅん氏なのだが、そのみうら氏は「とんまつり」なる「トンマな祭り」を全国津々浦々より発掘して衆目に紹介するという、極めて有意義な活動を行っている。私は彼のこの活動からある仮説に辿り着いた。それは「祭りの本質とは、実はかなりトンマなのではないだろうか」という仮説である。

祭りの根源的な目的を「日々の生活の中で蓄積された心的疲労或いはストレスを、ある特定の場において爆発的エネルギーへと還元させる共同作業の場」と仮定するならば、その場はトンマになってしかるべきである。童貞少年達が日々の性欲を砂浜で爆発させながら「うおおおおお!セックスしてえええええ!!」と叫びつつ爆走するシーンがかなりトンマであるように。

確かにそれはトンマである。しかしそれは或る意味では祭りの本質に限りなく近いのではないだろうかと私は考えている。京都の種々の伝統的な祭りに私が心を惹かれないのは、その「トンマさ」の欠如ゆえである。

祇園祭の絢爛豪華な鉾には、トンマさが感じられない。故に興味が湧かない。比して、岸和田のだんじりの神輿には何とも言えないトンマさがあり、私の心を擽る。一度訪れてみたい。

私がこれまでに体験した一番素敵な祭りは、インドの「ホーリー」という祭りである。神聖さを連想させるその名前とは裏腹に、その祭りはトンマそのものである。人々はその日ばかりは「バングラッシー」なる大麻ジュースを大っぴらに煽り、酒を煽り、そして何故かピンク色の塗料を人にぶっかけ合う。意味がわからぬほどのハイテンションが街を覆う。私も参加した。色々な飲料を飲み過ぎて、あまり記憶は定かではないが、とにかく楽しかった。ちなみにこの祭り、劣悪ガイドブック「地球の歩き方」には「ホーリーの日には危険なので街中には出ないように」などと紹介されているが、何故そんなつまらない事を言うのか。インド人の愛すべきトンマさを実感する絶好の機会であるのに。

待ち合わせの時間がやって来たので筆をおく。

最近訪れた祭りでは、私の地元の「西小岩まつり」が楽しかった。何故ステージ上でボディビルショーがあったのかは、完全に謎である。

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