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2007年7月

2007年7月26日 (木)

8月と9月

久しぶりに書こうか、ライブスケジュールの告知を。

ずっと書きたかった。ライブがしたくてしたくてたまらなかった。

息が出来ないみたいだった。

ライブが出来る。嬉しい。素晴らしい。人生は決して悪い事ばかりではないのだ。

では、以下。

2007年8月

8月23日(木)高槻JKカフェ
tel 0726-71-1231
http://www6.ocn.ne.jp/~officejk/cafe/jkcafe.html
sax:黒田雅之 pf:福島剛
本当に久しぶりのライブ、第一弾は大阪高槻JKカフェから。先に言っときますが、間違いなく弾きまくります。サックスも吹かせまくります。終わったら、ビールを飲みまくります。
19:00~start  music charge:カンパ制

8月24日(金)北山 mojowest tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/ 
tap:SAM、川村隆英、tamango sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 pf:福島剛
何とも豪華なタップ祭り。3人ものタップダンサーと共演させていただきます。タップなので見た目にも愉しいのですが、かき鳴らされるビートは、いやが上にもテンションを上げてくれます。ヤワな真似はしません。
20:00~start  music charge:3500円(1ドリンク付)

8月25日(金)深草ざぶざぶ
tel 075-642-6348
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zabuzabu/
vo:岩井繭子 b:鶴賀信高 pf:福島剛
三日目は、入魂のヴォーカルトリオ。自分で言いますが、まゆこさんの歌の伴奏は、ぼくが一番うまいです。そして、この店の名物は、店主村上健三郎氏のドラム。運がよければ巡り会えます。
19:30~start music charge:1500円

8月26日(日)岩倉cafe jinta
tel 075-724-2534

http://www.cafe-jinta.com/
vo:市川芳枝 b:木村知之 ds:飛世昇 pf:福島剛
そして今回の関西遠征の最後を締めくくるのは、何とも豪華なこのメンバー。日本ジャズ界、ブルーズ界の至宝とも言えるヨシエさんのヴォーカルを、過剰に熱いピアノトリオに乗せてお届けします。是非来て下さい。気に入らなければチャージは返します。それぐらい愉しみなライブなのです。
19:30~start music charge:2000円

2007年9月

9月3日(月)水道橋 東京倶楽部
tel 03-3293-6056
http://www.tokyo-club.com/intro/
vo:天宅しのぶ vo:水沢加音子 b:日下部史貴 pf:福島剛
やっと東京での初ライブに漕ぎ着けました。素晴らしいヴォーカル二人をお迎えして。歌心とビート感抜群の日下部氏のベースも必聴です。ああ、もうひたすらにスイングしてやる。
19:40~start music charge:1000円/1ステージ

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2007年7月23日 (月)

紛失劇

携帯電話を失くしました。

酔っ払って失くしました。

回線停止の手続きは既に済ませましたが、ものすごく落ち込みます。

特に、電話番号やメールアドレスは携帯電話に入れていたものが殆どなので、それらが全て紛失した事で、極端に友達が減ると思います。

もう一台、サブの携帯としてPHSを持っていたので、今後はそれを代わりに使っていこうと思いますが、かなり不便です。電話帳には3件のメモリーしか入っていないし、メールは出来ないし・・・・・・

メールは、ホットメールに下さい。

whatdisay@hotmail.co.jp

です。

PHSの番号を知りたい方がいたら、上のメールに連絡ください。送ります。

ああ、もう面倒くさい。死ねばいいのに。

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2007年7月21日 (土)

愛憎入り交じりつつ

故郷に対して、愛し過ぎるがゆえに悪態を吐きたくなる時がある。

救えない街だ。

終わっている。

ゴミだめもいい所だ。

何故だろう、私にはまるで悪気はない。小岩という街に対して、悪態を吐く時、私はひどく穏やかな気持ちになる。

先日の事だ。行きつけの立ち飲み屋で私は酒を飲んでいた。

初老の男性が横に立った。今日は博打に負けた、と言う。パチンコですか?と私が問えば、彼は競輪だ、と答える。3番が落車しやがった。彼が言う言葉に私は適当に相槌を打つ。

彼は、カウンターの下で右手の小指を立てた。

今日競輪勝ったら、コレ買いにいこうと思ってたんだよ。

残念そうな彼の顔から、彼が本当に買春を楽しみにしていた事がわかる。

残念でしたねえ。大丈夫ですよ。女の子はいなくなりませんよ。ちゃんと待っててくれますって。

私も話を合わせる。

オレはさあ、酒よりもタバコよりも女が好きなんだよ。金があれば毎日出したいよね。

彼は卑猥な腰つきを見せてくれる。

半袖の脇から派手な刺青が見える。

腐った街だ。

救いようがない。

でも、私は小岩が好きだ。

なかなか離れられない。

一杯210円の生レモン酎ハイを煽った。

良い、酒であった。

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2007年7月18日 (水)

CDH

チビ(CHIBI)、デブ(DEBU)、ハゲ(HAGE)の頭文字である。このCDHについて少し。

先日、小学校と中学校を共にした友人たちと集まって酒を酌み交わした。メンバーは私を入れて四人。全員が昭和54年から55年生まれの27歳である。頻繁に会う奴もいれば、そうでない奴もいる。私たちは、確実に肉体的な下り坂にいた。

CDHのいずれかの要素が、我々に確実に内在されていた。内訳は以下の様である。

集まった四人の人間を私、Y、U、Nとすると、CDHの分布は

私→CとD

友人Y→H

友人U→D

友人N→CとH

という具合であった。CDHの三冠王こそいなかったものの、三者三様に、肉体的な下降曲線を、その容姿に顕現させていた。

現時点で一番驚いたのは、友人NのHである。私が知るNの額の位置は、もっと手前にあった。おお、何だ、そのヒヨコのような額は。友人NのHは、前方から来ていた。

比して、友人YのHはつむじ周辺から来ていた。前方も、前髪をまくしあげれば若干心もとないのだが、それよりも前かがみになった時に見えるつむじ周辺には、何とも言えない寂しさが漂っていた。

友人UのDは、最近では少しマシになったようだが、数年前までは三桁目前という体重をキープしていたとの事。身長170cm台の男が100kg弱とは、いささか太り過ぎだ。

私は、Cはどうしようもないとして、Dが困る。私も数年前から比べれば、確実に10kgは太っているのだ。なかなかに笑えない話である。

さて、このように、男は歳をとるに従って、CDHいずれかの要素を孕んでいく。世に言う「汚いオッサン」へと着実に近づいていくのだ。

ん?

待てよ?

あれ?

何かおかしくないか?

「汚いオッサン」?

汚くねえよ!!!!!!!!

若い頭の悪い女、いや、女という名前の家畜がよくテレビなどで太ったオッサンやハゲたオッサンを見て、「うわあー、キモかわいいー」なんて言っているのを目にする事がたまにある。貴様らに「かわいい」などと言われる筋合いもなければ、ましてや「キモい」などという言葉を投げかけられる必要性は私には一切わからん。試験管を入れてから割るぞ(←どこに、だ・・・)

30歳を間近に控えた男たちが四人も集まって、全員がCDHの条件に何かしら合致したのだ。つまり、これは自然な生物学的成長或いは変化と考えて差し支えあるまい。自然な生物学的変化を「キモい」などと罵られてなるものか。

声変わりをしない男など稀なのだ。

股間に毛が生えてこない男など稀なのだ。

罵るなかれ、若い女たちよ。

そして、ここまでの私の極めて論理的な研究から一つの結論が導かれる。

CDHを自然な生物学的変化(声変わり、陰毛の発毛などと同様の)として位置づけた場合、CDHのいずれの条件をも満たしていない成人男子というのは、声変わりもしていなければ陰毛も生えていない成人男子と同程度に稀少である。

以上の結論だ。

つい、ブログなどで発表してしまった。私の太っ腹な性格は、こういった時にタマに傷である。近々マサチューセッツ工科大学とオックスフォード大学の研究員が、私のこの新発見について色々とインタビューに来るだろうが、その折には私は

「試験管を入れて、中で割るぞ!!」

としか言うつもりはない。

科学の発展には、私も大分貢献してしまっている。少し自重する事にする。

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2007年7月17日 (火)

african piano

african piano
先週の事なのだが、金もないのにまたレコードを買った。

いくつか買った中で気になった一枚を紹介したい。

Dollar Brand「african piano」。勿論、Dollar Brandとは私が当ブログの中でも度々紹介する偉大なピアニスト、Abdullah Ibrahimの改名前の名前である。

彼のこのレコードを聴くのは、私は今回が初めてではない。以前にも聴いた事がある。そして、今回この「african piano」を改めて聴いて、私は一つの確信に至った。

「Dollar Brandは、怒っている」

何に対して怒っているのかはわからない。しかし、そのレコードに記録されているのは、紛れもなく「Dollar Brandの怒り」である。激しい、怒りである。私はそう確信した。

以前聴いた時にも、「ひょっとしたらこのDollar Brandという男は何かに対して激しい怒りを感じているのではないだろうか」という事を考えた。左手が規則的なリズムを奏でながら音楽を「創る」一方、右手の旋律は音楽を徹底的に「壊しに」かかる。過剰な不協和音、そして明確なリズムの意図的な放棄。全ての音が混ざり合いながら、ギリギリの所で「音楽」という体裁をとる。

私はモンクやエリントンの系譜を辿るピアニストとして彼を考えていた為、それは彼の意図的で冷静な創造性の所産だと思っていた。つまり、「或いは彼は怒っているのではないか」という私の気付きは、そういった付加的な情報により一蹴された。

初めて「african piano」聴いた時から数年。改めてそれを聴いた私は、当時の私の気付きが正しかった事がわかった。

今私は確信している。Dollar Brandという血気盛んな若いアフリカ人が一枚のレコードに記録しようとしたのは、溢れかえる彼の怒りである、と。

それは音楽的に優れたものなのかどうかは私にはわからない。少なくとも私はこのレコードを毎日は聴きたくはない。一週間に一度、いや、一ヶ月に一度で充分だ。それを聴くのは、彼の怒りに触れる行為である。体力と気力が、要る。

簡単になんて聴かせるものか。まるでDollar Brandはそう言っているかのようだ。

私は「今」のAbdullah Ibrahimの音楽を知っている。それは、慈しみ深き深遠な音楽だ。アーシーでファンキーな音楽だ。手放しに絶賛したい。私はAbdullah Ibrahimのピアノが大好きなのだ。彼は、怒る時期を経て、今の音楽性、更に言えば今の人生観に辿り着いた。

怒りを感じる事のない人間を、私は心底からは信頼しない。怒りと愛は、同じ源からやって来ている。

そんな事を思った。

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2007年7月14日 (土)

れいちゃんというらしい

どうやら私は酒のCMに弱いらしい。

購買意欲をそそられていて、ゆえに飲酒をしているのだという言い訳をするつもりはない。単純に、酒のCMに好きなものが多い、という話だ。

以前も書いたが、サントリー「ニューオールド」のCMが私はとても好きであった。「恋は遠い日の花火ではない」のキャッチフレーズの下、田中裕子と長塚京三がそれぞれにノスタルジックなドラマを見せる秀作である。「田中裕子、可愛い!!」と思うと同時に、私にとっては「あ、CMって面白いな」と思わせるきっかけとなった作品でもあるのだ。

最近の酒のCMで強烈に私の心を捉えたのは、ニッカウヰスキーのCMである。石田ゆり子が主演し、「女房酔わせてどうするつもり?」のセリフで私のハートを撃ち抜いた。どうするつもりって言われてもなあ…私は一人で照れた。そして石田ゆり子もいささか照れていたようだ。微妙な空気が二人の間に流れた。私がそっとゆり子の肩を抱くと、ゆり子が私に寄り添って来た。

「久しぶりね、こうして二人でゆっくりするのも」ゆり子が言う。

「たまには良いじゃないか。」私はゆり子を……

まずいまずい、妄想が止まらない。若干暴走した。

さて、最近、それらに匹敵する酒のCMが現れた。サントリーの「金麦」という発泡酒のCMである。

檀れい。

こんなにも破壊力のある女優がいたか。私は知らなかった。

決め台詞は、「あたし、金麦と待ってるぅー!」である。

待っていてくれ。他でもない私を待っていてくれ。私は君の元に帰ろう。

檀れい。今私の強く推す女優である。推測ではあるが、彼女は私の事が好きに違いない。今年の夏は彼女と思い出を多数作ろう。

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2007年7月 9日 (月)

自己暗示としての日記

久しぶりに音楽の話を。

最近ライブをまともに行えていないので自分でも忘れがちだったが、私は音楽家であるのだ、少なくとも自称は。最近その事を時折忘れそうになる。人から「今は何をして暮らしているのか?」と問われた折には私は愚かにも正直に「何もしていません」と答えそうになる時が多々あるが、そういう時こそ見栄を張って「お、お、お、お、音楽を少々…!え、え、ええ、ジャズなんぞを…!」としどろもどろになりつつも答えなくてはならないのではなかったか。私のように意志の弱い人間は、そうした一種の自己暗示でもかけておかなければ、楽な方へ楽な方へと流されてしまう。死ぬまで法螺吹きとして生きると決めたのだから、適当な嘘や法螺を私は吐き続けなければならない。

ウチにはテレビが8台もあるよ。ウチの猫は血統書付きで60万円もするんだよ。実はぼくはピアニストなんだ。

極稀に、嘘が本当になるのだ。

ライブや仕事が殆ど無いという無惨な状況がもたらすたった一つの利点に、基礎に立ち返った練習が徹底的に出来るという事がある。最近では、開き直って徹底的に基礎に立ち返って練習をしている。以下、最近の練習において気付いた事、再確認した事、絶望した事を列記しておく。備忘録的な役割として考えているので、読み手に対しては極めて不親切だろうが、そんな事は知らない。

・根本的な話だが、私のピアノ演奏は「雑」になりがちな嫌いがある。フレーズの一音一音が、もっとはっきりと際立たなければならない。

・フォルティシモの出し方には比較的自信があるが、ピアニシモを出す時にはまだまだ精神的に「ビビり」がある。ボリュームやタッチのコントロールが甘い。

・「ブルージィなジャズ」という最も得意とする分野においても、まだまだ語彙が乏しすぎる。一つの感情或いは一つの情景に対して、それを表現しうる語彙を増やさなければならない。

・私の手は小さいから、コードのアルペジオを3オクターブほどに渡って弾く時には指が届かなかったりする。指のくぐらせ方、またぎ方をもっと強化しなければならない。

・イントロ、エンディングのバリエーションに乏しすぎる。様々な状況に対応出来るように引き出しを増やす必要がある。

・私の集中力は大体一時間ほどしか連続的に持続しない。これを一時間半に延ばしたい。

・早く私を人前に出してくれ。

おっといけない、最後は本音が軽くこぼれた。簡単にまとめれば、「これまで自分で『出来る』と認識していた事を、更に正確に、更に高い水準で出来るようになる事」が目下の一番の課題である。また、一端自分の好みから少しだけ外れて、一般的にモダンジャズピアノの王道と言われる人達(例えばオスカー・ピーターソン、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ビル・エバンスなど)の模倣をする事も怠ってはならない。

ちなみに現在模倣中のチューンは

・オスカー・ピーターソン「酒とバラの日々」

・ウィントン・ケリー「枯葉」

・レッド・ガーランド「パーディド」

である。大学のJAZZ研の一年生がやりそうな曲を、今更ながら復習している。その中で新たに気付く事は山ほどある。つまり今更ながらにこうした事をやっている事を告白するのは、決して恥ずかしくない。

明日はきっと2〜3時間ほどしか練習は出来ないのだろうが、焦ってはいけない。

そして、最近少しずつではあるが私は確実にピアノが上達している。こうして自己暗示をかけていくのだ。

来年には東京ドームと日本武道館を満員にしようと思う。

無論、ニートとホームレスで満員にするのだが。

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2007年7月 6日 (金)

多分大丈夫

久しぶりに、得体の知れない不安感と苛立ちに襲われる。素面でいるからだろうか。

とりあえず今夜は「大丈夫」と10分に一度呟く事で乗り切る事にする。酒は飲まない。

また明日から「生活」が始まる。

大丈夫。

大丈夫。

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2007年7月 4日 (水)

トンマな本質

雨の京都にはムード歌謡がよく似合う。そんな事を考えながら、白川丸太町のドトールで美味くないコーヒーを啜る。

人と待ち合わせをしているのだが、手ぶらでやって来てしまった為、極端に手持ち無沙汰だ。仕方なく携帯電話を弄び、ブログに文章を送る事で如何ともし難い暇を潰す。

土地柄もあるのかも知れないが、朝のコーヒーショップの客は、年齢層が異常に高い。老人達が喋る京都弁には独特の面白みがある。若者の喋る京都弁にはない面白みだ。手段としての言語が、手段として以上の意味を帯びる。そこには歴史的背景がある。何とも不思議な感覚である。

京都は今月から祇園祭のシーズンに入るらしい。私は九年間も京都に住んだにも関わらず、祇園祭へ行った事は一度もない。祇園祭に限らず、京都独特の祭に参加した事は私は一度もないのではないだろうか。

私は京都の伝統的な祭りに関して、いささか否定的な見方をしている所がある。それは、「高尚さ」を装った雰囲気ゆえではないだろうか。

MJと言えば私にとってはマイケル・ジョーダンではなくみうらじゅん氏なのだが、そのみうら氏は「とんまつり」なる「トンマな祭り」を全国津々浦々より発掘して衆目に紹介するという、極めて有意義な活動を行っている。私は彼のこの活動からある仮説に辿り着いた。それは「祭りの本質とは、実はかなりトンマなのではないだろうか」という仮説である。

祭りの根源的な目的を「日々の生活の中で蓄積された心的疲労或いはストレスを、ある特定の場において爆発的エネルギーへと還元させる共同作業の場」と仮定するならば、その場はトンマになってしかるべきである。童貞少年達が日々の性欲を砂浜で爆発させながら「うおおおおお!セックスしてえええええ!!」と叫びつつ爆走するシーンがかなりトンマであるように。

確かにそれはトンマである。しかしそれは或る意味では祭りの本質に限りなく近いのではないだろうかと私は考えている。京都の種々の伝統的な祭りに私が心を惹かれないのは、その「トンマさ」の欠如ゆえである。

祇園祭の絢爛豪華な鉾には、トンマさが感じられない。故に興味が湧かない。比して、岸和田のだんじりの神輿には何とも言えないトンマさがあり、私の心を擽る。一度訪れてみたい。

私がこれまでに体験した一番素敵な祭りは、インドの「ホーリー」という祭りである。神聖さを連想させるその名前とは裏腹に、その祭りはトンマそのものである。人々はその日ばかりは「バングラッシー」なる大麻ジュースを大っぴらに煽り、酒を煽り、そして何故かピンク色の塗料を人にぶっかけ合う。意味がわからぬほどのハイテンションが街を覆う。私も参加した。色々な飲料を飲み過ぎて、あまり記憶は定かではないが、とにかく楽しかった。ちなみにこの祭り、劣悪ガイドブック「地球の歩き方」には「ホーリーの日には危険なので街中には出ないように」などと紹介されているが、何故そんなつまらない事を言うのか。インド人の愛すべきトンマさを実感する絶好の機会であるのに。

待ち合わせの時間がやって来たので筆をおく。

最近訪れた祭りでは、私の地元の「西小岩まつり」が楽しかった。何故ステージ上でボディビルショーがあったのかは、完全に謎である。

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